第三章 裏切り者のにおい

1 疑心暗鬼

 ようやく時間軸が元に戻ってくる。ちょうど宮野がボストンバッグの中身を確認して無様に顔面蒼白になったところだ。ゾンビでもまだマシな顔色だったかもしれない。


「宮野さん、どうかしたんですか?」


 花坂の怪訝な顔に宮野はバカみたいに狼狽えたが、苦笑いで何とか回避した。


「いや、何でもない。もしさっきの人影が倉橋だったらと思うと、なんかアレだな」


 アレが何なのか分からずにぼんやりと共感する振りをして、花坂はさつきに声を向けた。


「まわりに刑事がいますから、たぶんもうすぐ確認できるはずです」

「どうして倉橋は現れたんでしょうか」

「本当に倉橋だったのかを確認してから考えましょう」


 さつきはソファに促されてゆっくりと腰を下ろした。突っ立ったままの宮野は頭をフル回転させていた。


 小野寺家の監視状況は二重になっていた。


 まずはマンション周辺に配備された刑事たち。彼らは交代制で四六時中三百六十度を警戒しては、不審な人間に職務質問をぶつけるなどしていた。彼らはマンションの出入りもつぶさに記録している。


 そして、小野寺家内部では米田たちが朝から晩まで待機し、夜中から未明は自宅に戻る。


 つまり、外部の人間は小野寺家に手出しできない状況だ。そんな中での出来事に、宮野は困惑した。最初に宮野の頭に去来したのは、これが米田の作戦であるという考えだった。


「あんなに突っ走って……米田さんまた怪我しなければいいですけどね」


 思考機械と化した宮野に花坂が話しかける。もちろん、宮野にはそんな声を聞く精神的な余裕など捻出できるわけがない。精神が火の車なのである。


「そうだな……米田さんならやりかねん」


 米田なら部下たちに秘密で犯人を出し抜くような作戦を仕込んでいてもおかしくはない。


「そんなことになったら今のこの状況どうなっちゃうんでしょうかね?」

「……そりゃあ、『勝手に何やってんですか』ってなるだろ」

「でもまあ、そうなっちゃったものはなっちゃたで、しょうがないじゃないですか」

「しょうがないじゃ済まないだろ。それで犯人を逃がしでもしてみろ。世間から大バッシングだぞ」

「え、骨折しただけで?」


 花坂が間抜けた声を上げて、宮野はようやく現実に戻ってきた。


「ん? 何の話?」

「米田さん、怪我しないか心配ですねって話です」

「ああ、そっちね」

「いや、どっちですか」

「別に、あの人なら腕折ってても犯人追いかけるだろ。二課の時もそうだったっていうからな」

「私、その話詳しくないんですよね。名誉の負傷ってやつですか」

「名誉なんかじゃないだろ……。犯人死なせてんだから」


 言ってしまって、宮野はマズい、というように顔を背けたが、遅かった。さつきの目が鋭く宮野を追いかけていた。


「どういうことですか?」

「いや、そんなに問題になることじゃないんですが……」

「言って下さい。こっちは凛久の命が懸かってるんですよ!」


 不安定な心が声の震えに表れる。こうなると、宮野も話すしかなかった。


「去年の話ですが、米田さんは捜査二課という詐欺などを捜査する部署にいたんですが、かなり手広くやっていた詐欺グループの尻尾を掴んだんです。米田さんはああいう感じなので、行けると思ったんでしょうね。突入して全員を捕まえようとしたんですが、地の利を活かされて逃げられてしまったんです。米田さんはグループのリーダーといわれていた牧瀬という男を追っていました。ですが、その追跡中に牧瀬が事故に遭って……それで亡くなってしまったんです。不運だっただけなんですよ」

「そんな人が凛久を助けられるんですか?」


 重すぎる投げかけに、宮野は口を噤んでしまう。


「でも、米田さんは腕のある刑事です」花坂の言葉は熱を帯びていた。「上からの厳しい扱いにも耐えて結果を出し続けているんです。ちょっと変なところはありますけど、これまで米田さんと一緒に仕事をして、常に戦ってる人だなと感じました。私は米田さんを信じてますし、結果を出すために私たちも精一杯力を尽くしますよ」


 さつきは俯いた。


「すみません。ちょっと私もずっと不安で……八つ当たりみたいなことを……」


 花坂は同情を寄せるように温かい表情でさつきを見つめた。


「ちょっとすっきりしませんか。コーヒー淹れますね」


 さつきはまとわりつくような空気を払拭するように立ち上がって、キッチンへ向かった。何かしていないと落ち着かないのかもしれない。


 それにしても落ち着かないのは宮野である。あれだけさつきが反発を示したダミーの札束を、米田はなぜ黙って採用したのだろうか。


 真面目な刑事として見れば、凛久くんの生死を左右する重大なポイントだ。偽の金を犯人に渡せば、逆上して凛久くんが危険に晒される。よっぽどの勝算がない限りはダミーの札束を使うのは容認できるものではない。たとえそれが上司であっても。


 金に目が眩んだクズとしては、二千五百万円が水泡に帰すのを見るのはひもじい人間が豪遊する夢から覚めた時よりキツい。一度銀行で味わったあの滑らかな新札の手触りが宮野を煽情する。なんとしても、金を奪い取る──もとい、死守せねばならない。


 玄関が騒がしくなる。


「ただの野次馬だった」


 米田が恨めしい顔でリビングに顔を見せる。宮野の目には親の仇のように映っていた。あんたのせいで二千五百万円がパーだ、と。


「警察が集まってるから遠巻きに見てたんだとさ」


 無駄骨を折らされて憤慨気味の杉村がキッチンに立つさつきに「おっ」と興味を示した。


「さつきさん何か手伝いましょうか?」

「いえ、お構いなく。コーヒーを淹れるだけですので」


 少しだけ和んだムードの中、宮野は意を決して立ち上がり、米田に声を掛けた。


「米田さん、ちょっと……」


 部屋の隅に促して声を潜める宮野に、米田は目を細めた。


「どうかしたのか?」


 急いては事をし損ずるというが、今の宮野にはそんな大昔の戯言を気にしている暇はなかった。いずれ誘拐犯からのコンタクトがある。その先には身代金の受け渡しが待っている。二千五百万円を手に入れるチャンスにはタイムリミットがあるのだ。念のために記しておくが、諺を生み出した先人を軽んじているのは宮野だ。苦情は彼まで。


「身代金ですが、やっぱり、ダミーの札束を使った方がいいんじゃないかと思いまして」


 宮野には考えがあった。仮にバッグの中身の状態が米田によるものでない場合、直接的に問い詰めてしまったのでは状況が悪化する恐れがあった。中身が本物でないことが公になってしまえば、その犯人探しが始まる。そうなれば、二千五百万円を手に入れるチャンスをみすみす逃がすことになる。そればかりか、誘拐犯と秘密裏に手を結んでいたことが明るみに出て、得をするどころではなくなる。


「なに言ってんだ。まだ犯人の素性すら分かってないんだぞ。偽物を差し出したら凛久くんがどうなるか分かってんのか?」


 そのマジな目つきに宮野は、おや、と思った。もし米田がアレを仕掛けたのだとしたら、ここでネタばらしをするのではないか? 宮野の中に芽生えた米田作戦説が見る見るうちに萎んでいく。


「そうですよね。すんません。やっぱり、どうしても本物のお金を犯人に渡すのに抵抗があって……」

「気持ちは分かるが、凛久くんの安否を最優先に考えろ。犯人探しは凛久くんを助け出してからでもできるだろ」

「……分かりました」


 逆に分からなくなった。さつきがキッチンからコーヒーを持ってくるのをリビングの面々が迎えるのを眺めながら、この中に犯人がいるのかもしれないと考えていた。


「怖い顔してないで気分転換しましょう、宮野さん」


 花坂にそう言われて、気のない返事と共に輪の中に入る。コーヒーの香りが室内に広がっていた。


 人数が多くなくて助かった、と宮野は考えていた。さつきは容疑者から最初に外した。彼女が身代金を掠め取る意味はないだろう。そんなことをすれば、息子の命が危ない。だいいち、五千万円は彼女が捻出したものだ。それができるなら、勝手にやればいいだけだ。そして、米田が容疑から外れた。つまり、バッグの中をすり替えたのは、杉村か花坂ということになる。


 二人のことを考える前に、宮野には確認しておきたいことがあった。立ち上がって、部屋の隅に置いてある段ボール箱の前に跪く。


「何してんだ?」


 親戚の子どもに声を掛けるみたいに杉村が尋ねた。宮野少年は答える。


「この箱の中をちょっと見たいなと思って」


 箱には透明なビニールテープで封がしてあった。


「入ってるのはただの紙の束だぞ」


 呆れたように言う杉村を無視して、宮野は爪の先でテープを剥がして、箱の口を開いた。果たして、中には札の色をした無地の紙の束が詰まっているだけだった。宮野は、もしかしたらここに金が収められているのでは、と考えたのだ。もしそうだったのであれば、バッグの中が入れ替えられたことが周知の事実になり、結局は宮野の首を絞めることになったのだが、そこまで頭が回らなかったらしい。


 しかし、ここで宮野の中に疑問が生まれた。本物の金は一体どこにあるのか?


 小野寺家に出入りしたのは、さつきを含めて五人。刑事四人は夜十時以降に出て行くが、その際に誰も大きな荷物は持っていなかった。何回かに分けて外に持ち出したとしても、一度に百万円の束を十組ほど持ち出す必要がある。米田以外はバッグも持っていないし、米田にしても情報を共有するためのタブレットが入るくらいの薄いバッグだ。


 宮野の目の色が変わった。消えた五千万円はこの部屋のどこかにあるかもしれない。しかし、どこに?


「それにしても、アメリカから帰って来て、お一人では大変だったんじゃないですか?」


 労うように花坂が言うと、さつきは首を振った。


「父が男手一つで私を育ててくれましたから、それと同じことをしてるだけです」


 その父親が、さつきが社会人二年目の時に亡くなったと彼女は話していた。だから、彼女には身寄りがないらしい。誰かの代わりに金があるというだけだ。その金のほとんども今回の件で消えてしまうかもしれない。


 杉村が家庭を持つ男の顔をしていた。


「うちは全部家内に任せてしまってるんです。俺がこういう仕事をしてるから。申し訳ないと思いつつも、甘えてしまっています」

「いいじゃないですか。甘えられるだけ信頼してるということだと思いますよ」


 思いがけず慰められてしまい、杉村はバツが悪そうにコーヒーカップに口をつけた。宮野は杉村の左の薬指に光る指輪を見つめていた。


 杉村が家庭内で肩身狭い思いをしているのは、何も刑事生活を過ごしているからではないということを宮野は知っていた。そして、それが彼を疑う要因にもなっている。

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