2 膨らむ疑問符

 杉村はギャンブル狂だった。紙切れになった券を握りしめながら、「馬を観に来ただけだし」とうそぶくタイプの。そのせいで、信頼を担保に金を引っ張り出せるカードを何枚も財布に忍ばせているのを宮野は見たことがある。


「なんでそんなにカード作るんですか?」


 意地でも借金をしない宮野にはそれが不思議だった。


「いざという時の保険を掛けてるだけだ。お前も大学入試の時に滑り止め受験したことあるだろ」

「大学受験と消費者金融を同列に語ってる人を初めて見ましたよ」


 飲みに行った席で耳に入れた意味不明な理論のせいで酔いが少し醒めたのは、宮野史上であの時だけだった。


「人間ってのはな、宮野、持ちつ持たれつなんだよ」

「奥さんには話してるんですか?」


 酒臭い溜息を盛大に撒き散らして杉村は肩を寄せた。ちなみに、世界中の人々が互いに距離を取る前の出来事だ。


「あのな、宮野よ、世の中ってのはな、胸の中にある言葉をなんでもかんでも口にすりゃあいいってもんじゃないのよ」

「つまり、秘密にしてるってことですね」


 杉村は身を引いて心底興醒めしたかのように真顔になった。


「辞書みたいな喋り方するな」

「なんですか、辞書みたいな喋り方って」

「俺の言葉を編纂するな。秘密とかじゃない」


 実際、秘密だったらしい。ある時ひどく落ち込んでいた杉村は、心配して声を掛けてきた宮野にたった一言だけ「バレた」と呟いた。それ以来、小遣いもままならないらしい。家庭内景気動向指数が上向きを示さない限りはその状況が続くだろうが、宮野の知る限り今でも杉村はお手製の弁当を持参してきている。


 そういう諸々の過去の光景が今の宮野の中では金の亡者みたいなイメージに繋がるのである。


 と、ここまでやって来て読者諸君も気づいただろう。なぜ杉村が犯罪の片棒を担ぐようなことをしなければならないのか。私利私欲のために凛久くんの命を利用したと宮野が考えているのはなぜなのか。


 一足遅れて宮野もその疑問にぶち当たっていた。いくらなんでも一介の刑事が幼い子どもの命と家庭内景気動向指数を天秤にかけるだろうか、と。金がなくなれば、持ち去る機会を持つのは限られた人間だけになる。宮野は自分がそういう事態を引き起こそうとしていた本人だと気づかないまま、杉村への疑いを見直そうとしていた。




 一服が済んだ頃に、宮野は素早く全員分のカップを片付け始めた。


「私がやりますよ」


 さつきが言ったが、宮野は良い人の振りをして、そして、なぜかちょっとだけ良い声で、


「さつきさんはゆっくりなさって下さい」


 と歯を見せた。宮野の目的はキッチンまわりの収納スペースだった。金を隠せる場所くらい腐るほどあるというのは、某金融系映画で学んでいた宮野だから、これは期待が持てそうである。早速、カップを洗う振りをしながら、床をチェックする。キッチンには床下収納が備えられているケースがある。しかし、床下に続く蓋のようなものは見当たらない。シンクの下の扉の中は空だ。


「なにドタドタやってるんだ?」


 米田がリビングからこちらへ来ようとしていたが、宮野は必死の形相で制した。


「俺、食器洗いは孤独にやりたいタイプなんで!」

「食器洗いはだいたい孤独だろ……」


 謎の迫力に気圧されて、米田はリビングに留まることになった。ホッと胸を撫で下ろす宮野だったが、キッチンに立って気づいたのは、食器棚にはほとんど住人がいないということだった。


「さつきさん、これ終わったらどこにしまうんですか?」


 濡れたカップを掲げる。


「食器棚の適当なところで大丈夫ですけど、水切りラックに入れておいて下されば大丈夫です」

「食器棚ほとんど空ですもんね」

「越してきたばかりなので……」

「越してきたばかり……」


 今まで金の計算ばかりしてきた宮野だったが、ここにきていっぱしの刑事らしく誘拐犯の正体に繋がるかもしれない疑問に行き当たったようだ。


「あの、誘拐犯はこの家にどうやって手紙を送ってきたんでしょうか?」


 カウンターキッチンを挟んだ向こう側で刑事たちが首を捻る、


「どうやってって……パソコンで手紙作って茶封筒に入れて……」


 米田が指折り工程を数えるが、宮野は違う違うそうじゃないとサングラスを掛ける勢いで手を振った。


「ここの住所はどうやって知ったんです?」

「どうやってって……」米田はそのままフリーズしてしまう。「どうやって?」


 問い掛けられた杉村たちも答えに窮した。


「それまでずっとアメリカに住んでいて、越してきたばかりのこの家の住所をなぜ犯人は知っていたんでしょうか?」

「さつきさん、ここの住所を知っている人は?」


 杉村に問われて、さつきは中空を見上げた。


「ええと……ほとんど知らないはずです」

「となると、犯人はあなた方をある程度監視して情報を集めて犯行に及んだ可能性がありますね。ただ、このマンション周辺でそういう怪しい動きの人間が目撃されたという情報はまだ寄せられてません。何か他にも見落としが……」

「あ、迷子バンド」


 米田の言葉を遮って、さつきがそう言った。


「なんですって?」

「凛久の手首に迷子バンドをつけてたのを忘れていました」

「迷子バンドってなんですか?」


 花坂は身を乗り出す。杉村は短く答えた。


「子どもの名前とか家の電話番号や住所を書いたバンドだよ」


 迷子は自分の家の住所や電話番号など答えられない。特に、活発に動き始める二歳を過ぎた子どもは。もし迷子になった時のためにあらかじめそういう情報を身につけさせておけば、迅速に連絡を取って子どもを迎えに行くことができるというわけだ。


「ああ、じゃあ、その迷子バンドの情報を読んで……」


 犯人への糸口になりそうな雰囲気を全員が感じていただけに、かすかな失望が刑事たちを押し潰した。


「落ち込む必要はないぞ」米田はおきあがりこぼし並みにすぐに立ち直る。「犯人が突発的に犯行に及んだ可能性も出てきたということだ」

「それだと、結局、容疑者候補が無数にいるってことになりませんか」


 杉村の神妙な顔。


「犯人が計画的に凛久くんを誘拐したとは限らないと分かっただけでも進歩しただろ」


 米田の言うそれは小さな一歩である。しかし、この事件においては大きな一歩なのかもしれない。


 とはいうものの、一同の間に嫌な停滞感が生まれたのは事実だった。警察に与えられたのは、一通の手紙だけ。その手紙にしても痕跡が残らないように慎重に作られたことが分かる。


 宮野には分かっていた。誘拐犯は警察の内部に詳しいということを。犯人は宮野がこの事件に関わっていることを知っていた。そして、住んでいる場所も知っていた。身上にも通じている。


 ──犯人は、自分以外にも身代金を山分けする話を持ち掛けたのではないか?


 宮野の疑問符が巨大なバルーンのように膨れ上がっていった。だが、読者諸君も引っ掛かっているように、降って湧いたようなそんなうまい話に乗っかる刑事がいるだろうか。


 宮野の目は密かに杉村に向けられていた。犯人が杉村の事情にも詳しければ、金に困っている杉村を、甘言を駆使して犯人側に引き込むことはできたかもしれない。宮野をそうさせたように。


 宮野は思い出そうとしていた。杉村にバッグの中の金をすり替えるチャンスはあっただろうか?

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