2 醜い皮算用

 米田は手紙を山口に預けると、ソファの後ろに立てかけていたバッグを掴んだ。中からタブレットを引き抜くと、地図アプリを立ち上げた。


「五本松中央公園がここだ」


 米田が身代金の入ったバッグをテーブルから下ろして、タブレットを置いた。宮野は米田がバッグを開くのかと思って焦ったが、その心配は要らなかった。


「この公園、周囲がオフィス街でここだけ急に緑があるんですよね。公園自体も結構見晴らしがよくて、誰かを張り込ませるとすぐに気づかれる恐れがあります」


 山口が難しい顔でそう述べると、米田は公園のまわりのビル群を指さした。


「ということは、遠くから監視自体はできるというわけだ。とりあえず、急いで近くのビルの部屋、借りられるかどうか確認してくれ。そこを前線基地にしよう」

「分かりました」


 山口が玄関の方に向かいかける。それを米田が呼び止める。


「それと、さつきさんと連携が取れるように通信機器の用意」

「分かりました」


 今度こそ玄関の方に向かう山口にまたもや米田が声を掛ける。


「それと、車両の手配」

「分かりました」


 そう言って玄関に走ろうとする山口にまたまた米田がカウボーイよろしく声の投げ縄をかけた。


「それと、気づかれないように公園周囲を哨戒」

「指示、一回で済ませられないですか」


 ついに山口が不満を露わにした。構わずに米田が言う。


「それと……まあ、いいわ。何かあったら連絡する。早く行け」


 何か言い返したそうな山口だったが、全ての言葉を飲み込んで飛び出して行こうとした。


「待って下さい!」


 今度はさつきが山口の足を止めた。悲痛な声に山口も振り返った。


「本当に大丈夫なんですか」嘆くように言うのはさつきだ。「もし警察の人が見つかったら、凛久はどうなるんですか!」


 詰め寄るさつきの両肩を掴んで、米田は一旦距離を取る。


「落ち着いて下さい。犯人は我々が絡んでいることを承知している。ある程度の介入は仕方がないと受け入れているんですよ。それでも、公園内に刑事を入れないことという注釈をつけたのは、そこが越えてはならないラインだということです。それさえ厳守すれば、凛久くんの命は守られるはずです」

「ですけど……」


 凛久くんの命が関わるのならば、さつきが譲歩したくない気持ちも分かるだろう。さつきの主張は初めから身代金を渡して凛久くんを無事に取り戻すことだった。米田は彼女を説得するために、諭すような声色で言った。


「いいですか。私が懸念しているのは、犯人が身代金を手に入れて、凛久くんの身柄も解放しないという可能性です。そうならないために、しっかりと犯人を捕捉しておく必要がある。あの時、不測の事態に備えておけばよかった、と後悔しないために。分かりますね?」


 熱を帯びる米田の言葉にさつきはうなずいた。米田が目配せすると、山口は今度こそ本当に部屋を飛び出して行った。それと入れ替わるようにして、鑑識の人間たちが姿を現す。


「お、岸、お疲れ」


 杉村が先陣を切って入ってきた鑑識官に挨拶をした。杉村と岸は警察学校の同期だ。杉村と米田が中心となって話を進めていく中で、宮野はゆっくりと中座した。




 まずは、一つだけ空室になっていた玄関近くの部屋へ。しかし、フローリングの床には収納スペースはない。部屋の隅にはクローゼットがあり、扉が開いている。素早く近づいて中を覗き込む。空っぽだ。部屋には段ボール箱が置いてあるわけでもない。完全な空室だ。物を隠せるような死角もない。


 部屋を出て、玄関に目を向ける。シューズボックスを素早く開けていくが、中にはさつきと凛久くんのものと思われる靴が二、三足ずつ収められているだけで、目に入るものはない。


 次に脱衣所に向かい、ドアを開く。脱衣所には洗面台と洗濯物を入れておくカゴ、洗濯機、洗剤が置かれている。タオル掛けにはバスタオルが一枚掛かっている。宮野は洗面台の前に屈んで台の下の扉を開けた。排水管がうねっているだけで、何も物がない。洗濯機の中も空っぽだ。浴室から中を覗くと、湯船の蓋が開いていて、中には水も張られておらず、バッグが隠されていることもなかった。


 空振りに終わった宮野が重い足取りで脱衣所を出ると、廊下に立っていた花坂が怪訝な視線を投げつけてきた。


「何してるんですか、宮野さん?」


 デカい声を上げそうになるのをなんとか堪えると、宮野は平静を装って足早にリビングに戻る。


「別になんでもないよ。気にするな」


 花坂に有無を言わせずにリビングの刑事たちの輪に加わる。一瞬だけ目が合った杉村に収穫がなかったことを表情だけで伝える。


「それでは、鑑定に回しますので……」


 岸たちが嵐のように去っていく。時計の針は午後二時三十分を指していた。


 ──あと一時間がタイムリミットだな……。


 宮野がそう判断するのは、五本松中央公園がここから車で十五分ほどのところにあるからだ。諸々の事情を含めると、午後三時半頃にはここを出て行く必要がある。ボストンバッグを持って。哨戒チームとのリモートミーティングをセッティングしている米田を尻目に、宮野は杉村に小声で話しかけた。


「あと一時間でマズいことになります」


 しかし、杉村の反応は宮野にとって意外なものだった。目を丸くして、不思議そうな表情だ。


「なに言ってんだ? 犯人の俺たちへの要求はバッグの中身をすり替えることだ。金の入ったバッグを届けることじゃない。中身がダミーなのは向こうも勘案済みだ」

「あ、そうか」


 宮野はずっと勘違いをしていた。バッグを受け渡し場所に持って行くまでに中身の金を見つけなければならないと思っていたのだ。散々初歩的なミスを繰り返してきたのは、タイムリミットがあると思い込んで焦っていたせいなのだ。きっと宮野が無能なわけではない。きっと。おそらく。たぶん。どうでもいいことだが。


 とはいうものの、何か問題が一つでも氷解したわけではない。相も変わらず、宮野と杉村にとっては、誰がどこに金を隠したのか、ということが最優先課題である。誰が凛久くんを誘拐したのかは、身代金の受け渡しの際に明らかになるだろう。


『ザッと公園の周囲を回りましたが、特に気になる動きはありませんでした』


 気づけば、米田が哨戒チームとやり取りをしていた。哨戒チームは車両三台、二人一組の徒歩が五隊だ。米田はスマホで繋いだ山口に尋ねた。


「そっちはどうだ? どこか適当な場所を見つけられたか?」


 山口は前線基地となる、公園が見渡せる部屋を探している。


『今、関係各所に打診中です』


 スピーカーから早口の山口の声が応える。


「通信状況のテストもしなきゃいけないから、あと三十分くらいで私も出るぞ」

『急がせます』


 山口は返事も待たずに電話を切ったようだった。米田は宮野たちに向き合った。


「現場では、お前たちは分散して犯人を追え。私は前線基地から指示する」

「徒歩だと撒かれる可能性があります」


 杉村が最悪の事態を危惧するが、米田は首を振る。


「車両チームをお前たち一人一人に対応させる」

「私はどうすればいいですか?」


 すでに緊張で強張っているさつきの声は微かに震えている。


「これから通信機器を持ってくる連中がいますので、セッティングは彼らに任せてくれれば大丈夫です」

「ちゃんとできるか不安です……」

「何も考えずにバッグを持って指定の場所へ行けば大丈夫です。特別なことをする必要はない」


 花坂は心配そうだ。


「でも、公園に着いてからの犯人の指示はないんですよね。何が起こるか分からないというのは、ちょっとアレですね」

「そのために随時連絡できるようにするんだ。さつきさん、気になったことがあれば、常に喋って伝えて下さい。まわりにはすぐに駆けつけられるように我々がいることをお忘れなく」

「公園の中には入って来ないで下さいね」


 そう訴えるさつきの目は真剣そのものだった。それが凛久くんの命運を左右するのだから、当然のことだ。


 宮野のスマホが震える。メッセージアプリに杉村のメッセージが着信していた。


〈さつきさんに通信機器をつける時、おそらく隣室で作業を行うはずだ。その隙に、俺たちでリビングとダイニングを調べよう〉


〈了解です〉


 宮野は素早く返信して素知らぬ顔で米田の作戦指示に耳を傾ける。


「刑事であるお前らに言うことじゃないが、改めて肝に銘じてくれ。何があっても犯人から目線を外すな。相手がどんな陽動を仕掛けてくるかも分からない。あの公園じゃ、クレープのキッチンカーが出ていることもある。目移りするなよ」

「しないですよ……」

「目移りしないように、先にみんなでクレープでも食っておくか」

「米田さんが食いたいだけでしょ……」


 宮野の小言に鋭い眼差しを返す米田だったが、スマホが鳴るとすぐに電話に出た。しばらく話を聞いていた米田の表情が見る見るうちに険しくなっていく。


「お前、それホントか? ……確実に本人なのか? ……できるだけ早く見つけ出せ」


 電話を終えた米田が神妙な面持ちで伝える。


「良い情報なのか悪い情報なのか分からないが、倉橋の姿が凛久くん誘拐の二日前にここの最寄り駅の防犯カメラに映っていたらしい」


 さつきが口元を押さえて絶句した。


「どうやってさつきさんの居場所を特定したんだ……」


 杉村の言葉に花坂はさつきを見る。


「もう一度確認ですけど、日本に来て誰かに連絡を取りましたか?」

「そんな相手いませんから、誰にも」

「偶然? ……いや、でも、まさかそんな……」


 米田は手を叩いて一同の注意を引いた。


「まずは倉橋よりもこっちのことに集中しよう。他のみんなが倉橋の線は追うだろうから、そっちは彼らに任せるんだ」


 また米田のスマホが鳴った。その画面に目を通して、米田は「ちょっと外す」と言って玄関の方に消えていった。


「とにかく、我々が全力でサポートしますので」


 杉村の言葉にさつきは不安げにうなずいた。


 宮野の頭の中は雑念で渦巻いていた。そこに匂いがあったなら、下水道よりも悪臭を放っていたに違いない。宮野が不安視しているのは、身代金を運ぶ際にバッグの中を念のために確認する可能性があるということだった。バッグの中身がダミーなのだとしたら、さつきが最初に拒絶反応を示すだろう。そうなれば、次に、消えた金を探す作業が始まる。バッグやその中身を外に持ち出すチャンスがないことはすぐに分かることだ。本物の金が見つかれば、それがバッグの中に詰め込まれ、身代金受け渡しが続行される。


 ──やはり、タイムリミットは身代金受け渡しが始まる前だな……。


 宮野は米田がテーブルの上に置いていたタブレットを手に取って、杉村を部屋の隅に呼んだ。宮野はタブレットを見る振りをしながら、消えた金を一刻も早く探す必要性について静かに熱弁を始めた。


「バッグの中身が本物だとマズいんです。犯人は身代金の受け渡しが最もリスクの高まる瞬間だと知ってます」


 今日日、サルでも知っていることだ。現金を受け取るには、本人であれ身代わりであれ、実体のある人間が現れなければならない。


「だから、焦って金を探す必要はないんだろ。それはさっき言っただろ」

「いや、それだけじゃないんです。今この状況でバッグの中身を確認されたら、ダミーが入っていることがバレちゃうじゃないですか。すぐに金探しが始まる。俺たちの見立てでは金はこの部屋の中にある。もしそれが見つかったら、バッグの中身を本物にされてしまいます……」


 それが普通なのだが、今の二人にとっては死活問題だ。


「犯人が俺たちに接触してきたのは、身代金の受け渡しリスクを極力なくすためです。もし、バッグの中身が本物だったら、きっと犯人は金を受け取ることができないと判断して、凛久くんがやばいです」

「しかも、俺たちは何も得られないまま、か……」

「俺たちができるのは、最悪、今バッグの中身がダミーだとバレても金が見つからずに、ダミーのままで行きましょうっていう流れにすることだと思うんです」

「さつきさんが了承するか?」

「そこは米田さんに任せましょう」

「う~ん、あの人、大丈夫かな……」


 熱血刑事だけに、何を提案するか分かったものではない。


「それは最悪の場合です。俺たちが最優先で死守するのが、バッグの中を確認させないこと。次に金を探すことです。でも、俺たちはもうすぐここを出ます。きっと、戻ってくるのはせいぜいあと一度くらいじゃないでしょうか」


 楽観的な未来では、警察は誘拐犯の身柄を確保。そして、凛久くんの安全を確認。その後、諸々の事情聴取の時間があり、さつきはここと警察の間を行き来することになるだろう。刑事たちが再びここに長居できる機会はあまりない。


「確かに……。それに、犯人は金を自宅に隠しておくように言ってきてる。金が手元になければ意味がないというわけか……」


 険しい表情でタブレットに目を落とす振りをする杉村のそばに花坂がやって来る。


「何か問題でもありましたか?」

「なんでもない。なんでもない」


 二人の声がユニゾンを奏でる。宮野は花坂を強引に向こうの方へ追いやると、また小声で話し始めた。


「でも、よく考えたら、花坂さんはどうやって今から金を持ち出すつもりなんでしょうか」


 杉村はチラリと花坂の様子を観察した。


「慌ててる様子はないな」


 慌てている杉村がそう言うと説得力がある。


「もしかして、もう金は部屋の外に?」

「いや、そう決めつけるのはまだ早いだろう。花坂なら事件後のケアかなんかで話を聞きに来る機会もあるかもしれない」

「ああ、それを見越して部屋のどこかに……」


 意地の悪い推測は続く。


「そうなると、よほど見つかりにくい場所に隠してあるということになる」

「でも、そんな場所ありますか?」

「探すしかないだろ」


 杉村が乱暴に言い放った理由は、米田が暗い表情でリビングに戻ってきたからだった。


「ひとまず、我々の目的は、何事もなく犯人に身代金を渡すこと。さつきさんも、よろしいですか」

「そのつもりです」


 一同は表面上は一致団結した。


「もうそろそろ通信機器を持ってくるはずだから、それまで待機だ」


 だが、この段になって宮野の胸の中にはまた新たなクズアイディアが芽生えていた。しかし、そのアイディアには一つ気持ち悪いことがあった。


 ──二千五百万円は三で割ると八百三十三万三千三百三十三円……割り切れないな。


 あろうことかこの男、花坂すらも飲み込んで三人で共犯になる道すらも考え始めていたのである。効率が良いのかもしれないが、こうして追いかけているのが嫌になるほど腐っている。正義感に溢れた主人公っぽい刑事はいないのだろうか。


 宮野にとって、この三人共犯のアイディアには数字が割り切れない以上のネックがあった。リスクを取っても、得られる金額では借金を完済できないということだった。どうせやるならハイリターン。宮野が花坂を引き込む案を杉村に進言できなかった理由である。

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