4 最悪
誘拐犯が残したICレコーダーは鑑識に送られ、データ自体を捜査陣が確認することとなった。音声は人工的に合成されたもので、とあるバラエティ番組で使われているどこか間の抜けた声だった。
『これを聞いたら立ち上がって、公園の南から歩道に向かって下さい』
その一言から始まる全部で四十五分程度の音声データが収められていた。捜査員たちが追いかけたさつきの行動は全てこれによるものだった。宮野が指摘したように、誘拐犯からの最初の手紙は二枚入っていた。そこには、五本松中央公園の指定のベンチの座面の裏側に指示を録音したICレコーダー入りの封筒が貼りつけられている旨、そしてそのことを誰にも口外してはならないという警告が添えられていた。
憤慨している読者諸君もいるかもしれない。さつきの手紙開封シーンのことだ。あの場面では、もう一枚の手紙については触れていなかった。だが、よく読み返してみてほしい。あれは「さつきの証言を基にした再現」である。つまり、ミステリにうるさい向きによるアンフェアというご指摘は的外れということになるのだ。だいいち、そんなことをご丁寧に記していたら後の展開が詰まらなくなるではないか。
そんなことより、捜査会議は混迷を極めた。
結果的に捜査陣を裏切ることになったさつきは自宅にこもり、警察との接触を拒むことになったし、現場の失態に宇崎の怒りは天井を貫いて木星の衛星エウロパ辺りまで到達したとNASAが発表したとかしないとか。だから、愛知での長距離バス監視から外された米田たちは、会議の終わった部屋の中で重苦しい表情をひたすらテーブルの上の資料に傾けるしかなかった。
「詐欺師を死なすだけじゃ飽き足らないのか」
捜査員の面前でプライドも何も踏み躙られた米田には返す言葉がなかった。他にも、人権度外視の言葉が投げつけられたが、昨今のコンプライアンス上、ここに注釈と共に記すには余白が小さすぎる。
「誘拐犯の特定に繋がる情報も集められない。身代金も持って行かれる。お前ら、刑事辞めろ」
宇崎は捜査陣にそう吐き捨てて会議室を出て行った。
路線バスと電車内での調査によって、さつきが道中に身代金もどきの入ったバッグを誰かに渡していた可能性は否定された。それだけが米田たちのチームの残した成果だった。
「記者対応に行ってくるよ」
さすがの米田も声に覇気がなかった。捜査上のミスも報道陣には報告することになる。そこで嫌というほど過去の自分と対峙させられ、後悔の二度漬け三度漬けに遭うわけだ。
宮野たちにとって、恐ろしいことがもう一つあった。
「あのバッグにはダミーの札束が入っていた。犯人が取りに来るかどうかはともかく、いずれはバレることになる」
人がいなくなった捜査会議室で、杉村が小さな声で言った。その顔からは血の気が失せていた。
「とにかく、バッグの中身が偽物だとバレたら、俺たちは一貫して知らないと証言することにしましょう」
バッグは長時間、人の目に触れない状態が続く。どこかで犯人が中身を入れ替えたと誰かが勘違いしてくれれば、それで全ては有耶無耶になる。宮野の提案に花坂は溜息で返す。
「それしかないですよね……。犯人からの手紙も早いところ処分しないと」
もしこのことが宇崎に知られたら、ぶっ殺されても文句は言えないだろう。もし警察が組織ぐるみで宮野たちの死を本気で偽装してしまえば、真相が明らかになることは永遠にない。しかし、それだけのリスクを冒すほど宮野たちの命に価値があるかと言うかというと、そういうわけでもないのが悲しいところだ。
宮野には、他の二人とは違う思いがあった。
杉村と花坂、そして米田……この中の誰かが二千五百万円を独り占めして逃げおおせようとしているのではないか?
どれだけの失態を犯しても、何度も季節を巡ってやっと手に入れられるくらいの金を一度に手にできるのならば、宇崎の怒号くらい、熱いフライパンの縁に一瞬だけ触れるようなものだ。誰かが抜け駆けしている……そう考えるだけではらわたが煮えくり返る。
「もうそろそろバスが名古屋に着く」
杉村が見つめる窓の外にはすでに夜の帳が下りている。彼の横顔に宮野の黄ばんだ脳細胞が発火した。
なぜ杉村は米田を必要以上に疑っていたのだろうか? 家庭環境が厳しいというのを考慮しても、だからといってそれが根拠になるわけではない。
・ダミーの札束を詰めたバッグをさつきの部屋に持ち込む
・ダミーの札束を詰めたバッグを現金の入ったバッグとすり替えて部屋の外に持ち出す
どちらも可能だった人間は二十日と二十一日の二日間を通して存在していない。その時点で四人の刑事はいずれも同じスタートラインに立っている。
宮野の中に入道雲のようにむくむくと育っていく疑惑がある。
──杉村さんは米田さんがバッグの中身を入れ替えたと確信しているのではないか?
「なに見てんだよ」
杉村が宮野を睨みつけていた。
「宮野さん、ボーッとしてましたよ」
花坂がからかうように言った。凛久くんの誘拐犯の尻尾も掴めない、身代金の分け前にもありつけない。宮野はボロボロの精神状態だった。だから、今までなら自制していたであろうその言葉を口にしてしまった。
「杉村さん、バッグの中身を見た時、本物の札束だったって言ってましたよね。……ウソついてませんか?」
杉村の目の色が変わった。
「どういう意味だ、てめえ」
「本当はダミーの札束が入っていたんじゃないですか?」
杉村が宮野に飛び掛かる。その速さといったら、豹か杉村かといったレベルだ。杉村は宮野の胸倉を掴んで椅子から引き下ろした。マスクはズレてしまったが、そんなことを気にしている暇もなかった。
「ちょっと、やめて下さい!」
花坂の悲鳴に似た声も杉村には届かなかった。
「俺を疑ってんのか、宮野!」
宮野は床に押しつけられながらも、なんとか気道は確保した。宮野も必死だった。
「別にあんたを疑ってるわけじゃねえよ! あんたが散々米田さんを疑ってたのは、バッグの中身がダミーだったからだろ!」
杉村が鬼の形相のまま宮野のそばに尻餅をついた。さっきまで宮野を掴んでいた両手が真っ赤になっている。宮野はシャツの胸元を直しながら上体を起こした。
「お前はなんで米田さんを疑わない?」
やや冷静さを取り戻した杉村がそう尋ねる。
「正直に言えば、俺以外全員怪しいと思ってますよ。だけど、誰か一人だけを疑うほど確信を持ててるわけじゃありません」
杉村は黙っていた。
「杉村さん、本当にバッグの中には……」
花坂が問いかけると、杉村が爆発するように言い放った。
「偽物だったよ!」
「なんでウソついたんですか」
至極まっとうな宮野の言葉だが、クズがクズを問い詰めている様子はどこか滑稽だ。
「ダミーが入っていたと言えば、詳細を聞いてくるだろ。そこで変に疑われたくなかったんだよ」
そんな杉村の自己中心的な考えだが、宮野にも花坂にもそれを責め立てる資格も気力もなかった。宮野には目の前に運ばれてきた解決すべき課題に手を伸ばすことでしか気を紛らわせることはできない。
「つまり、二十日の午後二時四十五分から午後七時の間に、すでにバッグの中身がすり替えられてたってことですよね」
「ああ」
杉村は床の上に尻をついたまま力なく答えた。
「あり得ない……」
宮野が断言するので、花坂が首を傾げる。
「どうしてですか?」
「その時間、俺はずっとリビングにいた。トイレに立ったのは一回だけ。それも三十秒ほど。絶対に無理だろ」
絶望に似た空気が流れる。沈黙を破ったのは、三人のスマホの振動音だった。米田からのメッセージが着信していた。
〈バスが名古屋に到着。バス会社に要請して、誰かがバッグを取りに現れるまで待機中〉
結論から言えば、この日、犯人はバッグを取りに現れなかった。翌日も犯人は姿を現さなかった。痺れを切らした警察がバッグを確保。必然的に、ダミーの札束が詰まったバッグが発見されることになる。
誘拐犯からの音沙汰がなくなった。さつきの家に宛てられた不審な手紙の監視体制は整っていたが、三日経過しても手紙は見つからずじまい。さつきの家の周囲で目を光らせる刑事たちの苦労も報われることはなかった。
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