第七章 たった一人の被害者

1 隠された事柄

 読者諸君においては、置いてけぼりを食らった感があるだろう。だが、米田が男だと書いた覚えはないし、彼女の名字が変わる可能性も提示した。ミステリというのは、そういうものだということは重々承知のことだろう。


 そんなことより、県警は一気に色めきだった。大きな荷物を持って足早に立ち去る姿がマンションの防犯カメラに捉えられたのを最後に消えたさつきを捜索するために再び大量の捜査員が投入された。しかし、その中に宮野たちの姿はない。


「バレなかったのか?」


 宮野の安アパートの一室はタコ部屋の様相を呈していた。プロレタリア感が増しているのは、富とは縁遠い宮野たちの顔立ちのせいかもしれない。


「山口さんに身代わりになってもらったんだ」


 岸の問いに杉村は愉快そうに答えた。こうして仕事終わりに警察の目から逃れるようにタコ部屋に集まるのをどこか楽しんでいるようだ。


 さつきの部屋を解錠するには、刑事の立ち合いが必要だった。だが、あの場には凛久くん誘拐事件の捜査への関与を禁じられた刑事しかいなかった。捜査本部にさつきの失踪を知らせるには、海江田を巻き込んで正規の捜査員である山口が立ち会っていたということにするしかなかったのだ。


「マジで捜査本部はしっちゃかめっちゃかだぞ。デビッド・ピアースとも連絡がつかなくなった」


 岸は鑑識官として、どこか他人事のように苦笑いした。宮野は耳にしていたウワサについて確認せずにはいられなかった。


「あの……アレってホントなんですか?」


 岸はうなずいた。


「うん、どうやら本当らしい。さつきさんの入国と同時期に凛久くんの入国記録がない。つまり、最初から凛久くんは日本には来ていなかった」


 花坂は全身の力を投げ出すように床に後ろ手をついた。


「狂言誘拐っていうことですか。っていうことは、必然的にデビッド・ピアースもグルってことですか?」


 花坂が憤りを含ませる。岸はうなずくしかなかった。


「そういうことになるし、それだけじゃない。そもそもさつきさんとデビッド・ピアースは結婚していた形跡がない」

「え? どういうことですか?」

「さつきさんはデビッド・ピアースを夫として警察に紹介したわけだが、それを捜査陣は鵜呑みにしていた。実際は婚姻関係にはなかった。デビッド・ピアースという男が実在していたかどうかも怪しい」


 宮野は恨めしい顔だ。ボストンバッグの中身について死ぬほど悩み続けた。あれはさつきとデビッドの手のひらでお手玉されていたようなものだ。振ればシャカシャカと音が鳴る辺りは、宮野の頭と共通してはいる。


「何の目的でこんなことを……」


 途方に暮れる花坂に杉村は言う。


「米田さんは退職金をさつきさんに渡した。凛久くんの誘拐をダシに金を奪われたわけだ」

「でも、それでこんな大それたことを起こしますか? 全国ニュースになっちゃったじゃないですか。たった数百万のためにそんなことしますか?」


 たった数百万と言うほど稼いでいないだろうという声も聞こえてきそうだが、ホスト狂いで麻痺した彼女の金銭感覚からすれば、数百万もすぐに吹き飛ぶような額なのだ。だから金運に見放されるのだろう。


「で、その米田さんのマンションを調べに行ったんだろ?」


 岸に水を向けられて、杉野は持っていたタブレットをガタついたテーブルの上に置いた。


「凛久くんの誘拐事件が起こる一週間前、米田さんのマンションに不審な三人組がやって来ていた」


 画面をタップすると、マンションの防犯カメラの映像が流れる。黒ずくめの三人の男たちがマンションのエントランスに入って来る。


「外国人?」


 岸が画面を覗き込むと、杉村は映像を一時停止した。いずれもガタイの良い白人男性だ。マスクをしているものの、目鼻立ちがはっきりしているのが分かる。


「米田さんの部屋は二階にある。二階の廊下にも防犯カメラがあって、その映像からまっすぐに米田さんの部屋に向かっているのが分かる」


 廊下を歩いてある部屋の前で立ち止まった三人組はインターホンを押した。しばらくして、中から米田が顔を覗かせた。いくつか会話が交わされて、三人組は部屋の中に姿を消した。


「部屋の中で話していたのはおよそ五十分」

「ずいぶん長話だな。何者なんだ、こいつら?」


 岸が腕組みをする。あれだけ宮野たちに関わるのを渋っていたのに、今ではこの件に夢中な様子だ。宮野がテーブルに身を乗り出した。


「そのことで考えていたんです。米田さんは、もしかしたら騙されていたんじゃないかと」


 杉村が眉間に皺を寄せる。


「騙されてた?」

「花坂さんが言ってたじゃないですか。滝本さんが≪テミス≫のこと『なんじゃそりゃ』って言ってたって」

「なに、その≪テミス≫って?」


 岸は興味津々だ。


「米田さんが言ってたんです。警視庁で導入が検討されている次世代犯罪捜査手法で、データをもとに犯罪傾向を割り出すんだそうです」

「なんかそんなアニメあったよな」

「滝本さんが知らない事情が米田さんの耳に入ってるっていうのがずっと引っ掛かってたんですよね。もしかしたら、≪テミス≫なんてものは存在しないのかもしれない」


 花坂の表情が強張っていく。。


「≪テミス≫が存在しないってことは、デビッド・ピアースがCEOをやってたっていうコヨーテっていう企業も……」

「ないかもしれない」


 杉村はタブレットの画面を爪の先でコツコツとやる。


「それとこの三人組がどう関わるんだ?」

「その情報が本当であれウソであれ、問題は米田さんがどこでそんな知識を仕入れたのかってことだと思うんです。俺はこの三人組が米田さんに吹き込んだんだと思います」

「なんのために?」

「凛久くんが誘拐されたと言って米田さんを騙すために」


 花坂は首を傾げる。


「でも、凛久くんの誘拐は狂言なんですよね?」

「三人組がやって来た時、米田さんにはデビッド・ピアースとさつきさんが繋がっていることを知らなかった。デビッド・ピアースは凛久くんが誘拐されたというテイで米田さんに接触を試みたんだろう。三人組を使って」


 杉村は眉を歪めてみせた。


「じゃあ、警察へ行けって話になるだろ」

「いや、思い出して下さい。国際的な子どもの連れ去りで外国人の父親が日本で逮捕された事案があったじゃないですか。デビッド・ピアースはそこを利用して、凛久くんを連れ去るのに加担しろと言ったんだと思うんですよ」


 花坂の質問が飛ぶ。


「≪テミス≫があるよってウソをつく意味ってなんですか?」

「≪テミス≫は警視庁で進められてる案件って設定だろ。で、デビッド・ピアースはその技術を提供してる企業になる。米田さんを丸め込む口実として、申し出を断ったら≪テミス≫プロジェクトを中止させると言えばいい。大きなプロジェクトを潰したのが米田さんということになれば、警察から追放されかねないだろ」

「で、その申し出ってのは?」


 杉村はまだ宮野の考えを訝しんでいるようだった。パドックで賭ける馬を見定める時も同じような顔をしていたに違いない。


「これは想像ですけど、身代金の入ったバッグの中身をすり替えろ、と」


 宮野たちは岸にバレないように視線を交わした。まだ例の件については三人だけの秘密だ。案の定、岸はまわりに部外者もいないのに小声で尋ねた。壁が薄そうだからかもしれない。


「米田さんがバッグの中身を?」


 公式の捜査上では、ボストンバッグに入った身代金がどのように消えたのかは明らかにされていない。杉村が辿り着いたバッグすり替えの仮説を宮野が伝えると、岸はなんとも言えない表情を浮かべた。


「米田さんが事件に関わってるって、そういうことだったのか。いやしかし、まさか、そんなことが……」


「だが、これ以外には考えられないだろ」


 急に杉村に詰め寄られて、岸は困惑した。


「なんで今聞いた話を自分の手柄みたいに言ってんだ?」


 杉村はさも当然のように両手を広げた。


「俺らはチームだ。宮野と意識を共有してる」


 有無を言わさないというような杉村の顔面に気圧されて、岸は宮野に目をやった。


「三人組の外国人とデビッド・ピアースは繋がりがあるんだよな。つまり、さつきさんも関係してるということになる。……ネームタグの指紋の話はそこに繋がるのか?」

「ネームタグの指紋?」


 花坂が聞くと岸が宮野に話した内容をそのまま伝えた。宮野はうなずいて先を続けた。


「米田さんの指紋がついてるのは分かるんです。ニューヨーク・ヤンキースのマークを描いたのは米田さんなんで。でも、さつきさんの指紋はいつ付いたのか?」

「身代金受け渡しの日……」


 杉村と花坂が同時に答えた。


「米田さんは身代金をさつきさんに秘密裏に渡そうとしていた……そう考えると一連の流れが整理できませんか?」

「いや、まったく」岸が即座に返事をする。「そもそも、金はさつきさんのものだったわけだから、渡すも何もないだろう。それに、肝心の金はどこに行ったんだ?」

「さつきさんは米田さんを、そして警察を騙してたんですよ。凛久くん誘拐と五千万円をダシにして。五千万円を使って、警察に失態を犯させて、和解金を得たというわけです」


 岸はトイレに籠ったおじさんのように唸り声を上げた。


「いや、しかしなぁ、さっき花坂さんも言ったけど、数百万のためにここまで大仰なことをやるかっていう話なんだよな……。で、肝心の金はどうやって?」

「それを調べてたんだよ」

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