2 価値あるもの
杉村はタブレット操作して、別の映像を呼び出した。どこかの路上を映したものだ。
「これは?」
「さつきさんのマンションの近く。十一月二十一日の昼前のものだ」
ブルゾンを着た細身の男が遠くの角を曲がるのが数秒だけ映り込む。杉村は映像を止めて、男の持った物に指を向けた。
「カーキ色のボストンバッグ」
めいっぱいまで拡大すると、持ち手からネームタグがぶら下がっているのが確認できる。
「身代金が入っていたのと同じタイプのバッグか。よく見つけたな」
「同じタイプじゃなくて、この中に五千万円が入っていたはずだ」
「なんで言い切れる?」
宮野が答える。
「二十一日の昼前、米田さんは外を見回りすると言って出て行ったんです。米田さんがバッグの中身をすり替えたのだとしたら、金の入ったバッグは車のトランクの中にあります。誰にも邪魔されずに誰かにバッグを渡すことができるんです」
「つまり、さつきさんの部屋に偽物のバッグがあって、本物がこっち?」
岸がタブレットを指さした。杉村がそのタブレットをすくい上げた。
「これだけじゃない。周辺の映像を調べたところ、この男が入って行ったビルも分かった」
杉村はストリートビューでそのビルの外観を表示させる。第四吉野ビル。白い外壁のありふれたオフィスビルだ。
「この男はここで何を?」
「それはまだ分からないが、三十分後に男はビルから出てくる」第四吉野ビル近くの防犯カメラの映像では、男は手ぶらで歩いている。「そして、またさつきのマンションの近くまで行ってる。で、その五分後に米田さんはさつきさんの部屋に戻ってくる」
さつきのマンション近くのカメラに米田の姿が現れる。そのままエントランスに吸い込まれていく様子がカメラに収められていた。岸は複雑な感情を溶かした息をタブレットに吹きかけた。
「この男は誰なんだ?」
「今はそれを調べてるところだ」
タブレットのカバーを閉じて、杉村は答えた。何かは分からないが、何かが進行していることだけはここにいる誰もが感じていた。
「これは俺の考えなんですけど」宮野が言う。「米田さんは男に金を渡して、何かを受取ったんじゃないでしょうか?」
相変わらず首を捻るのは花坂だ。捻りすぎて疲労骨折するかもしれない。
「男は何も持ってませんでしたけどね」
「ポケットに入るような物かも。それこそ、ネームタグ入れに入るような大きさの」
杉村は腕を組んで宮野の言葉を吟味していた。
「それを最終的にさつきさんに渡した?」
天井を見上げて考えを巡らせていたらしい花坂が口を開く。
「さっきの話だと、さつきさんたちは米田さんから和解金を騙し取ろうとしてたんですよね。だったら、身代金の五千万円も回収しないといけないじゃないですか。米田さんが受け取ったのは、五千万円分の何かってことになりませんか?」
「名刺くらいのデカさだろ? そんなものあるか?」
杉村の一言で、宮野の頭の中の検索システムが重い腰を上げる。金のこととなると処理能力が上がる宮野の脳はすぐに検索結果を出力する。
「キャッシュカードとかクレジットカードですかね?」
「まあ、それが何なのかは、ぶっちゃけどうでもいい」杉村はぶった切る。「さつきさんと米田さんがどこに消えたのかってことが重要だろ。さつきさんの方は捜査本部が追うだろうから、俺たちは米田さんを追うしかない」
「どうやって手掛かりを掴みます?」
宮野が聞くと、杉村はまるで切り札でも取り出すかのような眼差しを見せた。
「米田さんの旦那さんに当たってみるしかない。……元旦那か」
杉村の後輩たちが妙な空気をまとい出すと、岸は怪訝そうに目を瞠った。
「何かあるのか?」
「警察をよく思ってないんだ。だが、もうそんなこと言ってる場合じゃないな」
「どこ行っちゃったんでしょうね、米田さん」
花坂は寂しげに窓の外に目をやった。彼女の問いに答える者はおらず、この密談も終わりを告げた。帰り支度をする杉村は岸に目を向けた。
「結局、巻き込んですまなかったな」
岸は首を振る代わりに微笑んだ。
「俺さ、子どもの頃から警察小説よく読んでたんだよ。警察は俺にとってヒーローだった。ヒーローは掟を破るものだろ?」
杉村はじっと黙っていたが、やがて笑みを浮かべた。どこか申し訳なさそうに、しかし、嬉しそうに。
「助かったよ」
それだけを言った。
年が明けても、米田の後任はまだウワサすら立たなかった。そして、今、仁王立ちして宮野たちを厳しい目で睨みつける捜査二課の刑事がいる。犬塚だ。誰だそれという読者諸君もいるかもしれないが、記憶力に長けた方には懐かしく感じる名前かもしれない。そうでないのならば、今すぐ冒頭に戻れば五分もしないうちに復習ができる。
「何か探ってんのか?」
お馴染みのあの狭い会議室にドスの効いた犬塚の唸り声が響いた。杉村はキョトンとした顔を返す。
「ええと、どういうことでしょうか……?」
「第四吉野ビルの管理者に聞き込みをしたらしいな」
杉村は両脇の後輩たちと顔を見合わせて、すぐに白を切る場面ではないと察した。
「まずかったですか?」
犬塚は溜息をつきながら椅子を引いた。丸みを帯びた身体を受け止めて、椅子が小さく悲鳴を上げた。
「あのビルに入ってる岡本商会にはCIがいるんだよ」
CIとは秘密情報を提供する人間のことだ。誰も口に出して言わないが、情報を得るために多少のあくどいことを水に流してもらっている連中のことでもある。そういう人間を探っていると知られれば、警察としては情報源を失うことになりかねないし、最悪のケースでは、ある程度の犯罪を見逃しているという事実が公然と流されることも考えられる。宮野たちは申し訳ない思いをアピールするために俯いた。
「何かあったのか?」犬塚には責め立てる様子がなかった。「米田さんのことか?」
ハッと顔を上げる宮野たちに、犬塚は笑った。
「お前たち、狂言誘拐事件の捜査から外されただろ。で、米田さんは行方知れず。そんな時に探りを入れてるんだ。気づかない方がおかしい」
さつき失踪後に警察は凛久くん誘拐がさつきたちによる警察への詐欺であることを公表した。警察は被害者だと世間に喧伝することで、ずっと続いていたバッシングを鎮静化するのがだった。当たり前のことだが、無能だというレッテルを剥がすことは叶わなかった。今、凛久くん誘拐事件は一課と二課がタッグを組んで捜査に当たっていた。
犬塚の言葉に観念した三人が事情を話すうちに、犬塚はどんどん表情を曇らせていく。
「米田さんは岡本商会と何度もやり取りを行ってた。詐欺師の動きに一番詳しいのは詐欺師だからな。だから、こっちからの頼みにはある程度までなら応えてくれるだろう。おそらく、現金五千万円と引き換えに暗号資産のペーパーウォレットを受け取ったんだろう」
「ペーパーウォレット?」
杉村が鸚鵡返しする。一方で宮野は、あー、と声を上げていた。
「暗号資産は保管方法がいくつかある。パソコンのハーディスクに入れておいたり、クラウドに置いておいたり、取引業者に管理させたり……だが、そういう方法ではハッキングなどの被害に遭うことがある。そういう被害から暗号資産を守るために、ネットから完全に切り離した状態で保管するやり方の一つがペーパーウォレットだ。暗号資産はアドレスで管理される。そのアドレスを二次元コードに印刷して紙で保存するんだ。絶対にハッキングを受けることはない。まあ、紙になるわけだから、普通の金と変わらない。失くしたり盗まれたりすれば終わりだ」
「そんな小さいカードになるんですか?」
花坂が聞くと、宮野がうなずく。
「クレジットカードくらいのカードにできるんだよ。そうか、それをネームタグに挟んでさつきさんに渡したのか」
「岡本商会はマネーロンダリングもやってる。米田さんがそれを利用しようとしたとしても不思議じゃない」
「米田さんはさつきさんたちにいいように使われてたってことですか……」
心底残念そうに花坂が言う。ますます眉間の皺を深くするのは杉村だ。きっとこの件が終わった頃には刑事っぽさが何割か増すだろう。
「そこまでして数百万を騙し取るだけっていうのが、どうも理解できないんですよね」
犬塚が表情を固くする。
「俺が言いたかったのは、そのことだ。もしかしたら、裏に何かがあるかもしれない」
「何かとは?」
「小野寺さつきたちは、この手口を見る限り、十中八九詐欺師だろう。米田さんに恨みを持っていた可能性もある」
「じゃあ、恨みを晴らすためにこんなことを?」
「物語の視点を変えてみろ。主人公は詐欺師側だ。自分たちをどん底に陥れた刑事を失脚させて金も奪う……コンゲームとしちゃ、なかなかの復讐劇だろ」
「お金よりもこの状況を生み出してボロボロにさせるためにここまで手の込んだことをしたということですか……」
宮野が言うと、犬塚はうなずいた。
「俺たちの方でも探りを入れてみる。お前たちはどうするつもりなんだ? もう岡本商会を探るようなことはするなよ」
杉村が腕時計に目を落とす。
「実は、米田さんの元旦那さんとこの後に会う約束を取り付けたんです」
意外そうに目を丸くした犬塚。思ってもみなかったというように、三人の刑事を見つめた。
「光也さんと? よく話を通したな」
「何度もお願いをして」
「米田さんの行方の手がかりになればいいが……。離婚調停の後は全く連絡を取り合っていないらしいから、難しいかもしれないな」
「それでも、俺らには手掛かりがそれくらいしかありませんから」
最も可能性の高い米田の実家を当たった宮野たちだが、何の情報も得ることはできなかった。米田は手を尽くして行方をくらましているようにすら思われた。
警察は今も米田の失踪を認識しながらも捜索の素振りすら見せていない。それが追放者に対する仕打ちなのかもしれない。今、米田の痕跡を追うのは宮野たちくらいしかいないのだ。
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