3 逃げ水
「いやいや、勘弁してくれよ」
鑑識課の岸が杉村たちに取り囲まれて、カツアゲに遭った中学生のような声を上げた。ひと気のない薄暗い廊下には、その嘆きの残響が虚しく広がっていった。
「頼むよ、岸。苦楽を共にしてきた仲間じゃないか」
警察学校時代の戦友の肩を掴む杉村は必死だった。岸は小声で反論を試みる。
「分かってるだろ。めちゃくちゃ口酸っぱく言われてんだ。お前たちをこの件に関わらせるなって」
「じゃあ、さつきさんのマンション周辺の防犯カメラの映像だけでもいい。貸してくれ」
「無理だって……」
「俺を見捨てるのか?」
充血した目を近づけられて、岸は困惑した。
「そういうわけじゃねえけどさ……俺にだって家族があるんだ。ここで変に目をつけられたら将来設計に響くかもしれない。お前にだって分かるだろ」
杉村も守るべき家族のために動いている。だから、ここで乾坤一擲の勝負に出て蘇る必要がある。
「じゃあ、お前が俺の代わりに調べてくれよ」
岸は考えていた。その結論は、話だけでも聞いてやるか、というものだった。
「調べるって、何を?」
「十一月二十日の午後二時半以降、さつきさんのマンション近くの駐車場……米田さんの車が停まってた周辺で何か不審なことがなかったかどうか」
「ちょっと待ってくれよ。誘拐事件とどう関係するんだよ」
杉村はより一層声を低めた。
「米田さんが事件に関わってる可能性がある」
「はあ?」岸は甲高い声を漏らした。すぐに声を抑えつける。「米田さんが? 正気か、お前?」
「どこかにそれを証明するものがあるはずなんだ。それを探したい」
熱を帯びた訴えに岸は引き込まれそうになっていた。しかし……。
「だけど、申し訳ないけど、力になれない」
「なんでだよ」
「そんな時間帯の映像、収集してないからだよ。お前が直接集めた方がいいぞ。あとな、調べるなら米田さんのマンション周辺も当たった方がいい」
「そうだな……」
やや冷静さを取り戻した杉村に岸は言った。
「詳しくは聞かないし、何も喋るなよ。俺はウソが苦手なんだ」
「分かってる、すまん」
「感づかれて誰かに問い詰められたらお前のことを話すかもしれん。それは分かってくれよ。波風立てずに生きていこうって決めたんだ」
杉村は小さく笑った。
「じゃあ警官になるなよ」
岸もニヤリと笑う。杉村は花坂を伴って歩き出したが、宮野は岸に小声で尋ねた。
「ボストンバッグのニューヨーク・ヤンキースのマークを描いたカードのことですけど、指紋は調べましたか?」
「ああ、、調べたよ」
「何か検出されました?」
岸は答えるべきか躊躇っていたが、餞別代わりと思ったのか短く答えた。
「米田さんとさつきさんの指紋が」
「二人だけですか?」
「そうだな」
廊下の向こうから杉村が呼ぶ声がする。
「おい、宮野、早く行くぞ!」
宮野は岸に頭を下げて杉村の後を追った。
「さつきさんのマンションの近くに行くのなら、さつきさんに当時の米田さんの行動について聞いてみた方がいいんじゃないですか?」
建物を出て駐車場に向かう道中で花坂が提案する。彼女はまだ米田の無実を信じている節がある。しかし、杉村は即座に彼女の言葉を却下した。
「いや、やめた方がいい。さつきさんの弁護士が通達してきたんだ。弁護士を通さない警察の接触や監視を禁止する、と」
「でも、それじゃあ、ますます連携が取れなくなっちゃいません?」
「俺たちは信用されてない。それだけだ」
車の運転席を開ける杉村はなんとも悲しげにそう言い放った。
外は晴れていて、日向は冬とは思えないほど暖かい。風もなく、雲一つない空は清々しいものがある。
杉村が運転する車はさつきのマンションがある街までやって来た。三人にとっては、苦い思い出の詰まった場所である。マンションに向かって伸びる一直線の道は建物の麓にぶつかって二手に分かれる丁字路になっている。宮野は助手席から次第に大きさを増すマンションを見上げて、ある違和感に気づいた。
「さつきさんの部屋、バルコニーの手すりに鉢が括りつけられてましたよね、確か」
「そうだったか?」
「パンジーの鉢ですよね」
後部座席から花博士が顔を覗かせる。
「いや、花の種類は知らないけど。あそこがさつきさんの部屋ですけど、鉢植えがなくなってる」
杉村は目を凝らした。
「カーテンもなくないか?」
三人は顔を見合わせた。ゾワゾワするおぞましさが腹の底から湧き上がって、宮野は言った。
「様子を見に行きましょう」
杉村はうなずいて、すぐに近くのパーキングに車を停めた。あの時、米田が車を停めていた場所でもあった。三人は車を降りるなり、マンションに向かって駆け出した。
エントランスから中に入ると、見覚えのある人の良さそうな顔が目に入って来た。
「あなた方、なんでここにいるんですか!」
さつきの弁護士、海江田だった。どこか戸惑いの表情を浮かべている。何か言いたげだったが、杉村が勢いよく質問をぶつけるので、口を噤んでしまった。
「海江田さんはなんでここに?」
怪異を目撃した伝奇的ミステリの老人みたいに海江田は大きな不安を露わにしていた。
「小野寺さんと連絡がつかなくて。それで、やって来たんですけど……お留守みたいで」
杉村は先陣を切ってエレベータに入り込んだ。
「あ、ちょっと……!」海江田は弁護士としての責務を果たそうとして一緒にエレベータに乗り込んだ。「本当はあなた方がここにいちゃまずいんですからね……!」
「そういう細々した話はあとで聞きます」
「何かあったんですか?」
「どうもさつきさんの部屋の様子がおかしいと思って見に来たんです」
宮野が説明し終えた頃にエレベータは四階に到着した。さつきの部屋の前に立ってインターホンが押すが、当然のように返事はない。杉村は玄関のドアを何度も叩いた。
「さつきさん!」
騒いでいると、隣室から女が姿を現した。
「ここのところ、ずっといないみたいですよ」
杉村は警察バッジを片手に質問した。
「どちらに行かれたか分かりますか?」
返答は芳しくない。杉村は声を飛ばした。
「管理人さん探せ。花坂は鍵屋に連絡してくれ」
十分ほどして鍵屋が到着。管理人も立ち会う中で玄関のドアが開錠された。勢いよく扉を開けて中に入り込んだ刑事たちは、部屋の中が蛻の殻になっているのを茫然と見つめた。
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