3 隙を探して思い出す
十一月二十日午後二時四十分頃、銀行で五千万円を受け取った米田たちは小野寺家のマンション近くにあるパーキングに戻ってきた。
「トランク開けますよ」
助手席で宇崎と電話していた米田が会話を中断して、後部座席のさつきに早口で伝える。
「さつきさん、後ろに回ってすぐにバッグを」
さつきはうなずいて車外に出てトランクが開くのを待った。宮野がトランクを開けて車を降りると、さつきがバッグを抱えているのが見えた。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫です。凛久に比べたら」
また反応しづらいことを言う彼女に宮野は苦笑いを返す。米田の声が飛ぶ。
「早くマンションに戻ろう!」
宮野はさつきからバッグを受取って足早にマンションのエントランスに滑り込む。
小野寺家のリビング、そのど真ん中のテーブルにバッグを置くと、杉村も花坂もまるでゾウがやってきたみたいに色めきだった。彼らの物ではないのだが。
「ほーら、五千万円だぞ~」
ほーら、寿司だぞ~みたいに米田が言ってバッグの口を開ける。
そうなのだ。あの時、米田はバッグの口を開いて中身を見せていた。ただし、花坂と杉村には触らないようにと牽制していたのは、銀行で十分に楽しんで平静を取り戻したからなのかもしれない。
「こんな大金見たことないですね……」
杉村の頭の中にはファンファーレが鳴った後にゲートが開く音が鳴り響いていたかもしれない。
とにかく、あの時からあのバッグはずっとリビングのテーブルの上に置いたままだ。基本的に部屋の中には刑事がいて、自由にはできない状態だった。つまり、十一月二十日の午後二時四十五分頃から翌二十一日の午後一時頃までのおよそ一日の間に金が消えたことになる。
宮野が狙っていたように、リビングに誰の目も届かない瞬間というのは何度かあったはずだ。だが、それは逆説的に杉村にとっての金のすり替えチャンスを潰していたということになる。宮野は二千五百万円欲しさにかなりの時間をバッグの監視に注いでいたからだ。
宮野は考える。
その状況は見方を変えれば、宮野の監視が途絶えた瞬間に杉村の暗躍する余地が現れるということだ。十一月二十日の午後二時四十五分頃から午後十時までの七時間十五分のうち、宮野がトイレに立ったのは一回だけだ。宮野は経済状況は脆弱だが膀胱は強靭だ。それを知れば、鋼の膀胱と人は呼ぶだろう。悲しいかな、宮野の膀胱事情に詳しい人間はこの世には存在していない。トイレに立ったその一回もせいぜい三十秒ほどのことで、それからすぐにリビングのバッグのそばに陣取った。その三十秒間、リビングには杉村と米田が、隣室にはさつきと花崎がいた。杉村が米田の目を盗んで金をすり替えるのは不可能と見てもいいだろう。
「こうしてじっと待っているのは、性に合わん」
米田はソワソワしながらそう言っていた。テーブルを挟んで座っていた杉村はマスクを顎の下に下ろしてスマホをいじっていたが、米田の言葉に笑顔になった。
「熱血刑事ですもんね」
「お前らが冷血刑事なだけだ」
「でも、そのせいで上に目をつけられてるじゃないですか」
「あの連中は椅子取りゲームで音楽が鳴っているのに立ち上がらない卑怯者ばっかりだ。今よりふかふかな椅子が目の前に置かれるまで重い腰を上げようとはしない。だから、思い通りにいかない人間を嫌うんだよ」
「なんでそんなに上を嫌うんですか」
隣室から花崎がやって来る。
「私には分かりますよ。米田さんはいつも孤軍奮闘してますから。今回だって記者対応を押しつけられて……」花坂は小声になった。「もし万が一のことがあったら、世間が叩く的にさせられるんです」
「決めつけるなよ」
花坂は食い下がる杉村を白い目で睨みつけた。
「杉村さんは米田さんの味方じゃないんですか?」
「敵とか味方とか、そういうことじゃない」
「どうでもいいですけど、マスクちゃんとして下さい。もしここで病気になったらシャレにならないですよ」
「分かってるよ」
口を曲げてマスクを引っ張り上げる。警察でもウィルスに感染し、穴を空けてしまう者もいる。統計によれば、犯罪認知件数は情勢に関わらず減少傾向だが、稼働できる人間が減れば現場の負荷は横ばいかやや重くなる。警察のような組織では、一人の感染者が出ればその濃厚接触者もごっそりと自宅待機を命じられることになる。
「私のために言い争うのはやめて~」
悲劇のヒロインみたいなことを口にして、米田はニヤリとした。杉村は不服そうだった。
「米田さんも米田さんですよ。腕折ったのにすぐに現場に戻るから、上は米田さんを歯車だと考えるんです」
米田は右腕に目を落として、顔を歪めた。
「だって、病院ってマジで退屈なんだぞ。人生が停滞してる」
「だから、病気とか怪我が治るんだと思いますけど」
花坂が米田の顔を覗き込んだ。
「結構な怪我って聞いたんですけど」
「大したことない。橈骨遠位端骨折ってやつだ」
「なんですか、それ? なんかやばそうですけど」
「手首の骨折だよ。今もここにチタンのプレートが入ってる」
手首の内側には縦方向に微かに傷が残っているのが見える。
「うえぇ……サイボーグじゃないですか。取らないんですか?」
「なんでも場所がちょっと悪くて取る時に靭帯を傷つける可能性が高いらしい。だから残したままにしてる。名誉の負傷ってやつだ」
それを聞いた杉村は乾いた笑いを噛み殺した。その笑いの意味を宮野は知っていた。
当時の米田にはすでに内示が出ており、牧瀬の逮捕は異動前の有終の美を飾るはずだった。それが、この物語の冒頭のことがあって、汚点となった。この件の前に決まっていたとはいえ、米田の捜査一課への異動には数々の陰口がついて回ったとか回っていないとか。
十一月二十日の回想を手動の映写機で脳内に再生していた宮野の手が止まった。そして、映像は早回しになる。午後七時を過ぎた頃にスピードが等速になる。
「晩飯にするか」
米田はそう言って、隣室のさつきを呼んだ。彼女はずっと何も口にしていなかった。米田が何か食べたいものはないか尋ねると、さつきは弱々しく首を振った。
「ご自由に食べて下さい」
刑事たちは顔を見合わせたが、腹が減っては誘拐捜査はできないということで、米田が財布から金を取り出して宮野に渡した。女性陣に何を買って来ればいいのか……と考えていると、花坂が言った。
「私も行きますよ」
二人して玄関に向かう背後で、米田がさつきを伴って隣室に向かっていた。
──あの時に、杉村はリビングで一人だった。
コンビニの往復で十分ほど。帰ってきた二人の耳にさつきの泣く声が聞こえた。凛久くんがいなくなって二日。彼女の不安はピークに達していた。そして、その不安から零れ落ちた感情が怒りに育っていたのを、刑事たちは気付かなかった。
ここでさつきが何を言ったかは今の宮野には些末なことだった。杉村は言っていた。
「ずっと話し込んでるなと思ったら、突然さつきさんが大声を上げて……」
宮野と花坂がコンビニから帰って来る直前のことだったらしい。つまり、杉村はかなり長い時間、リビングでバッグとゴールデンタイムだったわけだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます