2 覚束ない準備
翌日の十一月二十日、米田は用意したボストンバッグを小野寺家のリビングのテーブルの上に置いた。
「私としては限定色のモスグリーンにしておきたかったんですが、すぐに手に入れられるのがこれしかありませんでした」
米田は無意味にバッグ選びに力を入れていた。自分が良いと思うバッグでないと追跡する際に気が散ってしまうのだとかいう素っ頓狂な理論で武装した米田を誰も止めることはできなかった。
「これなら間違いなく五千万円は入りそうですね」
バッグの口を大きく開いて杉村が言った。五千万円を入れてもファスナーは閉じそうだ。百万円の札束五十組……重さにして五キロ程度だ。
「そして、こいつがネームタグだ」
マジックペンと共に取り出したネームタグから名前などを記入するカードを引き抜く。米田は黙ってテーブルの前に腰を下ろした。自分で描くらしい。
「でも、なぜボストンバッグなんでしょうかね?」
宮野が杉村たちに目を向けた。
「まあ、金を入れやすいからだろう」
腕組みをする杉村だったが、花坂は難しい顔をしていた。
「でも、ただ『バッグ』と指定するんじゃなくて、『ボストンバッグ』と限定するのには意味がありそうな……」
「あのな」杉村は溜息交じりで二人の後輩を見つめた。「ボストンバッグだろうが、マディソン郡だろうが、それを指定してきた意味を考えるだけ時間の無駄なんだよ。そんなことを考えるよりも先にいかに犯人に繋がる情報を集めるかが凛久くんの無事に繋がるんだ」
「それにしても、なんでニューヨーク・ヤンキースの──」
宮野が首を捻った瞬間に米田が叫んだ。
「しまったっ!」
部屋の中の面々に緊張が走った。全員の視線の先、米田の手元にあるネームタグにはボストン・レッドソックスの「B 」のロゴが意外に丁寧に出来上がっていた。
「なんでライバルチームのロゴ描いてんですか!」
「お前らがボストンボストン言うから……」
「子どもじゃないんだからそんな間違いしないで下さいよ……」
二つ折りのカードを反対に折り曲げて、米田は裏側にしっかりとニューヨーク・ヤンキースのロゴを描き下した。米田は息をついた。
「一時はどうなることかと思ったな」
「いや、ホントですよ……」
宮野がネームタグを受け取ってボストンバッグの持ち手に取りつけた。これで犯人による三つの要求のうち、二つを達成したことになる。宮野はコピーして刑事に配られていた脅迫状めいた犯人の手紙のやることリストにチェックを書き入れた。
米田のスマホが鳴る。短いやり取りを交わした後、真剣な眼差しで部下とさつきに顔を向けた。
「金の用意ができた。これから取りに行くぞ。宮野、一緒に来い。さつきさん、お願いします」
簡単に言うと、宮野は運転手だった。少し離れたパーキングに停めてあった自分の古いセダン車に乗り込むなり、米田は助手席から後部座席のさつきに向かって早口で説明を始めた。
「これから銀行に向かいますが、我々の他に援護チームが少し離れた場所で動いてます。万が一、何者かの接触があった場合はお金を死守せずに車の中に逃げ込んで下さい。銀行でお金を受け取ったら私が運んで車のトランクに入れます」
「自分で持っていてはダメですか?」
「もし襲われた場合、トランクの方が安全です」
「危険なんですか?」
さつきが心配そうに眉尻を落とすのには理由があった。数時間前のことだ。
「言いにくいことなんですが」米田は言う気満々の双眸だ。「倉橋は五年前に準強制わいせつで二年半の実刑を食らってました」
「ということは、今はもう……」
「ええ。大手を振って外を出歩いてることになる。しかも、逮捕された後の取り調べであなたのことを話していたようです。あなたに騙されたんだ、と」
さつきは中性子星よりも重い吐息を漏らした。
「付き合っていた頃に、もしかしたら結婚も……と話したことがあったと思います。たぶん、そのことです」
「当時、事件を担当した刑事も倉橋があることないこと喋るので困ったそうです。あなたのことを貶しまくって結婚詐欺師だとも叫んでいたらしい。あなたとの破局が犯行動機だと暗に言っていました」
さつきは頭を抱えた。花坂が汚物を見るような表情を浮かべる。
「未練タラタラなクズ男らしい最期ですね」
念のために、そして、作者の権限で記しておくが、倉橋は死んではいない。
「これは防犯上の理由でお伝えするんですが」米田が苦み走った目をカーテンの外の方へ向けた。「出所した倉橋はさつきさんの居場所を周囲に聞いて回っていたそうです」
黒くてカサカサしてすばしっこいアイツを見た時のような表情でさつきは自分の両肩を抱いた。暖房を入れていないせいではない。
「それで、倉橋は今どこに?」
「捜査員が探していますが、県外にある住まい周辺では倉橋の姿を確認できていないそうです」
「それじゃあ、もしかして……」
米田はうるさい生徒を鎮める校長先生みたいにわざとらしく咳払いをした。
「もちろん、現段階で決めつけることはできませんが、可能性の一つとしては考えられると思っていた方がいいですね」
そういうわけで、さつきは倉橋の存在を危惧しているのだった。米田の忠告を受け入れた彼女が緊張で強張ったままシートベルトを着けると、宮野がエンジンをかけて車を出す。
「旦那さんですがね」車が発進してすぐに米田がルームミラー越しに話し始める。「今もアメリカにいるようです。捜査員が連絡も取りまして。凛久くんのことを心配していました。ただ、アメリカを出国する手立てがないと言っていたようでした」
さつきは呆れたようにそっぽを向いた。
「あの人、ワクチン反対派だから。子どものためを思ってもワクチンは打たないっていうことですよ」
米田は若干重苦しくなった空気に、次に言おうとしていた言葉を飲み込んだ。デビッドは今回の件について、さつきに非があると主張していたのだ。
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