3 忙しない尾行

 午後三時五十九分。


 宮野は車道を隔てた歩道に立つ街路樹のそばで人を待つ振りをしていた。公園周囲には柵がないため、この場所からは噴水広場がよく見える。


 さつきはすでに指定されたベンチに腰を下ろしていて、辺りをキョロキョロとしている。何者かが近づいてくれば、少なくともその人物が誘拐犯と繋がりのある人物であることは疑いの余地がなくなる。


『りんごチーム、不審な人影なし』


 チーム名は米田が類稀なるネーミングセンスで矢継ぎ早に決めていった。りんごチームは公園の西側を担当する車両チームのことだ。


『オポッサムチーム、こちらも異常なし』


 ちなみに、単独行動をする宮野たち三人にも名前が割り振られている。


『アンニョン長谷川はどうだ? どうぞ?』

「あ、はい。異常ありません」


 宮野は短く答えた。なんだその名前は、と疑問に思ってはいけない。なぜなら、意味はないからである。


 それにしても、と宮野は考える。バッグをさつきの部屋から外に放り投げるという案は良いところを突いていると思っていたのだ。そうでもしなければ、あの部屋からバッグを外に持ち出すことはできない。他に刑事の裏切り者がいれば、残念なことではあるが、成立する。しかし、花坂の言う通り、そのためには部屋の中にダミーの札束を詰めたバッグを持ち込まなければならない。それは、部屋からバッグを持ち出すのと同じように非常に難しい芸当だ。初めてさつきの部屋を訪れた時も、二日目も、四人の刑事は揃っていた。誰も大きな荷物を持ってはいなかった。


「いや……」


 映画やらドラマやらを身近に感じながら育ってきた人間は、総毛立つような非日常に放り込まれると、なぜだか芝居じみた行動に出る。宮野も一人にもかかわらず、否定の言葉を口にした。


 大きな荷物は一つだけあった。それが、ダミーの札束を詰めた段ボール箱だ。あの中にバッグを詰めておけば……。


「ダメだ。あの中身はダミーの札束が詰まってた」

『アンニョン長谷川、ボソボソうるさいぞ』


 トム短足(杉村)が忠告すると、アンニョン長谷川は慌てて口元を押さえた。トム短足にとって、ダミーの札束の件が公になるのは避けたいところだ。


 あの段ボール箱の中を確認した時、中にはダミーの札束が詰まっていた。そして、バッグの中にも。ということは、現金を入れたバッグが外に持ち出されたということ。換言すれば、真偽問わず札束の塊は三つあったということだ。つまり、バッグ一つ分のダミー札束を外から二つ持ち込まなければ計算が合わない。


 不器用な人間のトランプタワーづくりのように築いては崩れる仮説の数々に、読者諸君はなんだかミステリっぽさを感じているかもしれない。


『ん? 何してんだ? どうぞ?』


 スタチュー・オブ・カバディの声にアンニョン長谷川は我に返った。気づけば、午後四時を過ぎている。スタチュー・オブ・カバディとは米田のことである。米田に字面が近い米国と掛けたのかもしれないが、どうでもいいことだ。


 アンニョン長谷川が噴水広場に目を凝らす。さつきがベンチの座面の裏側に手を突っ込んでいる。


『さつきさん、無線の電源を切ってます』


 歩きながら喋っているのだろう、おおとりビッグバーン(花坂)の息遣いが乱れている。


『さっきまで繋がってただろ、どうぞ』

『自分で切った模様』


 捜査員たちがざわめき出す。だが、誰も公園内に立ち入ることができない。そこは凛久くんの生死を決める分水嶺だ。


 アンニョン長谷川もいつでも動けるように構えながら、状況を見守る。さつきはベンチの下から何かを取り出していた。


『封筒だ。封筒を持ってる、どうぞ』


 前線基地から双眼鏡か何かで見ているのだろう、スタチュー・オブ・カバディがさつきの行動を実況する。


『なに勝手なことしてんだ、あの人は……!』


 トム短足はそう言うが、人のことは言えないはずである。スタチュー・オブ・カバディの実況は続く。


『なにかのデバイスが入ってる、どうぞ。音声デバイスだ、どうぞ。イヤホンが繋がってる、どうぞ。さつきさん、何かを聞いてるぞ、どうぞ』


 どうぞのバーゲンセールに辟易としながらもアンニョン長谷川は冷静に応じる。


「犯人からの指示でしょうか?」


 誰も答えることができない。トム短足の声は困惑している。


『だとしたら、なんでベンチの下にあるものに気づいたんだ?』

『公園周囲に動きはないか? どうぞ?』


 スタチュー・オブ・カバディの問いに異常を報告する者はいなかった。さつきは依然としてイヤホンを耳に入れたままじっとしている。しかし、やがてバッグを持ったままゆっくりと立ち上がった。


『総員警戒しろ、どうぞ』


 さつきが歩き出す。噴水広場から南に向かった。


『音声デバイスに犯人からの指示が入っているのかもしれない、どうぞ』


 スタチュー・オブ・カバディの推測に、アンニョン長谷川が声を漏らす。


「まさかとは思いますが、最初の誘拐犯からの手紙に別の指示があったんじゃないでしょうか。『待ち合わせ場所のベンチの下を見ろ』とか」

『だったら、どうして私たちに言ってくれなかったんでしょうか?』


 鳳ビッグバーンの声は少し悲しげだ。


「そのことを誰かに話せば凛久くんを殺すと書かれていたのかもしれない」

『その辺りのことは今はどうでもいい、どうぞ』スタチュー・オブ・カバディの声が逸っている。『さつきさんを見失うなよ、どうぞ。りんごチーム、柿の種チーム、ちんすこうチーム、怪しい車両に注意しろ、どうぞ。トム短足とアンニョン長谷川と鳳ビッグバーンは周囲を警戒しつつさつきさんを捕捉、どうぞ。その他のチームは怪しい動きに注意しつつ、通行人を警戒、どうぞ』

『了解』


 さつきは公園を出て歩道を大股の速いスピードで西の方へ向かっていく。誘拐犯からの注意事項は公園内に刑事が立ち入ることを禁止していた。厳密に言えば、さつきに接触することもできたが、スタチュー・オブ・カバディの判断はさつきを泳がせることだった。


『どこに向かってるんだ?』


 刑事たちの疑問をよそにさつきは街の中をグングンと進んで行く。


『犯人は他にも裏でコソコソやっているかもしれないぞ、どうぞ』


 スタチュー・オブ・カバディの言葉に、三人の刑事は思わずうなずいてしまった。


 さつきがバス停の前で立ち止まった。反対側の歩道にいたアンニョン長谷川はじっとさつきの様子を窺ったが、マスクをした彼女の表情は分からなかった。


「バスを待ってるようです。停留所の名前は五本松公園」

『車両チームは対応した刑事を拾う準備をしろ、どうぞ。こっちで路線バスの情報を共有する、どうぞ。ルートと時間を確認してくれ、どうぞ』


 すぐにアンニョン長谷川の前にりんごチームの車がやって来る。素早く後部座席に乗り込むと、中の刑事二人が渋い目つきをしていた。


「大変なことになりましたね」

「嘆いてる暇はない。出してくれ」


 車が発進する。


『もうバスが来る時間だ、どうぞ』


 アンニョン長谷川たちの乗る車の反対車線に路線バスが現れた。バスの陰でさつきの動きは見えなかったが、停留所からバスが出発した後に、さつきの姿は消えていた。


「さつきさん、バスに乗りました。りんごチーム追います」

『待て、どうぞ』スタチュー・オブ・カバディの声が制する。『ちんすこうが同一車線だ、どうぞ。ちんすこうはバスに先行、どうぞ。さつきさんが降りたら、鳳ビッグバーンはその停留所でバスに乗ってくれ、どうぞ』

『バスに、乗るんですか?』


 戸惑いの声。


『バス内で身代金の受け渡しを行う可能性がある、どうぞ。ちんすこうはそのままバスを捕捉、どうぞ。こっちでバス会社に話を通しておく、どうぞ。りんごと柿の種はさつきさんを引き続き追跡、どうぞ』


 バスは素知らぬ顔でいつもと同じルートを走る。五つ先の停留所に停まった時、さつきがボストンバッグを持ったまま降車した。すぐに鳳ビッグバーンがバス車内に潜り込む。


『大きな荷物を持った人物がいます』


 緊張感のある小さな声が捜査員たちの耳に届く。その間にさつきが地下への階段を下っていく。停留所の名前は東坂駅前。地下鉄の駅への階段だ。


『アンニョン長谷川、駅に向かいます』

『トム短足、別の入口から駅に入ります』

『鳳ビッグバーン、どうぞ? いや、どうだ? どうぞ?』

『五十台前後のサラリーマン風の男。座席に座ってスマホを操作しています』

『バッグはどうぞ?』


 どうぞを言い過ぎて、もう口にどうぞダコができている。


『別のバッグです。……もしかしたら、元のバッグより少し小さいかもしれません』

『よし。今はまだ手出しするな、どうぞ。そのまま尾行を続けろ、どうぞ』


 アンニョン長谷川はさつきを追って駅構内に入って来ていた。


「改札を通ります」

『犯人の指示通りなら、初めから電車を使う算段だったのか』


 無線を通してトム短足も改札を通過する音がする。


『犯人はICカードを封筒に入れていたかもしれんな、どうぞ』


 さつきは辺りを見回すこともせず、ホームまで降りて行った。この駅のホームは島式のホームだ。すなわち、一つのホームの両脇に線路が走っている。アンニョン長谷川はホームの電光掲示板を見上げた。次の電車はのぼりが午後四時二十分、くだりが午後四時二十一分となっている。さつきはバッグを片手にくだり電車がやって来る方のベンチに腰を下ろした。


『地下鉄に乗ると無線が途切れる可能性がある、どうぞ。メッセージアプリのグループを作って全員を招待したから、何かあればそこに頼む、どうぞ』


 アンニョン長谷川はスマホを手にしてアプリのグループ画面を開いた。スタチュー・オブ・カバディのメッセージが表示されていた。


〈ここは今回の案件限定のグループです、どうぞ〉


「なんで文字でもどうぞって言ってるんすか」

『勢い余っただけだ、どうぞ』

『トム短足、ホームに入りました』


 そう報告が入って、すぐにホームに風が吹き始めた。もうすぐ電車がやって来る。アナウンスが流れる。人々がソワソワと動き始めた。アンニョン長谷川はさつきから一両分ほど離れた場所で様子を窺っていた。やがて、強い風が轟音を引き連れてくる。電車が到着し、ドアが開いた。


『さつきさん、電車に乗ります』


 トム短足が小さな声を無線に落とす。アンニョン長谷川もゆっくりと車内に足を踏み入れた。


 この時、アンニョン長谷川の脳内にはいつか観た何とかいうタイトルが分からない洋画の映像が流れていた。いくつもの映画の同じようなシーンがデイトレーダーのパソコンの無数のモニタみたいにデーンと瞼の裏に貼りつけられる。


 ターゲットを追う男が電車に乗る。発車寸前で相手が電車を降り、男は奥歯を噛み締めてホームに残ったターゲットの不敵な笑みを甘んじて受け取る……。


 くだり電車の一分後にはのぼり電車がやって来る。さつきに指示を残していた誘拐犯が追っ手を撒こうと考えているのなら、この状況はうってつけだ。電車のドアのすぐそばでさつきの方向をじっと観察するアンニョン長谷川の耳に発車メロディーが流れ込んでくる。ドアの閉まる警告音が鳴る。さつきの身体が車内から滑り出してホームに現れた。アンニョン長谷川は同じタイミングでホームへ転がり出るように舞い戻った。


『あっ!』

『どうした、トム短足? どうぞ?』

『さつきさんが発車直前で降車』


 焦りに満ちたトム短足の声に被せるようにして、アンニョン長谷川は鼻高々に報告する。


『アンニョン長谷川、捕捉してます』

『アンニョン長谷川は引き続き追跡、どうぞ。トム短足は念のため電車内を確認、どうぞ。問題がなければ次の動きを見て先回り、どうぞ』

『……了解』


 悔しげな声だ。アンニョン長谷川は一人で勝利の余韻に浸っていた。馬鹿みたいに映画を観ていた大学時代の長期休暇は少なくとも無駄ではなかったらしい。


 さつきはアンニョン長谷川の存在に気づいていないようだった。やって来たのぼり電車にするりと乗り込んで、今度こそ出発した。時間帯の影響もあるが、車内には人が疎らだ。隣の車両にいても、車両間の窓を通してさつきがドアのそばでバッグを持って立っているのが分かる。尾行の初心者コースみたいなシチュエーションである。


 十五分ほど電車に揺られると、そろそろ終点だ。


『ターミナルだぞ、どうぞ。交通手段が腐るほどある、どうぞ』


 結局、無線は途切れることがなかった。


 電車を降りて足早に地上に向かうさつきをアンニョン長谷川は追う。ターミナル駅だけあって人が多い。背が低いさつきの姿は簡単に人ごみに紛れてしまう。しかし、アンニョン長谷川も、今は伊達で刑事をやっているような感じになってしまっているが、もともとはそういう男ではない。持ち前の集中力でさつきを捉え続ける。


『その駅からは別の路線やバスが複数出てる、どうぞ。東口にはタクシー乗り場もある、どうぞ』

『りんごチーム、もうすぐ駅前に到着します。到着したら東口のロータリーを出た辺りで待機してます』

「了解しました」


 アンニョン長谷川が応えた瞬間、さつきの姿が消えた。アンニョン長谷川の全身が冷や水を浴びせられたように粟立つ。人の波を掻き分けてさつきが消えた場所に駆け寄る。その場で一回転して素早く周囲を確認する。巨大な駅舎の入口の方へ身を屈めて走るさつきの姿を見つけて、アンニョン長谷川はホッと一息ついた。


 誘拐犯は明らかに警察の追っ手を撒く行動をさつきに指示している。それが狙いだったわけだ。警察にとって身代金受け渡しは犯人確保の最高のチャンスだ。それを搔き乱すために、手の込んだ仕掛けを披露した。そして、その裏に刑事たちに犯罪の片棒を担がせる手紙を忍ばせたわけだ。


「さつきさんは南口に向かってます」

『南口は長距離バスのターミナルだぞ、どうぞ』


 鳳ビッグバーンもトム短足もさつきが持っていたバッグがどこかのタイミングで誰かの手に渡ったか確認する作業に時間がかかっているようだった。他の刑事が向かっているものの、それも少し遅れていた。市街地の地下をひた走る地下鉄を車で追うのには不利だったようだ。


 バスターミナルに大きなバスが数台入って来るのが見えた。感染症が蔓延する世の中であっても、交通機関は動き続ける。そして、人も移動をやめることはない。バスターミナル前は、これから乗車する人間と降車してきた人間とで一時的に混雑を極めていた。さつきが走り出す。


「直近で出発するバスと時間は分かりますか?!」

『何があった、どうぞ?』

「なんでもありません! 念のために聞いてるんです!」


 必死の形相で行き交う人の間を縫っていくアンニョン長谷川の声が上擦る。


『午後四時四十三分、三番乗り場から名古屋行きが出る、どうぞ。なんだ、さつきさんがそれに乗ろうとしてるのか? どうぞ?』


 アンニョン長谷川は答えない。質問に答える余裕を失っていた。


『……どうぞ?』


 人垣の隙間から名古屋行きのバスが見えた。車体の横っ腹が開いて、運転手が荷物をトランクルームに押し込んでいた。その手に見覚えのあるバッグが抱えられていた。運転手は小走りで車内へ。アンニョン長谷川は全速力で駆け出した。だが、遅かった。バスは発車し、ターミナルを出て行ってしまった。


 息を切らして両膝に手を突くアンニョン長谷川は、悔しさを滲ませながら無線のマイクにやり場のない怒りをぶつけた。


「さつきさんが名古屋行きのバスに乗って行きました……。バッグはバスのトランクルームに。これから追──……待って下さい」

『なんだ? 整理してから報告しろ、どうぞ!』


 バス乗り場のベンチにさつきが腰を下ろしていた。アンニョン長谷川はものすごい勢いでさつきの目の前に飛び出して行った。


「何してるんですか、あんた!」


 アンニョン長谷川は思わず叫んでいた。周囲の人間の視線が一斉に注がれる。さつきも興奮状態だった。


「しょうがないじゃないですか! こういう風にやれと言われたんだから!」


 耳に入れていたイヤホンを掴んで引っこ抜いて、ポケットに入れていたICレコーダーもアンニョン長谷川の胸に押しつけるようにした。さつきはバッグを手放していたが、それが凛久くんの無事に繋がると信じているようだった。アンニョン長谷川は気を落ち着かせて、無線に応えた。


「さつきさんが名古屋行きのバスに身代金を入れたバッグを預け入れました」

『さつきさんは? どうぞ?』

「さつきさんは目の前にいます。犯人からの指示をICレコーダーの音声で聞いていたようです」

『すでに出発したバスは確認済みだ、どうぞ。車両隊も追跡を開始してる、どうぞ。愛知県警にも協力を要請してバスを監視下に置く、どうぞ』


 アンニョン長谷川は唇を噛んだ。犯人に好き放題されて、さすがの彼もプライドが傷つけられたらしい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る