4 低レベルな心理戦

「おい、話聞いてたか?」


 疑わしいと睨んでいた当の杉村が宮野の目の前で手を振っていた。


「え、なんです?」


 杉村は手にしていたスマホをポケットにしまいながら舌打ちをした。


「郵便局でここ宛ての手紙が見つかったら、待機してた奴が手紙をここに持ってくる。で、鑑識もここにやってくる。それまで俺たちも手紙に痕跡を残さないように白手やらを準備しとかなきゃならない」

「じゃあ、俺が……」

「だから、それを今、二人が取りに行ったんだよ」


 杉村が指さすのは二人がさっきまでいた空間だ。


「あ、そうですか」

「お前、気ぃ抜いてんじゃねえよ」


 ──おめーのせいだよ!


 宮野は胸の中で絶叫した。そばにさつきがいたおかげでなんとか口を開かずに済んだようなものだ。その心の中の絶叫が、宮野の怒りにジョボジョボとガソリンを注いだ。


 二千五百万円である。それを奪ったのがこの男かもしれない。しかも、ギャンブルで借金地獄にダイビングした分際で、だ。


「杉村さん、ちょっとこっちで話したいことがあるんですが」


 宮野はスッと立ち上がってバルコニーに親指を向けた。もはや体育館裏に武力レベルの低い男子を呼び出す不良である。杉村と一緒にバルコニーに出ると、宮野はゆっくりと窓を閉めた。


「なんだよ、話って?」


 言うべきことは決まっていた。だが、それを口にすることで取り返しのつかないリスクが生まれる可能性があった。


「俺、知ってますよ」


 理性よりも感情が勝ることがある。刑事をやって来て、犯罪に手を染めた多くの人々を見てきた宮野にはそのことがよく分かっていた。


「知ってるって何を?」


 それまでは杉村の顔を見ることができなかったが、宮野はついに真っ直ぐと先輩の目を捉えた。


「昨日の夜七時過ぎに俺と花坂さんがコンビニに飯を買いに行った時、杉村さんはあのバッグを開けましたよね」


 そこが踏み込めるギリギリのラインだった。「杉村が金をすり替えた」と主張してしまうと、それが間違っていた時に今からバッグの中を確認する流れができてしまう。そうなれば、藪蛇になる。かといって、弱気に「バッグの中身見ました?」と聞いても、ただ否定されるだけだ。最悪の展開では、やはりそこからバッグの中を確認するハメになる。


「なんでそう思うんだよ」


 返ってきたのは、宮野が想定していたよりも温度の低い反応だった。宮野は意味深に微笑むと、小さい鉢植えが二つ括りつけられたバルコニーの手すりに腕を乗せて遠くを見た。


 ──やべえ。何も考えてなかった。


 準備のなかった宮野は、一発で窮地に立たされた。


 宮野は考える。杉村がバッグを開けたと思った理由をどうでっち上げるべきか。


 シミュレーション1:杉村は金に困っている。→目の前の大金に欲望を押さえられなくなり、金を抜いたのでは?→じゃあ、今からバッグの中を確認しようじゃないか。


 これはダメだ。さっき懸念していた、バッグの中身を確認するルートに向かって飛んで火に入る夏の虫だ。


 シミュレーション2:誘拐犯からの手紙で金を山分けに──


 これもダメだ。そんな突拍子もない考えを披露してしまうと、逆に宮野自身が疑われるハメになる。ロジックの合気道で攻めた勢いのまま攻められてしまうのだ。雉も鳴かずば撃たれまい。こちらから必要以上の情報を与えるということは、手の内を見せることに等しい。


 シミュレーション3:米田に「触るな」と釘を刺されていたことで好奇心が勝ってしまい、リビングに一人になった隙にバッグを開けてしまった。→分岐1:開けたよ。それがどうした?


 これは最悪のパターンだ。ただ宮野は墓穴を掘っただけということになる。次のターンでは、杉村は言うだろう。「寒いから中に入ろうぜ」……そう言われるのはまだマシな方かもしれない。


 シミュレーション3の分岐2:開けてないんだが、なんでそう思うんだ?→さっきの「なんでそう思うんだよ」に戻る。


 これは意味のないルートだ。


 宮野はそもそも論に行きついてしまう。そもそも、「あのバッグを開けましたね」は、そんなに自画自賛するほど絶妙な質問でもなかった。それは読者諸君も感じていたことだろう。


 哀れな宮野。顔面に余裕をぶっこいた微笑みを貼りつけて、日の差し込む丁字路を見下ろすくらいしかできない様子である。急がば回れ、何事も。しかし、次の瞬間に、宮野は耳を疑うことになる。


「お前、さっきバッグ開けてただろ」

「……はい?」


 想像していなかったカウンターパンチに、宮野は上擦った声を上げてしまった。


 ──見られていた?


 確かに、あの一瞬、宮野の全神経はバッグの中に注がれていた。そこを目撃されていたというのは、宮野にとって一生の不覚というやつだ。


 足元をすくわれながらも、何とか生きながらえるために、宮野は脳内に無数にある引き出しの中からうまい返しを探していた。


 道は三つしかない。肯定か否定か、誤魔化しか。


 肯定をすれば、なぜの追撃。否定をすれば、もし本当に杉村に見られていた時に退路を断たれる。誤魔化すのはますます立場を悪くするだけ。


 杉村さんの話をしているんです……そう開き直るべきか否かを、盤上を見つめる棋士のような目で見極めようとしていた宮野の耳に、杉村の小さな笑い声が届いた。


「──って訊かれたらどうする?」


 ──鎌を掛けられていた?


 ぐらついていた足元が崩れるような感覚に苛まれながら、宮野はなんとかぶっ倒れるのを持ち堪えていた。


「どういうことですか?」

「そんなことをなんでさつきさんから隠れるようにして訊いてきたんだ、お前は?」


 そう指摘されて、宮野の脳天に雷が直撃した。


 杉村の言う通りだった。客観的に見れば、別にどうということはない雑談程度の質問だったはずだ。そこに得体のしれない巨大な影を感じてしまったのは、同じような闇を宮野が抱えていたからに過ぎない。杉村はそのことを敏感に察知して、宮野に投げ返してきたのだ。


 宮野は跪いて降参するために身を屈めようとした。もちろん、比喩表現だ。杉村の慧眼に屈服する……そういう心積もりが出来上がりかけていた。しかし、宮野の目に一筋の光が差し込んできたのである。


「いや、外の空気を吸いたいと思っただけなんですけどね。……杉村さんにはそんなに重要なことに思えたんですか?」


 ──勝った……!


 宮野はガッツポーズをした。もちろん、心の中で。杉村は宮野の一見すると些細な質問にやや大袈裟に反応していた。それはなぜなのか? 宮野はそこに勝機を見出したのである。杉村は何かを隠しているのだ、と。そして、それは、あの五千万円に関わることなのではないか、と。


 杉村はバルコニーの手すりの上で両腕を組んで俯いた。


「まさかお前に疑われることになるとはな……」


 小さくそう言った杉村の言葉を宮野は聞き逃さなかった。なにせ、先輩相手にマウントを取れるチャンスである。杉村はジャケットの内ポケットから見慣れた茶封筒を引き出した。杉村の宛名はシールに書かれている。


「それは……」


 俺も持ってるやつです、とは言わなかった。というより、なぜそんな危険なものを持ち歩いているのか、杉村の気が知れなかった。返り血をつけて街中を闊歩するのと変わらないではないか。


「誘拐犯からの手紙だよ。俺の事情を詳しく知っていやがる」

「それで、何をしようとしてたんですか」


 そういうことなのである、読者諸君。宮野はこの瞬間に、たいへん卑怯なことに、自分が誘拐犯の片棒を担ぎかけていたことなどなかったかのように葬り去ってしまったのだ。


「犯人は俺にこう持ち掛けてきた。『身代金の半分をやるから協力をしろ』と」

「ええ……? なんですって? それでどうしたんです?」


 演技は下手だが仕方がない。宮野は精一杯に無知な刑事に徹することにした。


「協力しようと……」

「なに考えてるんですか……!」


 宮野は小さい声で叱責した。自分のことは棚上げどころか、その棚を二階に移動させるレベルだ。


「仕方ないだろ。犯人は俺の家族のことを知っているらしい。それに……二千五百万円だぞ。それさえあれば、俺の家族は……」

「杉村さん刑事ですよね。いつだって冷静に物事を見極めてきた。そんな杉村さんを、俺は心から尊敬していたんですよ」


 実際のところは、たいして尊敬していない。そのことはなんとなく読者諸君にも伝わっているだろう。


「千二百五十万でどうだ?」

「……え?」


 宮野の脳味噌が再び舵を切る音がした。


「二千五百万の半分」

「──を?」

「お前と俺で半分こ」


 新興宗教の勧誘みたいに目を輝かせる杉村。その瞳の輝きに宮野は飲み込まれそうだった。この状況なら、いざとなれば全ての罪を杉村に被せて、自分は先輩から強要されただけなんですと主張できる余地があることを宮野は目敏くも見出していたのだ。


「千二百五十万……」


 当初の計画の半額だが、ないよりはあった方がいい。それに、二人掛かりでやれば米田と花坂の目を盗んでバッグの中身をすり替えることくらい……そこまで考えて、宮野は我に返った。


「いやいや、バッグの中身はどうなったんですか? どうやってすり替えたんですか?」


 杉村の顔が険しくなる。宮野は首を傾げた。


「どうしたんです?」

「おい、お前、なんで俺がバッグの中身をすり替えるつもりだったって知ってるんだ? この手紙の内容を読んでもいないのに」

「あ……」


 まさに語るに落ちるというやつだ。そして、捕らぬ狸の皮算用に、二兎を追う者は一兎をも得ず、虻蜂取らず、花も折らず実も取らず、欲す鷹は爪落とす。先人たちがあの世から腐るほど諺を投げつけてくる。


「もしかして、お前か?」

「違います、違います!」

「ああ? 何が違うんだよ。言ってみろよ」


 詰め寄られてもソーシャル・ディスタンスと言ってバリアを張ることができなかった。宮野は十秒くらいたっぷり逡巡して、ついに肩を落とした。


「そうですよ……。俺のところにも手紙が来ました。内容はきっと杉村さんのやつと同じです」

「なんで犯人の片棒を担ごうと思ったんだよ」


 今度は杉村が自分のことを棚上げする番だった。


「母親のことを引き合いに出されたので、無碍にすることもできず……」


 杉村は溜息をついて宮野の肩に手を置いた。


「お互い辛いな」

「……なんか、すんません。試すようなことをして」

「いや、いいってことよ。俺もずっと頭がおかしくなりそうだったんだ」


 最低の環境で二人の間に友情にも似たような絆が生まれ始めた。


「お前はさっきバッグの中を見たのか?」

「見ました。全部の束が上下だけ一万円のダミーに変わってました」


 杉村は悔しそうに拳を手すりに打ちつけた。なんとなく画になりそうなシーンではあるが、所詮は他人の金を掠め取ろうとして失敗しただけの非道な間抜けである。


「それで、杉村さんはバッグの中は見たんですか?」


 杉村は質問に答えるよりも先に、深刻な表情で声を潜めた。


「それで思い出した。金をすり替えたのは花坂に違いない」

「えっ、なんでですか?」

「俺がバッグの中を見た時、中身はまだ本物だった」


 さっき昼食を買いに出たのは宮野と杉村。部屋に残っていたのは、米田と花坂、そしてさつきだ。


「でも、どうして花坂さんが?」


 杉村が語り出した。


「あいつには動機がある」

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