3 正義の徒
犬塚と別れた宮野たちは、一時間ほどかけて米田の元夫の光也との待ち合わせ場所に向かった。そのカフェは子どもが遊べるプレイエリアを備えた賑やかな店だった。三人は店員に案内されて、プレイエリアのそばの席までやってきた。一人の男がプレイエリアで遊ぶ子どもを見守っている。
「光也さんですか」
杉村が声を掛けると、警戒心を滲ませた視線が返って来る。光也はプレイエリアの子どもに声を掛けた。
「珠音、ちょっと遊んでて」
珠音と呼ばれた女の子は返事もしないで狭いボールプールの中に飛び込んでいった。感染対策用の透明なアクリルボードを挟んで一対三の構図で席につく。ここだけ見ると、まるで収容施設の面会所だ。
「お忙しいところ、すみません」
三人が頭を下げると、光也は「いえ」と短く答えた。淡々としているように見える。娘がいる手前、冷静な父親でいようと努めているのかもしれない。
「早速ですが、聞かせて下さい。陽菜さんと現在は連絡は取られていますか?」
「連絡は一切していません」
心を開きそうにない光也に対して、杉村は一歩踏み込もうとする。
「今の状況はご存じですよね。それでも、連絡を取ろうとはしなかったんですか?」
「彼女とは弁護士を通じてやり取りしていますから」
質問に答えるだけマシというくらい冷たい言い方だった。
「最後に会話を交わしたのはいつですか?」
「離婚調停の時です。家庭内での振る舞いを泣いて詫びていました」
「行方をくらますような変化などありましたか?」
恐る恐る聞いた杉村に、光也の鋭い視線が突き刺さった。
「変化ですか? 彼女は警察に入って変わってしまった。粗暴になり、人の心に土足に上がるようになった。一番許せないのは、彼女が珠音を妊娠した時です。あなた方は彼女の心身を気遣うどころか、苦言を呈してきた。捜査の人手が足りなくなり迷惑だ、と。彼女が変わったのはそれからじゃないですかね」
宮野は棘だらけのボールを投げつけられたような気持になってしまった。初めて耳にした言葉に宮野たちが言葉を失っていると、プレイエリアの方で珠音が声を上げた。
「パパぁ~! 見て!」
冷たかった光也の表情が優しい父親に切り替わる。珠音はたくさんのボールを空中に放り投げてそれを受け止めようとした。
「お~、いっぱい投げたね~」
子どもの頃は何をやっても褒められるものだ。大人になると褒められるのは難しい。そして、老化するとまた何をやっても褒められるようになる。光也はプレイエリアのクッション性の壁を跨いだ。
「私はね」光也は宮野たちの方を見た。「彼女のことを恨んでるわけじゃない。娘のために離れる必要があったんです。彼女はそう考えていなかったようですが。彼女をああいう風にしてしまったのは、警察という組織だとずっと思っています」
返す言葉を探そうとして、宮野はやめた。警察という組織に魂の全てを置いているわけではない。だから、犯罪の片棒を担ぐような馬鹿なことを真面目に考えていたわけだ。そういう人間からすると、光也に共感こそすれど反感を覚えることはない。
「とにかく、私は彼女の居場所については一切知りません」
珠音が叫ぶ。
「パパぁ、アブラ売っちゃダメでしょ!」
「ごめんごめん」
笑って珠音を抱きかかえる光也の目にはもう宮野たちの姿は映っていなかった。わずかな時間で刑事たちが得られたのは何だったのだろうか。
「ねえ!」
珠音が声を上げるのが聞こえた。珠音が宮野たちを指さしていた。
「ママのカイシャの人、帰っちゃうよ」
光也が困ったような顔で珠音の頭を撫でた。宮野たちは微笑みを貼りつけて手を振ると、店を出た。
宮野が運転する車の中は静かだった。いたたまれなくなった宮野は小さいボリュームでラジオを流し始めた。そのタイミングで後部座席の花坂がポツリと言った。
「警察ってまだまだ男社会って感じですよね」
「そうか?」
助手席の杉村がルームミラー越しに反応する。
「米田さんがあんな使われ方してるの見て何も感じないのなら、別にいいですけど」
「女性警察官は全体の十パーセント、二〇二五年には十二パーセントの目標も設定してるし、女性の署長だって──」
「そういう数字じゃないんですよ。私たちは数字を満たすための駒じゃないんですから。気づいてないと思ってます? 私たちに喋る時に馬鹿相手みたいな話し方してるのを」
杉村は宮野と視線をぶつけ合った。
「え? 俺らそんな感じだった?」
「ああ、いや、お二人は違いますよ。でも、ちょっと偉い人って、変に気を遣ってくるじゃないですか。受け入れてやってるんだぞ、みたいな」
杉村は花坂の顔を見ることができなくなって、宮野に言った。
「俺らも気をつけような……」
「なんで俺を一緒にするんですか」
「とにかく」花坂は手を叩いて二人の男を制した。「米田さんは今回の件で警察組織からも世間からも見放されたと感じてたかもしれません。それに、家庭からも……」
「全てを失った人間はどうする?」
杉村は問いを発する。宮野はハンドルを握る手に力を込めた。
「想像したくないっすね」
小さく流れていたカーラジオがニュースを伝えていた。
『──……県警は今日、小野寺さつき容疑者と七年前に交際していた男性を任意で事情聴取したと発表しました。警察では男性が小野寺容疑者の失踪と去年発生した凛久くん狂言誘拐に関係があるとみて捜査しています……』
ニュースを聞いたのを合図としたかのように、杉村のスマホが鳴った。スピーカーフォンの向こうから、犬塚の声がする。
『ニュース見たか?』
声を潜めている。
「ラジオで聞きました。倉橋ですよね? 見つかったんですか?」
『出頭してきた。さつきさん失踪でいよいよ逃げている場合じゃないと思ったらしい』
「それで、さつきさんの居場所は?」
『倉橋はさつきさんとは無関係だと訴えてる。つまり、さつきさんがどこにいるのかは知らないってことだ。昔、彼女は結婚詐欺師だと主張したのを聞き入れなかった警察を恨んでる』
「でも、なぜ事件の二日前にさつきさんのマンションの最寄り駅に?」
『手紙で呼び出されてた。倉橋もさつきさんたちの駒に利用されてたんだ』
車内はどんよりと空気が淀んでいた。宮野は十歳くらい老けた声を杉村のスマホに投げる。
「じゃあ、捜査は振出しに戻ったというか……ずっと振り出しというか……」
『いや、俺が伝えたかったのは、倉橋のことじゃない。結婚詐欺師のくだりで倉橋が牧瀬という名前を出したんだ』
「牧瀬って……」
『米田さんが追ってた詐欺師。事故死した男だ。さつきさんと牧瀬が組んで詐欺を働いてた。さつきさんが米田さんを狙ったのは、牧瀬が死んだことに対する復讐に違いない』
「犯罪者同士でそこまで義理堅いというのも変な話ですね」
杉村は顎をさする。
『牧瀬を死なせたばかりじゃなく、奴を轢いたトラックドライバーを米田さんが逃がしてしまったのもデカい』
「えっ、捕まってないんですか?」
電話の向こうの犬塚が怪訝な声を上げる。
『お前たち、特命捜査班じゃなかったのか? 牧瀬が死んだ件も特命事件のリストに入ってただろ』
三人は居心地悪そうに俯いた。古い事件から順に洗っていたせいだ。三人のポンコツの空気を察した犬塚が聞こえよがしに溜息を吐いた。
『なにしてんだ、お前ら。そんなんでまともに米田さんのことを調べられるのか?』
「できますよ!」
反射的に言ったが、その後に続く言葉を杉村が持っているようには見えない。
『光也さんに話を聞きに行ったんだろ。何を掴んだ?』
「米田さんと光也さんはお互いのために離婚を選んだことや米田さんが警察官になって変わってしまったこと、光也さんがそのことについて警察に良い思いを抱いていないということくらいは……」
『お互いのために離婚? 米田さんが家庭以外に帰る場所があったことも突き止められてないのか?』
米田に対するイメージが瓦解していくのを感じ、宮野は頭が痛くなりそうだった。
「どういうことですか? 不倫をしてたってことですか?」
『少なくとも、娘が生まれてから自宅に帰ってない時期があった。帰る方向が違ったり、自宅じゃない場所から連絡があったり……。二人の離婚の話が出てきたのは、それからのことだ』
外国にポンと置き去りにされたような感覚になって、三人は途方に暮れてしまった。
『なあ、お前らは米田さんのために動いてるんだろ。そんな体たらくじゃ、明らかにできるもんもできなくなるぞ』
三人は新人がされるような説教をひと通り食らうハメになった。犬塚が電話を切ると、車内はシーンと静まり返る。金のことばかり考えていた連中がようやく現実にぶち当たったのだ。
「どうします? これから……」
大人だと思っていた自分が全くの未熟だったと分かって、宮野は自分の考えを言うのが恐ろしくなっていた。初めからそうであればこの事件もボヤ程度で済んだかもしれない。
「最初から調べ直さないとダメそうですよね」
二人は花坂の意見に同意した。
宮野たちが県警本部に戻ると、ちょうど二人組の刑事がやってきた。
「榎本です。こっちは桐谷」
理知的な眼差しを持つ二人組で、宮野たちに比べると数段デキそうな男たちだった。
「お伝えしないといけないことがありまして」
神妙な顔で榎本が三人を先導する。開いている会議室に入るなり、榎本は単刀直入に話し始めた。
「我々はロサンゼルスの日本総領事館からの要請で栗林さんのことを調べていまして……」
「総領事館? ロサンゼルス?」
突拍子もない単語の羅列に宮野たちは面食らってしまった。ただでさえ犬塚の言葉が刺さっていたところだ。警察の訪問を受ける一般人よりも一般人だった。
「栗林さんですが、一月二十一日にロサンゼルス州のハリウッド・デルというところで死亡が確認されました」
榎本がさらりと言った。あまりにも湿り気がなかったので、宮野たちはドラマみたいに「え?」と聞き返してしまった。桐谷が事件の資料を配る。事件の内容は頭に入っているのだろう、榎本はそのまま何も見ずに先を続けた。
「現地警察によれば、栗林さんは民家に侵入。住人が警告したにもかかわらずナイフで襲いかかろうとしたため、銃撃を受けて死亡した模様です」
「あの……」想定外すぎて花坂は笑ってしまった。「何かの間違いじゃないですか?」
「これがその民家の防犯カメラの映像です」
桐谷がそう言ってタブレットで無音の映像を再生する。荒い画質だが、一人の女が庭に現れ、画面外の誰かとしばらく何かを言い合っていたようだったが、やがて手にしたナイフで飛び掛かろうとした。しかし、数歩歩いて膝から崩れ落ちる。
「この映像だけじゃ米田さんだとは……」
杉村が言いかけるが、榎本は冷静に断言する。
「その資料にもある通り、現地の警察が栗林さんだと確認しています」
資料は彼らが作成したのだろう、米田の警察手帳の顔写真と共に様々な情報が記載されていた。その中には、遺体の写真も含まれていて、化粧気と生気のない顔は三人が見たことのない姿だった。
「栗林さんのことを調査していたんですが、あなた方の名前が挙がりまして、探していたんです」
未知の出来事を既成事実として突き付けられるのは恐ろしいことだ。杉村は目をパチクリとさせた。夢じゃないことを確かめて改めて問い掛ける。
「これは本当のことなんですか?」
「ええ、残念ながら」
宮野の目が資料に記載されている一人の名前に留まった。
「デビッド・ピアースが引っ越して間もない家で銃撃……」
「え?」
花坂が慌てて資料をめくる音がする。榎本は言う。
「現地の警察は、栗林さんが古い情報を持って現場となった家まで移動したと見ているようです」
「米田さんはデビッド・ピアースの家に乗り込もうとしていたということか……」
杉村の言葉は二人の後輩に大きな波を与えた。
「全てを奪われた復讐に……」
そう言う宮野に榎本が食いつく。
「どういうことですか?」
「米田さんは今回の件で刑事としての立場もお金も社会的信頼も全て奪われました。それが全部詐欺師たちに仕組まれたことだと知ったら……」
「それに」花坂が続く。「米田さんは家庭での問題も抱えていました。離婚調停で親権を失って、もうこれ以上失うものがないというところまで行ってしまった」
「世間からも総攻撃を受け、正常な判断ができなくなっていた可能性は否定できません。きっと米田さんは自分の信じる正義を執行しようとしたんです。それは警察組織にいたのでは、できないことだったんだ」
杉村が締めくくると、二人の刑事は息をついた。
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