第五章 最高のチャンス
1 疑いの連鎖
花坂と共にリビングに戻ってきた宮野の表情を見て、杉村は何があったのかを察したようだった。さつきだけは凛久くんの服などを詰めたバッグを膝の上に乗せて、身代金の受け渡しに臨む意識を高めていた。その手には、公園で渡すはずだったチョコ菓子が握られている。
午後三時二十分……出発の十分前だ。神経質な人間なら、もうソワソワがマックスに達しているところ。静かにテーブルを囲む宮野たちは水中みたいな息苦しさを身に染みて感じていた。特に深い過去があるわけでもない生半可な気持ちで犯罪に加担するべきではなかったのだ。昨今人気の泣けるミステリ的な壮絶な覚悟があれば良いというわけでもないが。
「私も仲間になりました」
粛々と報告を口にする花坂に杉村の厳しい瞳が応える。
「分かってる」
「最初から仲間じゃないですか」
張り詰めた空気を緩めようとさつきが力のない笑みを浮かべる。誘拐された子どもの母親にそんなことをさせる人間には地獄直行便のファストパスが提供されること請け合いだ。
「行方不明です」
宮野が含みを染み込ませたスポンジを杉村に投げる。さつきが、それはそうだろう、という顔をする。凛久くんが失踪したのが事の始まりなのだから。
「この部屋の中から見つからなかったのは確認済みなんだ」
杉村がさっきまでの捜索結果を伝えると、花坂が驚きに目を丸くした。
「いつの間に探してたんですか」
宮野たちの顔を見回して、さつきが怪訝な表情を浮かべる。
「いや、見れば分かりますよね」
もはやさつきの目を避けるのが面倒になったのか、三人は面の皮を厚くして論を交わし続ける。
「バラバラにして部屋の中に隠してある可能性も考えたが……」
「バラバラに?!」
卒倒しそうな勢いでさつきが叫び声を上げた。宮野はずっと不満げだった胸の内をぶちまける。
「いや、ちょっと待って下さい。こんな悠長に話してる場合ですか?」
「そうですよ」
本当の意味も分からぬままのさつきが宮野に加勢する。
「これで状況は振り出しに戻りました。この中の誰がやったのかも分からない。もしかしたら、米田さんなのかもしれない」
予想外の言葉に耳を疑うのはさつきだ。
「え、いや、それはないでしょう」
杉村と花坂は顔を見合わせて、やがて表情を閉ざした。腹の探り合いが始まったのだ。宮野が恐れていたことだった。
杉村も花坂も、誘拐犯からの手紙を受け取り、身代金を山分けすることに積極的だったことを認めた。その上で、バッグの中身をすり替えたのは自分ではないと訴えた。一度はそれで納得をした宮野だったが、彼らがウソをついていないという証拠はない。そして、それと同じことを杉村たちも宮野に対して思っているのは疑いようのないことだった。
だからこそ、米田の仕業なのではないかという一つの仮説が生まれるわけだ。
「でも」花坂が思考を巡らす。「米田さんはもう出て行っちゃったんですよ。ここに戻って来られるかどうかも分からないのに、ここに隠したままで行きますか?」
「米田さんが持っていたバッグは小さい。あの中にはバラバラにしても隠すことはできないだろうな」
「どんだけ恐ろしい想像するんですか……」
さつきが耳を覆う。
「じゃあ、米田さんではないってことですか?」
「だから、そうだってさっきから言ってるじゃないですか……」
ようやく自分の主張が受け入れられたと勘違いして、さつきは胸を撫で下ろした。
「一旦整理しましょう」
ここに来て宮野の統率能力が開花する。杉村と花坂、おまけにさつきはじっと次の言葉を待った。
「まず、杉村さんが確認した時、アレはバッグの中だったんですよね」
杉村が無言でうなずく。さつきは混乱している。
「みなさん、顔を合わせたことないはずですよね……?」
人間というものは、案外すれ違っていることに気がつかないのかもしれない。宮野たちはそれを利用して、子どもを誘拐された母親に隠れて金の話をするという最低の所業を行っている。
「この中だと」花坂は宮野を指さす。「宮野さんは、ね?」
「ジュラルミンケースに詰まってるのを見ましたからね」
「ジュラルミンケースに?!」
「触って、匂いとか嗅ぎましたからね」
「悪い夢を見てるみたいです……」さつきが顔を引きつらせる。「ちょっと部屋で頭冷やしてきます」
そう言って隣室に下がってしまう。無理もないことだ。宮野の目が光る。テイの悪い人払いが済んだと言いたげだ。
「さっきの続きですが、杉村さんがこのバッグを確認した時、中身は現金だったんですよね」
「そうだ」
「それっていつのことですか?」
花坂が身を乗り出して声を潜める。杉村が即答する。
「昨日の夜七時頃。お前たちがコンビニに飯を買いに行った時だ」
花坂はじっと考え込んだ。
「私がバッグの中を確認したのは、今日の昼です。その時には、もうバッグの中はダミーでした」
「つまり、昨夜の七時から今日の昼前までに中身がすり替えられたということだ」宮野は小さく手を叩いた。「ここからがスタートですよ。……誰がって話です」
三人はお互いの顔色を窺って、同時に言った。
「俺じゃないぞ」「俺じゃない」「私じゃないですよ」
悪知恵を授けるヘビみたいな目で杉村が提案する。
「じゃあ、米田さんが犯人ってことで」
「いやいやいやいや!」
宮野と花坂の否定的ユニゾンが杉村を直撃する。すぐに隣室のさつきを呼び寄せてしまったか聞き耳を立てた三人だったが、彼女が動く気配はなかった。
「そもそも米田さんにバッグの中身をすり替える時間なんてなかったじゃないですか」
宮野の指摘に杉村は渋る。
「だが、犯人が俺たちにだけ手紙を出して、米田さんにはノータッチなんてことあると思うか?」
「でも、もし米田さんが手紙をもらってたら、色々と騒ぎ立てそうじゃないですか? あんな人が犯人からの誘いに乗るとは思えません」
花坂は断固として米田犯人説を跳ね除けたい様子だ。
「米田さんに犯人の片棒を担ぐ動機があったと思いますか、杉村さんは?」
宮野にそう問われて、杉村はレジスタンスが政府施設を強襲する作戦を口にする時のように背中を丸めて声を低めた。
「米田さんがちょくちょく誰かと電話してるの見たことあるだろ。あれは弁護士と話してる。離婚調停中なんだよ、米田さんは」
「えっ、米田さんって結婚してたんですか?」
まるで聞いてはいけないことを聞いたかのように花坂が口元を押さえる。
「してるぞ。子どももいる」
初耳のことばかりの宮野は、マジマジと杉村を見つめた。
「なんだよ?」
「いや……杉村さんって、米田さんのことよく知ってますよね。ファンですか?」
「なんでそうなる。たまたま知っただけだよ」
花坂は首を傾げる。
「え、ちょっと待って下さい。なんで米田さんが離婚調停中だと誘拐犯の誘いに乗ることになるんですか?」
「聞いた話では、米田さんは子どもの親権を争っているが、すでに相手方に有利な判決が出たらしい。それで、今も控訴を視野に入れてるんだ」
「え、でも……」
花坂の横槍を杉村は制する。
「話はここからだ。米田さんにはDVの疑いが掛かってる。家庭内での振る舞いが芳しくなかったらしい」
「本当ですか?」
「そういう状況の中で、米田さんは自暴自棄になっている」
「でも、それで犯人と……ってのは飛躍してませんか?」
「米田さんは警察でも孤立気味だ。組織に対して良い思いを抱いていない可能性もある。そんなところに犯人からの甘い誘い……乗ったとしてもおかしくないと思わないか?」
杉村の熱のある仮説に宮野も花坂も黙ってしまった。どうしてもあの猪突猛進型の人間に細かいことを考える姿をイメージできないようだ。杉村は畳みかける。
「それともなにか、俺たちのことを疑っているのか?」
「そういうわけじゃ……」
そう言ったものの、宮野は心の中で否定できないのも事実だった。
「俺たちにバッグの中をすり替えてその中身をこの部屋から持ち出す機会のあった人間はいない……そうだろ?」
「それは米田さん含めたここにいる全員がそうですよ」
確かめるような歩調でそう結論づける花坂だったが、その表情からは自分の結論に自信が持てないことが容易に見て取れる。
「米田さんがすり替えたとして、どうやってそれを確かめるんです?」
宮野に聞かれて、杉村は唸ってしまった。宮野が通って来た道だ。米田に誘拐犯との繋がりを指摘するということは、そうでなかった場合に、米田にそういった事実があった可能性を手渡してしまうことになる。
出口のない沈黙はすぐに破られた。
「もう出る時間だ」
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