光影混ざれば、時力となる

@engelwing

第1話

光影混ざれば、時力となる


 女子校時代、『聖母マリア』がニックネームだった。教養のある私立校であったため、誰しもが差別に当たるニックネームかどうかを吟味して、それを相手に与える。みんなより少しだけ、他生徒と距離の合った私をいきなりそう呼んだのは、意外な人だった。


「白森さんは、まるで『聖母マリア』のようね」


 その人の教えによって、私は以後、聖母マリアと呼ばれるようになってしまった。そこから友達と呼べる距離でみんなと接することができて、今となっては感謝している。

 生まれてこの方、人を嫌いという感情を持ったことのない私は、人からも嫌われることがなかった。本当に人生において嫌いという眼差しを向けられたことがなかったのだ。


それが……


「きもちわり」


 ぼそっと、聞こえない声で言ったつもりなのだろうけど、私の耳には確かに届いてしまっていた。ただ、私は帰路に着いただけなのに、そう言われてしまった。友達と並んで、不快にさせるようなことを喋っていたわけでもない。今日はただひとりで歩いていただけだ。憎しみをぶつけるような鋭い目で私を睨みつける彼は、目立たない地味なタイプだった。見つけるだけでも、苦労してしまうような。

 その日はただ実家まで到着するのが、早く感じた。まるで時空が歪んだような、時と空間の部屋に閉じ込められて、ただそのことにおいて考えざるおえない状況、に置かれている気がする。嫌悪感を向けられたときのあの不快な気持ちを私は味わったことがなかった。初めての感情に、私は赤子に戻ったような初々しさを感じる。

 今まで、何をやっても成功してきたし、誰からも褒められてきた。実家はお金持ちで、習い事もたくさんさせてもらってきて、だからこの名門大学の敷地に立っていられた。だから、あの人もそうであると過信していたのだ。


『きっと、彼はそうではない』


私は彼を見て思った。彼の目は、死んだ魚のようだ。お金を持って生まれたとも、優しい家族に恵まれたとも思えない、濁った青色をしていた。そのような子供がいることは理解していたし、街で保護施設を見たこともある。そして、そのような環境下に置かれて、落ちていく人がいるとも知っている。きっと、私がここの門を通れることと、彼がここの門を通れることでは、同じ対価にしてよいものではないはずだ。自分の力で這い上がってきた彼と、人の力で名前を手にした私。

 なんだか、彼が少し気になって、明日目にできたらいいななんて、瞼を閉じたときもあの表情がよぎるのであった。


 なんと翌日、バス停から降りて駅の改札まで歩いていると、彼が背中を丸めて歩いているのが見えた。明らかにあの猫背と癖毛は彼だろう。少し歩を速めて近づいて、彼の後を追ってみる。駅にはダンボールを敷いた浮浪者の方が、何人も蹲っているのが見えた。こういう人たちに、何か支援ができたらなと思って度々この道を通るけど、結局できることは目を伏せることくらいだった。

 あれ、彼がいない。人混みの中キョロキョロと探していると、彼はホームレスの人の前にしゃがみ込んで、大きいリュックの中を漁りながら、笑顔を見せていたのである。


「田辺さん、おはようございます。あの、今日も、こんなのしか渡せないんですけど、俺もっと稼いで、良いもの食べてもらえるように頑張るんで!だから……だから、生きてください」


田辺さんは、心底嬉しそうな笑顔だった。彼が来てくれるのを毎朝待っているのだろう。なんだか、彼がどんな人なのか分かった気がした。胸の辺りが温かくなる。彼がホームレスの方々ひとり一人におにぎりやパンを配っているのを見て、見向きもしないで通り過ぎる私たちと違い、優しく笑いかけているのを見て、今までの人生で何か欠けていたものが分かった気がした。配り終えて手を振り、駅の改札に向かう彼の手首を掴んで、引き止める。


「あの!」

「うわ……っ!?」


彼は相当びっくりしたようで、尻餅をつかせてしまい、彼が立ち上がるのを手を出して援助する。彼は私の顔を見ると、やはりムッとした顔になった。


「なんか用です?」

「さっき、食べ物を配られてるのをみて……すごい素敵だなって」


彼は見られていると思わなかったのか、何をいうか迷っているようだった。視線を漂わせたあと、私の鎖骨あたりをじっと見ている。


「あの、よければ私も手伝っていいですか?」

「え?」


彼はまるで子供のように目をパチクリとさせると、私を指さして首を傾げた。私にできるの?みたいな意味だろうか。


「私だって、できます!!!アルバイトだって始めるし、自分の力で地面に立ってるあなたのことみて、私もそうでなきゃって、尊敬できたんです」


早口で捲し立てているのが面白かったのかけらけらと笑い始めた彼に赤面していると、彼はそんなことにも気付かずに右手を差し出す。


「よろしくお願いします、俺は西海時歩」


私も笑顔で手を差し出して協定を結ぶ。これで彼と私は、対等になったのだ。はじめて感じた胸の高鳴りを、彼と二人でもっと探しに行きたい。そして、私も彼みたいに本当の笑顔を向けられる人になりたい。


「私は……白森結星」


 名前だけ。本来はそうだった。こうやって、目を合わせて手を繋いでいれば、誰しもが同じ生命を宿した人間だとわかるはずだ。生まれが平等でないことは初めから明確で、平等なのは時間くらいであると。

 そして、人を助けるには勇気がいること。全てを助けられないこと。それを分かっていて行動している人がいること。そしてそれは伝播するってこと。

 彼は時間のようなひとね。全ての人を平等に助けようとしている。私も、彼のような人になりたい。全ての人から好かれるのではなく、全ての人を愛せる人へ。そして、彼にとって私もそうでありますように。

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