3 挙句の果て
午後三時過ぎ、通信機器を携えて刑事の一団がやってきた。
ひと通りの説明が行われ、花坂がその装着のためにさつきと共に隣室に向かった。宮野と杉村は密かに視線を交わしたものの、リビングには米田の他にも新たに現れた二人の刑事たちの目があり、とてもではないがリビングダイニングを捜索する余地などありはしなかった。二人が迷っていると、さつきと花坂が隣室から戻って来る。
「あとは通信状況のテストをしてみましょう」
刑事とやり取りをしながら、さつきが尋ねる。
「もしバッテリーが切れたらどうすれば?」
刑事が答える。
「バッテリーはよほどの長丁場にならなければ切れることはありませんが、心配なら充電済みのバッテリーを持って行きますか?」
「お願いします」
その様子を見ていた米田が宮野たちに厳しい視線を注いだ。
「お前たちも通信機器のチェックはちゃんとしておけ」
さつきを含む捜査員チームは同じチャンネルを使った無線通信でやりとりをする。スムーズな情報共有と指示が行えるからだ。
米田が掛かってきた電話をスマホで受ける。
「……よし、分かった。今からそっちに行く。チームに場所を共有してくれ」
電話を切った米田が外に出る準備を始めた。
「杉村、あとは頼んだぞ」
「了解しました」
ここからさつきを移送し、現場で情報収集を行う。杉村は彼を含む宮野、花坂チームのリーダーで、米田は現場近くのビルからチーム全体を統括する。
米田が速足で部屋を出て行くと、通信機器を持って来た刑事二人も後を追うようについて行った。
より一層部屋の中に緊張感が走るのは時間が差し迫っていることもあるが、宮野と杉村がリビングダイニングで金を探す段取りをさっさと整えないといけないという使命感に駆られているからだろう。
さつきと花坂を一分でもリビングから遠ざけることができれば、宮野たちにも勝機は芽生え得るのだ。宮野は竜王戦ばりの緊張感で思考を巡らせた。将棋ソフトでは一番弱い設定のコンピュータにボロ負けを喫する腕前の稀代の大策士である。しかし、こういう時にこそ悪知恵は千里を駆けるというものだ。宮野の脳に閃きが迸った。
「さつきさん、凛久くんを迎えに行くようなものなわけですから、凛久くんの服とか玩具とか用意してあげたらいいんじゃないですか」
優男を五人合体させたような優しい微笑みでそう提案する宮野に、さつきはハッと息を飲んだ。だが、それに疑義を唱えるのは花坂だ。
「今は身代金を受け渡すのが先決ですから、荷物はない方がいいんじゃないですか」
──おめーは黙ってろよ……!
舌の根までその怒声が競り上がってきた宮野だったが、なんとか理性をもって衝動を抑え込むことに成功した。
「荷物は刑事たちに預けておけばいい。それに、普段使っていたものがあれば、凛久くんも安心できるでしょう」
「確かに、そうですね」
「いや、でも……」妙に食い下がる花坂である。「犯人としても受け取ったお金の確認をしてから凛久くんの解法を考えているはずです。今日すぐに、とはならないんじゃないでしょうか」
「いや、考えてもみろ、花坂」ここでようやく宮野の意図を汲み取った杉村の援護射撃が光る。「さつきさんにとっては、凛久くんを迎えに行くという心持ちで臨む方がしっかりと行動できるようになるはずだ。今日は使う機会はないかもしれないが、今のさつきさんには必要なものだと思うぞ」
「そういうものでしょうか……?」
いまいち納得が行っていない花坂に宮野が微笑みながら言う。
「花坂さんも手伝ってあげて」
有無を言わさぬ鋼鉄の笑顔に花坂は了承せずにいられなかった。もはやパワハラといっても過言ではない。二人が隣室に入って行くのを見計らって、宮野と杉村はスッと立ち上がった。杉村はリビングの床を指さした。「こっちを探す」ということだ。宮野はうなずいてキッチンに向かった。
宮野は食器棚の扉を全て開け放った。何もない。冷蔵庫の中にも申し訳程度の食材が転がっているだけ。シンクの下の扉の中にも宮野が探し求めているものはなかった、探しているものは現金五千万円だ。見つけにくいものではない。鞄の中にあったが、机の中にはない。宮野はまだまだ探す気だ。そんなところに「踊りませんか?」と持ち掛けたらぶん殴られること必至だ。
シンクの扉を閉めて絶望的な顔で立ち上がる宮野は、同時に立ち上がったリビングの杉村と目が合った。そして、お互いに首を振った。
「それくらいあればきっと大丈夫ですよ」
花坂がそう言いながら、リビングの隣室から出てきた。膨らませたバッグを手にしたさつきは身代金の受け渡しへの気持ちを少しは整理できているような面持ちだ。
「宮野さん、シンクで何やってんですか?」
花坂が冷ややかな目を宮野に向ける。
「食器洗いのイメトレ」
「なんですか、イメトレって。さっきコーヒーカップ洗ってたじゃないですか」
「食器洗いを極めたいんだよ。放っといてくれ」
「いや、なんで刑事になったんですか、宮野さん……」
後輩に呆れられて宮野は忸怩たる思いを抱いたが、思惑が露見するよりはマシだと宮野は自分自身に言い聞かせた。
膝を突き合わせる宮野と杉村は見るからに落ち込んでいた。隙を突いて思いつく限りの場所を探した挙句、燃え殻みたいになっている。
「もうそろそろ時間が──……え、二人ともどうしたんですか?」
花坂が宮野たちの沈み込んだ顔に心底ドン引きした。
時刻は午後三時十五分……家を出るまであと十五分くらいしかない。宮野は身が引き裂かれんばかりの葛藤を抱えていた。再びあのポンコツ宮野シミュレーターが起動音をひり出す。シミュレーターが提唱するイエス・ノー分岐ルートがロボコップの視界さながらに宮野に問い掛ける。
〈花坂に自らの罪を吐かせる……イエスORノー?〉
宮野の、そして杉村にとっての最初にして最大の岐路だ。花坂がバッグの中身をどこかへやったのならば、そのことを問い詰めて、妥協の産物である八百三十三万を握りしめるべきか? 次の可能性が宮野の決断を鈍らせていた。
〈花坂が全く無実の人間だった場合〉
宮野は自らの口で自らの罪を告白するハメになる。バッグの中身がダミーだと知って、さつきは混乱するだろう。はっきり言って、身代金の受け渡しどころの騒ぎではなくなる。この可能性は杉村の仮説を疑っているから算出されたわけではない。万が一のものだ。これをパスしても次のことが起こり得る。
〈花坂が罪を認めない場合〉
花坂がバッグの中身を入れ替えるのならば、それは誘拐犯からの要請に従ってであろう。となれば、条件は宮野や杉村と同じ。花坂は二千五百万円のために白を切り続けるかもしれない。部屋の中から現金を見つけられなかった宮野と杉村には、花坂がバッグの中身をすり替えたと断言するに足る証拠がない。はぐらかされれば、最終的にタイムリミットを迎え、宮野たちは自分が誘拐犯と繋がっているという事実だけをぶちまけて現場に向かうことになる。それは実に虚しいことだ。
花坂が罪を認めたとしても、血で血を洗う争いが勃発する恐れがある。
〈花坂が罪を認めたものの、金の在処を吐かない場合〉
凛久くん誘拐そっちのけで、飽きるまで花坂への追及をしていられるほど人の温かみを失っているわけではない宮野にとって、このルートは第一の最悪なエンディングだ。
第二の最悪なエンディングは、花坂が罪を認めたものの、彼女がバッグの中身を入れ替えた犯人ではないという場合。
宮野たちは再び互いを疑い合う世界一醜くて小規模な冷戦状態に突入する。疑い合う時代の末には相互確証破壊による見せかけの平和が待っている。
読者諸君に熱弁したいのは、この宮野の一連の思考はほんの一瞬で行われているということだ。だから偉いというわけではないが、こういう土壇場になって人間は隠された力というものを開花させるのかもしれない。そして、賢明な読者諸君ならもう察しはついているかもしれないが、そろそろこの章も終わりが近づいている。つまり、何らかの動きがあるというわけだ。
宮野は、最初にして最大の分岐点に結論をつけた。
「花坂さん、ちょっと……」
宮野は手招きをして花坂と共に玄関そばの空室に向かった。それを見送る杉村からも覚悟のムードが滲み出ていた。
「なんですか、急に。告白でもされるんですか私」
「いや、俺、中学生じゃないからね」
「今どきの中学生はSNSのDMで告白すると思いますよ」
「現代っ子あるある言いたいわけじゃないんだよ……」宮野はイライラしていた。「花坂さんに聞かなくちゃいけないことがある」
「なんですか、こんな時に?」
宮野は意を決して尋ねた。
「あのバッグの中身をどこへやった?」
宮野の頭の中で千二百五十万円から四百万円あまりが天引きされる音がした。よくよく考えると、こうして弱点を曝け出すことで、花坂の邪心に火をつける可能性もあった。そういうことなら、問題を解決するために身代金の半分を三等分しましょう、と。彼女も金に困っているのだ。
「なんのことですか?」
花坂は宮野の追及をかわそうとしたが、なりふり構っていられないクズほどよく足掻くものだ。
「君はあのリビングで一人になる時間があった。その隙に金をすり替えたんだ」
「そんなことするわけないじゃないですか」
鼻で笑いながら花坂は目を逸らした。その仕草だけならウソと断ずることはできないが、花坂は腕を組んでいた。精神的な防御状態だ。探られたくないことがある……宮野はそう直感した。だから、次の問いはやや語気を強めたのだ。
「調べはついてる。君のもとに誘拐犯から手紙が来た。その指示で金をすり替えたんだ」
花坂は両目をきつく瞑って深い溜息をついた。憑き物が落ちたみたいに撫で肩になる。さっきまでずっと力が入っていたのかもしれない。
「もうバレてるんですね……」
ここで分かることがある。誘拐犯は三人の刑事に同じ内容の手紙を送っていたということだ。邪な人間を狭い部屋に放り込んで腹の探り合いをさせる。蟲毒のように争いを経た最後の一人が犯人に身代金という貢物をする役目を仰せつかるということ。
宮野は焦っていた。もう時間がない。
「じゃあ、金の在処を……」
「私がバッグの中を見た時にはすでにダミーの札束が詰まっていました」
宮野は天を仰いだ。
ああ……、この物語は最悪の結末に向かって転がり落ちているのだ……。
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