3 国際問題
少々大袈裟になるが、凛久くん誘拐事件は日本警察に暗い影を落としていた。さつきがアメリカから凛久くんを連れ帰ってきたのは世界的に見れば犯罪行為に当たる。
日本で国際結婚のケースが増加し、問題化したのは、国際的な子どもの連れ去り事案だ。日本では、今回のように、住んでいた海外から離婚や別居を理由に子どもを連れて日本に帰って来る母親が当事者になることが多い。多くの場合、海外で裁判を起こされるものの、その命令を無視して生活を続ける母親もおり、国際社会におけるトラブルの要因となっている。
「海外では、拉致という直接的な表現をするらしい」
捜査本部が置かれる県警の大会議室で宇崎刑事部長が苦い顔をした。ただでさえおっかない顔が誰が一人殺ったのかという雰囲気を醸し出している。捜査会議の後、米田たちを呼び止めてのことだった。
「数時間前、ピアースがフェイスブックを更新した。今回の件について凛久くんの無事を祈るとともに、小野寺さんによる拉致について書いている。ゆっくりとだが、拡散が始まってる。大事になる前にさっさと片付けろ」
米田たちの返事を待たずに部屋を出て行こうとした宇崎だったが、立ち止まって米田を振り返った。
「お前には引き続き滝本と記者クラブの対応をやってもらうからな。ヘマをするなよ」
「……分かりました」
奥歯を噛み締めて米田が頭を下げるのを一瞥して、宇崎は去って行った。強張った表情で立ち尽くす米田に杉村が声を掛ける。
「俺たちも全力でサポートしますんで」
米田が力なく笑みを浮かべる。
「悪いな」
「自分で記者対応すればいいのにって思いますけどね。米田さん、現場の指揮者ですよ」
花坂が口を膨らませる。彼女なりの怒っているアピールだが、同性には白い目で見られそうだ。滝本というのは広報課の課長で、人当たりの良さとダンディぶりに署内でも人気のある人物だ。
「まあ、なんとかやるさ。幸い、そのままニュースになることはないからな」
米田はスマホ画面に目を落としている宮野に視線を移した。
「ゲームしてんじゃないぞ」
「決めつけないで下さいよ。デビッド・ピアースのフェイスブックを見ていたんです」
杉村が顔をしかめる。
「お前、英語できたの?」
「翻訳にかけただけですよ。結構、痛烈に日本を非難してます」
「なんて言ってる?」
これから聞く話を吟味でもするかのように、米田は腕組みをした。
「宇崎さんも言ってましたけど、まずは凛久くんに無事でいてほしいと。ただ、今回の事件の引き金になったのは、さつきさんの違法行為だと言ってます。それで……、ちょっと意味が分からないんですが、『日本は深層国家状態に陥っている』と言ってるんです」
「なんじゃ、そりゃ?」
ゴム手袋を捻ったような声を杉村が漏らした。
「ディープ・ステートか」
「なんですか、それ?」
宮野が首を傾げると、米田が悪戯っぽく笑う。
「ディープ・スロートじゃないぞ」
「別にそんな勘違いしてません」
「ディープ・ステートは国家の中の国家だ。例えば、複雑な国の状況だと、政府と軍が違う立場を取って行動したりするだろ。そういう国の多層構造を言うんだ」
「へえ……米田さんに新しい知識を教わるとは思いませんでした」
真顔でグサリとやる宮野を米田が小突いた。
「なんだと、てめえ」
「すんません」
「で、なんでそんな話になってるんだ?」
「デビッド・ピアースが一つ事例を挙げてるんですよ。二〇一九年に起こった拉致事件について。それによれば、日本人の妻に子どもを拉致されたイギリス人が子どもについて話し合いの機会を得ようと、妻が住んでいる日本のマンションに入ろうとしたところで警察を呼ばれて不法侵入で逮捕されたんだと。本当は日本人の妻が違法行為を働いているにもかかわらず、警察は聞く耳を持たずに、そのイギリス人の夫を逮捕してしまった……。日本はこうした子の拉致問題の国際的な取り決めであるハーグ条約に加盟しているのに、警察が現場判断でイギリス人の夫を逮捕したということは、日本はディープ・ステート状態に陥っている、と」
「だから宇崎さんは『さっさと片付けろ』と。面倒なことにならないうちに」
杉村は納得したようだったが、花坂は地獄の番人みたいな顔をしていた。
「体裁だけ取り繕おうとしてますよね、アレ」
「宇崎さんをアレ呼ばわりするのはやめろ」
杉村が釘を刺すが、花坂は不満そうだ。
「だって、気に食わないんですもん」
「もう一つ最悪なことがあるぞ」
出し惜しみするように間を作る米田。どこか逆境を楽しんでいるようにも見える。
「デビッド・ピアースはアメリカのデータ会社、コヨーテのCEOだ」
フェイスブックを見返して、宮野はデビッドの自己紹介欄にコヨーテCEOとあることに今更ながらに気がついた。そこでようやくさつきが五千万円を難なく用意できた理由に思い至ったのである。杉村はピンと来ていないようだ。
「聞いたことない会社ですね」
「アメリカじゃそれなりに有名らしい」
「それがなんで最悪なことなんですか?」
花坂が聞くと、米田は声を潜めた。
「警視庁で次世代犯罪捜査手法の検討が始まっているらしい。コヨーテの≪テミス≫というデータ解析技術が実証実験に移ると聞いてる。なんでも、防犯カメラや位置情報、ネットの利用状況などから行動分析を行って犯罪傾向を割り出すらしい」
杉村が眉に唾をつける。
「アニメか漫画みたいな話ですね」
宮野の頭の中にアメ横のチョコ叩き売りも真っ青なくらいに情報が押し詰められた。
「ちょっと待って下さい。国際的なアレが絡んでて、アメリカの会社が絡んでて、そこに警視庁も絡んでくるんですか? 犯人像がよく分かりませんね」
「犯人の要求を見ると、あまりそういうことに目を向けている感じではないな」
杉村の指摘に宮野は信じられないというような表情だ。
「偶然に色々が重なったっていうことですか?」
「だって、そんな会社のCEOの息子ならもっと金や別の何かを要求してくるはずだろ」
「そう言われればそうですけど……」
米田が歩き出す。
「とにかく、まずは目の前のことに集中しろ。こっちはこれから記者対応だ」
「滝本さんによろしくと伝えといて下さい」
花坂がにこやかに言うと、米田はうなずいて部屋を出て行った。
「滝本課長と知り合いなの?」
宮野が意外そうに尋ねると花坂は得意げに顎を突き出した。
「大学の先輩だったみたいで、ちょくちょく気にかけてくれるんです」
宮野の運転する車が銀行への道をひた走る。十一月も下旬に差し掛かるところだが、晴れた日が続き、春のような陽気だ。街を行く人々もそこまで厚着ではない。真冬みたいな車内に太陽の暖かさをもたらそうと、宮野は米田に努めて明るく話しかけた。
「これだけ暖かいと春だと勘違いしちゃいますよね」
「そんなわけな──」言いかけた米田だが、宮野の目配せに気づいて慌てて訂正する。「このまま春になってほしいよ。冬は古傷が痛むからな」
「なに侍みたいなこと言ってんですか~」
ヘラヘラと笑い合う二人の後ろで、さつきがボソリと言う。
「あの子、玩具の刀を振り回すのが好きで、アメリカから持ってこなかったので近いうちに買ってあげようと思ってたんです」
重いエピソードに米田の目が訴える。
──凛久くん思い出して落ち込んでるじゃねーか!
負けじと宮野も応戦する。
──仕方ないじゃないですか! こんな地獄の連想ゲームが始まると思ってないんですから!
「あの、アレだな」今度は米田がわざとらしく笑顔になる。「ここまで暖かいと熊も冬眠から目覚めそうだな」
「こんな街中に熊がいるわけないでしょ~」
さつきが言う。
「あの子、くまのプーさんが好きで、しょっちゅうアニメを観てました。私はその隙に家事をやるんですけど、もっと一緒に観ておけばよかった」
米田と宮野は顔を見合わせて、余計なことは言うまいと心に決めた。そして、運良くその頃合に目的地の銀行に車は滑り込んだ。
その銀行の支店では、すでに支店長たちが米田を待ち構えていた。
「お待ちしておりました。支店長の川尻と申します」
神経質そうな細身の男がそう挨拶するなり、奥の部屋へと三人を先導する。お供の二人は固くなってロボットみたいな歩き方をしている。米田が辺りをキョロキョロしながらその後をついていった。
「誰か土下座してる人はいるかな?」
「黙って歩けないんですか」
後頭部を宮野の小言でぶん殴られて、米田は大人しくなってしまった。三人が通されたのは簡素な応接室だった。三人に椅子を勧めて、お供の二人に短く指示を出すと、二人はドアの向こうに消えた。すぐに川尻が口を開いた。
「今からお金の方をお持ちいたしますので、少々お待ち下さい。それと、こちらの判断で全て新札でご用意いたしましたが、問題なかったでしょうか?」
「一応、犯人からの指定はなかったので、それで大丈夫です。もしダメだったら、ダメだったのかよ~って言います」
「……はぁ、そうですか」
この手の人間に慣れていないのか、川尻は物珍しそうな目で米田をまじまじと見つめた。やばい上司から目を逸らせるために、宮野が持参していたカーキ色のボストンバッグをテーブルの上に置いた。
「ここでこのバッグの中に詰め替えていきますので」
「かしこまりました」
しばらくして、行員がジュラルミンケース一つを提げてやってきた。
「ご確認をお願いいたします」
全員が立ち上がる中、テーブルの真ん中に置かれたケースが開けられる。
「おお~」
刑事二人から声が漏れる。大金に縁のない二人だ。ケースの中には帯封で括られた百万円の束が五つ重ねられたものが十組二列に並んでいた。札束を確認するために触れた自分の頬が自然と緩むのを感じて、宮野はハッと我に返った。隣を見ると、目を$マークにした米田がいる。通貨が違うというのは置いておいて、宮野は恥ずかしい上司の姿に我が振りを直したのだった。米田は名残惜しそうに最後の札束をケースに戻した。札束と一緒に写真を撮らなかったというのが奇跡的なことだ。
「ケースの中を堪能──じゃなかった、確認させていただきました。問題ないようなので、こっちのバッグに移させてもらいます」
金を移す間もさつきはずっと上の空だった。もちろん、金を失うことに呆然としているのではないだろうが、その姿は物悲しさを漂わせていた。
一分もしないうちに、誘拐犯お望みの代物が出来上がった。
「では、ご協力ありがとうございました」
米田は川尻たちに頭を下げてボストンバッグを手にした。五千万円の重みは、二歳児の平均体重のおよそ半分ほどだ。それで命が救えるなら安いかもしれないと思うだろう。
「はい! 大金が入ってるから近づかないで!」
米田が声を上げながら行内を移動している。その騒がしい様子に、ただ銀行にやって来ていただけの客たちがざわめき出す。
「五千万円だから! これは誰にも触らせないぞ!」
肩を怒らせてズンドコ進んで行く米田の背中に追いすがるのは宮野の声だ。
「何も言わなきゃ誰も何も気にしないんですって」
米田は口をポカンと開け放して立ち止まった。
「早く言えよ……!」
「言わなくても分かるんですよ、普通は……!」
小声で言い争う二人の刑事の醜態が客たちに筒抜けになると、行内には見てはいけないものを見てしまったというような気まずいムードが流れた。米田たちはその隙に銀行を脱出した。
十分に周囲を警戒してトランクにバッグを積んだ米田が助手席に戻ると、運転席の宮野がぐったりしていた。気を張っていたのかもしれないが、その原因の大半は助手席でシートベルトを締めている上司のせいかもしれなかった。
そして、この日の夜、宮野は誘拐犯からの手紙に心臓を鷲掴みにされるのだった。
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