2 残された仮説

 ワイドショーが一斉に連日報道を始めた。


 ある番組では、身代金受け渡しの日の警察の行動をボードにまとめ、どのタイミングで警察がどのようなしくじりを犯したのかを詳細に伝えた。また、外務大臣が凛久くん誘拐事件についてコメントを発表した。


「政府としましては、現場単位でのハーグ条約の遵守について改めて教育を行うと共に、国際社会における信頼回復に努める所存であります。また、国際的な子どもの連れ去り事案について、今後定期的な有識者会議を開き、知識共有も進めてまいります」


 だが、最も加熱したのは米田についての報道だった。そして、恐れていた事態が起こる。一部週刊誌が米田の家庭内暴力についての報道を掲載したのだ。世間の目は一挙に米田に注がれることとなった。


「まずいことになった」


 まずそうな表情でまずそうなことを言う宮野が過去のまずそうな未解決事件のファイルをデスクにどさりと置いた。


「米田さんですか?」


 花坂が宮野を見上げる。


「ああ、マスコミが米田さんのマンションに押しかけたらしい」

「もう歯止めは効かないだろうな」


 沈んだ声を開いたファイルの中に綴じ込んで、杉村は溜息をついた。


「大丈夫だったんですか、杉村さんは?」


 杉村は米田について調べを続けていた。バッグの中身を入れ替えたのは米田だと信じ続けて、それを何とか形にしたかったらしい。


「誰かが上に俺のことをチクったらしい。こってり絞られたよ」


 宮野は無人の米田のデスクに目をやった。米田は今日も滝本と記者対応についてのミーティングだ。最近は宮野たちも含めてチーム全体が完全なホワイトカラーだ。


「それで、米田さんがバッグの中身をすり替えたっていう証拠は見つかったんですか?」

「どこかに隠されてる」

「一生隠れたままなんじゃないですか。なぜならそんなものはないから」


 花坂が茶化すと、杉村は自信満々に首を振った。


「絶対にある」


 宮野ももう言い争う気はないらしい。


「その米田さんですけど、さつきさんの弁護士とも話し合いが始まってるみたいですよ」

「弁護士に好かれてるんじゃないか」


 家庭のことと仕事のこと。どちらにも弁護士がついて回るのは精神的に厳しいだろう。花坂は心配そうに口を開いた。


「ツイッターで米田さんめちゃくちゃに叩かれてますよ。大炎上です」

「ネットの奴らは無責任に何でも言えばいいと思ってる。無視すりゃいいさ」

「そういう問題じゃないですよ。『辞めろ』とか『お前が死ねばよかったのに』とか、ひどい言われようですよ。うちの県警のツイッターアカウントももうグチャグチャだって滝本さんが言ってました」


 もはや誘拐事件の顛末を気にしている暇もないほど、米田のチームはズタズタになっていた。これでは、ミステリというよりヘマをした警察の内幕を綴る薄暗い物語になってしまうではないか。だが、仕方がない。彼らは捜査から外された上に、まともな情報も流れてこなくなったのだから。




 警察や米田本人へのバッシングが過熱するある日、米田はチームを呼び出した。人目のない狭い会議室は、デビッドとビデオ通話をしたあの部屋だ。米田は見るからにやつれていた。現場との意思疎通もないまま、記者の窓口に鎖で繋がれ、噛み合わない会見でのやり取りはネット民の餌と化していたのだ。


「米田さん……大丈夫ですか?」


 手を差し伸べようとする花坂に手で壁を作ると、米田は切り出した。


「刑事を辞める」


 時が止まった。


「いや、なに言ってるんですか……?」


 ようやく絞り出した宮野の言葉はありがちな問い掛けに過ぎなかった。


「世間の言葉を真に受けちゃダメですよ!」


 花坂はそう言うが、米田はそれを否定した。


「そうじゃない。さつきさんとの和解のためにそうすることにした。退職金は和解金の一部にする」

「いやいや、ちょっと待って下さいよ。刑事辞めたら、米田さんその先どうするんですか?」

「さあ、どうだろうな」

「宇崎さんが言ってたじゃないですか、辞めずに最後までやれって」


 花坂も必死だ。しかし、米田には響かなかった。


「宇崎さんは了承済みだ。県が訴えられるより良いということだろう」


 言葉にならない怒りが漏れ出す。


「なに考えてるんですか、あの人は」


 米田はずっと冷静だった。


「とにかく、もう決まったことだ。お前たちは私の後任が見つかるまで一課長の直属になる」


 立ち上がる米田に花坂は悲しげな眼差しを向けた。


「米田さんのお子さんのこととか、どうなっちゃうんですか……?」


 米田は微かに笑って、何も言わずに出て行った。




 米田の依願退職とそれに掛かる退職金の話は、また世論の燃え盛る炎に油を引っかける事態になった。一連の騒動はいつの間にか凛久くんの安否よりも警察に軸が置かれ、連日ネットとワイドショーをドロドロに潤した。県警周辺には、今もマスコミの車両が並んで、警察へ厳しい目のようにカメラを向けている。


「俺らは何のためにここにいるんだろうな」


 刑事と言えば昼夜問わずほとんど外出している。だが、宮野たちは捜査対象案件の精査という名の資料整理に明け暮れていた。


「凛久くんも身代金もどこに行っちゃったんでしょうね?」


 やる気と一緒に紙の書類をデスクに放り投げると、花坂は姿のない杉村の席を見つめた。


「米田さんも完全にこっちからの連絡を遮断してるな。何の返信もない」

「アレって、ホントなんですか? 米田さんがメンタルクリニックに通ってるっていう話」

「話を聞いて、杉村さんも確認したらしい」


 さつきとの和解についての続報は宮野たちの耳には入っていない。だが、あれから県に対する訴訟の話はぱったりと聞かなくなったところをみると、どうやら米田が身代わりとなって立ち消えになったらしい。


「犯人はどこで何をやってるんだか……」


 凛久くんの身柄と五千万円の身代金は消えたまま行方が分からなくなって、ずいぶんと経つ。もうすぐ年の瀬が迫ってくる頃だ。


「滝本さんにもそれとなく探りを入れてみましたけど、全然教えてくれなくて……」

「俺らは腫れ物みたいなもんか」

「≪テミス≫があればすぐに犯人も捕まったんですかね?」

「≪テミス≫?」

「ほら、米田さんが言ってた次世代犯罪捜査手法とかいう……」

「ああ……」宮野は鼻で笑った。「そんな今は存在しないものに縋っても意味ないだろ」


 花坂はしゅんとする。


「滝本さんにも『なんじゃそりゃ』って言われました」

「そりゃそうだろ」

「宮野さんはこの事件についてどう思います?」


 ボールを渡されてからも宮野は逡巡していたが、しばらくすると胸の中にしまっていた疑問符を取り出す準備を始めた。


「ずっと気になっていたことがある」

「なんですか?」


 花坂が少し嬉しそうなのは、宮野がまだ刑事として燻っている気がしたからなのかもしれない。


「犯人からの指示だよ。なんで犯人はあのボストンバッグにわざわざネームタグを指定して付けさせたのか」

「目印のためだと思ってましたけど、違うんですか? 犯人はこっちがどんなバッグにしたか知らないわけじゃないですか」

「それは大量のバッグの中からお目当てのものを見つけ出す時くらいしか意味ないだろ」

「犯人の指示でバッグはバスのトランクルームに入れたじゃないですか。だからじゃないですか?」

「でも犯人は現れなかったんだぞ。だいいち、俺らへの指示があるから、あのバッグを追っても意味がないことは明白なんだ」

「そこは表向きのポーズとしてってことだと思います」

「そもそも、犯人は俺ら全員に協力を拒まれたらどうするつもりだったんだろうな。あの音声通り行動したら、結局名古屋まで警察は追って来る。どう足掻いても誰にも気づかれずに金を受け取れるわけがないのに」

「確かに……。お金が目的じゃないとか?」

「例えば?」


 花坂は唸ってしまう。


「デビッド・ピアースはIT企業のCEOじゃないですか。そこに何かダメージを与えたかった、とか」

「でも、あの人リモートで会った時にはそんなこと一言も言ってなかっただろ」

「凛久くん自体が目的だったとか? なんかすごい免疫機能を持ってたりするんじゃないですか。人類の救世主的な」

「いちいち夢のある仮説を立てるな」


 そこへ足音慌ただしく杉村が戻ってくる。その表情からは興奮が滲み出していた。


「どこ行ってたんすか、杉村さん。じっとしてなきゃ──」

「バッグの中身を入れ替えたのは米田さんだ」


 そう言って、杉村は二人をお馴染みのあの狭い会議室に放り込んだ。


「杉村さん、もういい加減やめましょうよ……」


 泣きそうな顔で訴えかける宮野だったが、杉村は自信に満ちていた。興奮を隠しきれず、その瞳はぎらついていた。


「最初からバッグの中身がダミーだったとしたら……?」

「どういうことです?」

「俺らは最初、現金の入ったバッグとダミーの札束の入ったバッグをすり替えると考えてただろ。だが、そうなると、ダミーの札束の入ったバッグを部屋に持ち込む必要があるし、現金の入ったバッグを部屋から持ち出す必要があった。そして、そんなことができる人間はいないという結論に至った。なら、最初に部屋に持ち込んだバッグ自体がダミーの札束が入ったやつだったとしたら、何もおかしなことはなくなる」

「ちょっと待って下さいよ」宮野は思わず笑ってしまった。「俺があのバッグを部屋に運び入れたんですよ。俺を疑ってるんですか?」

「それがすでに偽物だったら?」


 宮野は銀行で金を受け取った後の動きを思い返して二人に説明をする。そして、首を振った。


「いやいや、あり得ないですって。どこでバッグの中身をすり替えるっていうんですか」

「バッグを車のトランクに入れたのは米田さんだろ」

「でも、さつきさんがトランクから取り出したんですよ」

「あらかじめトランクの中にダミーの札束の入ったバッグを用意しておけばいい」

「トランクの中に別のバッグがあったら、さつきさんか俺が気づいてますよ」


 杉村は真っ直ぐに宮野を見つめた。


「現金の入ったバッグはトランクの下……スペアタイヤが入るスペースに隠してあったんだよ。米田さんの車は古いセダン車。今の車ならスペアタイヤはないが、古い型式ならあるだろ。スペアタイヤを抜いておいて、現金入りのバッグをそこに隠したんだよ。お前がトランクから取り出したのは、ダミーの方だった」

「そんな馬鹿な……」


 口ではそう言うものの、考えるほどにそれ以外ないのではないかと宮野は思い始めていた。花坂は信じられない様子だった。


「じゃあ、本当に米田さんが……?」

「でもどうやってそれを確かめるんですか。きっと米田さんも俺たちには取り合ってくれませんよ」


 杉村には考えがあるようだった。

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