第二章 どこにいるの?

1 いきさつ

 肝心の凛久くん誘拐について全く触れていなかったのを思い出した。作品の構成上の手口ではない。


 では早速、ここでさつきの証言をもとに事件を再現してみようではないか。




 十一月十八日の午後二時半頃、さつきは凛久くんと一緒に自宅近くの公園にやってきた。自宅のマンションが狭いというわけではなかったが、我が子には広い空の下で伸び伸びやらせてやりたいという親心だったのだろう。結果的にはその選択は間違いだったわけだが、それを過去の彼女に突き付けるのはずるいというものだ。


 とはいうものの、凛久くんを公園に連れ出すまでにはずいぶん骨が折れた。二歳の凛久くんは絶賛イヤイヤ期に突入しており、マスクを着けさせるのにもギャーギャー泣き喚く息子を何百回も宥めて家を出ることに成功した。


 公園には銀杏の木が多く並んでいて、黄色く色づいた葉が地面に鮮やかなカーペットを敷き始めていた。つい先週くらいまではギンナンの匂いで凛久くんが騒いでいたが、この日はすでにあの特有な匂いは消え去っていた。


 イヤイヤ期の凛久くんは公園に来たら来たで、滑り台も嫌、シーソーも嫌、カラフルな馬のスプリング遊具も嫌と、圧倒的な拒絶反応を見せた。結局、凛久くんが向かったのは砂場だった。さんざん山を作っては、それを蹴り崩すという、何かに悩んでいそうな遊びを延々と繰り返す凛久くんを、さつきは砂場のそばのベンチから眺めていた。


 さつきは疲れていた。身体よりも心が。


 二十五歳でアメリカに渡り、サンフランシスコの小さなIT企業に勤めた。そこの自信に満ちたボスをはじめとする愉快な仲間たちと地道な日々を過ごし、事業が軌道に乗り始めた頃にボスと結婚をした。


 デビッド・ピアースは自分が正しいと思うことをやって来て、自分が辿って来た道が正しかったと言うような男だった。つまり、味方と同じくらい敵をこさえてきた。過去のさつきに言わせれば、こんな男は日本にいなかった。


 物珍しさというのは人を引き付けるものだ。しかし、これから家を建てようとしている人に忠告したいのは、例えば壁や天井に埋め込むような機構を備えた照明やら空調設備やらキッチンまわりのシステムなんかは海外の珍しいものを選ぶのはやめた方がいいということだ。故障したり、何かを交換しようという時になって必ず後悔をする。その辺にありふれているメーカーにすりゃあよかった、と。


 さつきとデビッドは順風満帆だった。


 さつきはデビッドのオセロより白黒はっきりしているところに惹かれていたし、デビッドもさつきの柔軟な思考に助けられることもあった。読者諸君においては、早く誘拐事件のあらましを知りたいだろうから、二人の馴れ初めやら何やらは全面的にカットするが、結婚をして三年後のさつき三十歳の頃、彼女のお腹の中に新しい命が宿った。その辺りから二人の心は次第に噛み合わなくなっていった。一番の理由は凛久くんに対する二人の考えだったのかもしれないとさつきは話している。


 さつきは日本の文化も子どもに享受してほしかった。だから、名前も日本風にした。デビッドは自分が生まれ育ったアメリカ以外をほとんど知らない。だから、さつきの決断に真っ向からぶつかった。今まで自分以外に向けられていたデビッドの激情がどれほど相手を苦しめているのかをさつきは思い知った。


 そこからかくかくしかじかがあり、さつきは凛久くんを連れて日本へやって来ることにした。横暴なデビッドについに耐え切れなくなったのだ。それが、今から四週間前のことだった。世界的に感染症が爆発的に広がる中でも、アメリカはその最たる国だった。日本への入国後、隔離期間と自宅待機期間を経て、ようやく二人は外を出歩けるようになった。先週のことだった。


 凛久くんが覚束ない足取りで砂場を闊歩していると、ボテッと転んでしまう。すぐに立ち上がって、ついさっき作った山を蹴り崩す。ちょっとしたことで泣かないのは、父親譲りかもしれない。


「なにしてるの、凛久?」


 思わず微笑んでしまう。子どもがいなければ、笑うことはできなかったかもしれない。あまり人のいない公園、今は凛久くんのマスクを外しているが、またいつ息苦しい生活に戻るか分からない。


 しばらく凛久くんを遊ばせていたが、さっきまで薄い雲がかかっていた空は少し暗くなり、肌寒い風が吹き始めた。


「凛久、もう帰るよ」


 砂場に近づくさつきだったが、凛久くんは見向きもしない。砂場に尻をついて両足を伸ばし、せっせと山を作り続ける姿は陶芸家か何かみたいだ。


「凛久」

「やだ~!」


 薄手の赤いダウンジャケットを掴まれるたび、凛久くんは首を振った。もうこうなるとどうにもならない。


「もう寒くなるから帰ろうよ」

「やだ~!」


 さつきは溜息をついて数十メートル離れたところにある自販機に目をやった。そこでは飲み物の他にも種類は少ないがお菓子が売っている。イヤイヤ期の子どもを動かすには目の前のことから気を逸らせるしかない。さつきはゆっくりと自販機の方へ歩いて行った。自販機の前で商品を吟味する。凛久くんはチョコレートが好きだ。すぐにチョコの入ったお菓子のボタンを押す。取り出し口に手を突っ込んで、凛久くんに見せびらかすように顔の横に持ってきて振り返った。


 砂場に凛久くんの姿はなかった。さつきの全身から一気に血の気が失せた。辺りを見回すが、あの赤いダウンジャケット姿はない。


「凛久!」


 お菓子を片手に持ちながら公園を駆けずり回った。喉が痛くなるほど声を張り上げた。返事はなかった。砂場から離れて自販機でお菓子を買うまでの一分ほどの時間……その短い間に凛久くんはまるで神隠しに遭ったかのように消え去ってしまった。


 人のいない時間を狙って公園に来たことが裏目に出た。凛久くんを帰らせようとして自販機に向かったのが間違いだった。さつきは凛久くんが作った砂場の山を見つめて、途方に暮れてしまった。視界が歪んでボロボロと涙が溢れた。


 涙でグショグショのままスマホで警察を呼んだ。




 さつきの失踪届を受けて警察が捜査を開始したが、小野寺親子にとって不幸だったのは、公園に目撃者となる人がいなかったことと公園周囲に防犯カメラが設置されていなかったことだった。有力な情報が得られないまま、一日目の捜索は呆気なく終了した。


 警察では、凛久くんの運動能力と短時間での失踪という二点を併せて、誘拐の線も濃厚だと考えていたようだが、凛久くん失踪の翌日に最悪の形で証明されることになる。


 その日、さつきは凛久くんの情報をいつでもキャッチできるように不眠のまま昼を迎えていた。さつきには頼れる肉親も親戚もいないのだ。気分転換がてらマンションの一階にある郵便受けを見に行った。そこでさつきは、読者諸君にもお馴染みのあの茶封筒を見つけたのである。


 差出人はなく、宛名はシールに印字されている。嫌な予感が走ったと、彼女は後に話した。すぐに部屋に戻って封筒を開けた。



“我が子恋しい今日この頃、いかがお過ごしでしょうか。


 さて、心労絶えない小野寺さんにおきましては、凛久くんの姿のない初めての日となりましたね。どこで何をしているのだろうか? 無事だろうか? 色々と思うところはあるだろうと推察します。


 単刀直入に申し上げますと、私は凛久くんを誘拐しました。それも、電光石火の早業を用いて。我がことながら、素晴らしい手際だったと思います。新入社員ならば、部長辺りから「おっ、仕事早いね」と太鼓判を押される勢いでございます。


 誘拐犯からの手紙を受け取ることなんてそうそうないでしょうが、滅多にないことだと思って最後まで読んでみて下さい。


 誘拐には目的が必要だというのは、小野寺さんもご存じのことでしょう。私からの要求はただ一つです。現金五千万円。凛久くんの命を天秤にかけた時、あなたにとってこれが高いか安いかというのは飯を食えば糞をするくらい明白なことと思います。もしお食事中でしたら申し訳ありません。


 近日中にもう一度こうしてお目にかかることになると予告しておきますが、その前にきっとやることリストがあると気が紛れると思いますので次の項目を遂行しておいて下さい。


・現金五千万円を用意する

・五千万円が入るボストンバッグを用意する(議会中にギューギューやらない程度の容量があるといいです)

・ボストンバッグの持ち手には目印として名刺大程度のカードの入る大きなネームタグを付け、カードには手描きでニューヨーク・ヤンキースのマークを描いておく


 それから、もし話し相手が欲しければ、警察を呼ぶといいでしょう。あれこれとやかましく訊いてくるでしょうが、寂しさは紛れるかもしれません。警察諸君の努力は無駄に終わるだろうけれども、せいぜい靴の裏を擦り減らして頑張ってほしいものだとお伝え下さい。


 それでは、非日常をお楽しみ下さい。”



 さつきはその場にへたり込んでしまった。沸き上がった怒りを利用されてパスタを茹でられたような、よく分からない感情を抱いてさつきは涙を流した。その涙すらも、犯人にとっては計算の内なのではないかという無力感がしばらくさつきを打ちのめしていた。




「なんだ、これは」


 そうしてやってきたのが、我らが米田たちだ。


「ふざけてる」


 杉村は小さく舌打ちした。


「凛久は無事でしょうか?」

「きっと無事です」米田にはそう答える以外の選択肢はない。「身代金を要求しているということは、お金と交換する人質が必要ですからね」

「人質……」


 勢い余って口走った言葉にさつきが表情を曇らせると、米田は慌てて笑い声を上げた。


「ほら、人質って死んじゃったら元も子もないじゃないですか、犯人にとっては! だから、無事ですよ!」

「いや、米田さん、そういうことじゃないんですよ」


 宮野は頭を抱えて上司を諫めた。大人ぶった態度をとっている宮野だが、この翌日にやって来た手紙によって頭の中で使えないそろばんを弾く、まさに金の亡者に成り下がることになろうとは、この時には思いもよらないのだった。感染症対策のために触れられないが、花坂はさつきの肩をさするような面持ちだ。


「凛久くんはきっと無事ですから、希望を捨てないでいましょう」


 結果的には必要なくなってしまったのだが、すでに家の電話の逆探知は電話会社の協力を得てスタンバイ状態となっている。また、犯人がさつきに直接接触してくるケースを考えて、周囲にも警官が配備されている。


「あの子、好き嫌いが激しいんです。ちゃんと食べられてるかどうか……」


 ハンドタオルで目頭を押さえるさつきに一同は慰めの言葉を掛けることしかできなかった。米田は言う。


「現在は捜査員総出で付近の不審人物と不審車両、凛久くんを連れた人間がいないかなどの聞き込みと周辺の防犯カメラの映像の収集と調査を進めています。すぐに凛久くんを助け出して見せますよ。そのためにもさつきさんの話を聞かせて下さい」

「分かりました」


 さつきは強くうなずいた。


「率直に聞きますが、犯人に心当たりは?」


 さつきは米田の真っ直ぐな瞳から目を逸らした。米田は座っていたソファからグッと身を乗り出す。誘拐犯からの手紙が膝からするりと床に落ちた。


「さつきさん、ご主人はどちらに?」

「……主人はアメリカ人なんです。今もアメリカに」

「あの黒船でお馴染みの?」

「アメリカをそうやって認識してる人なんて現代にいないですよ」


 宮野はいつも米田の散らかしたものを片付ける担当になっている。


「デビッドとは別居中でして……」


 さつきはそう言って、デビッド・ピアースの話をした。この流れでデビッドの話をするということは、つまり、そういうことである。米田も意味を含ませて耳を傾けていた。


「彼が日本に入国していないか調べてみる意味はありそうですね。他に心当たりは? あっても嫌でしょうが」

「他に……」さつきはしばらく視線を彷徨わせた。「……倉橋」

「ん? 誰ですかそいつは? 怪しそうですね」


 米田がなぜそう思ったのかは定かではないが、さつきとしては考えてもしょうがないことだと感じているらしい。微かに苦笑していた。


「もうずいぶん前のことなのでアレなんですが、付き合っていたことがあるんです。だけど、別れを切り出したらちょっと行動がエスカレートして……」

「ババヘラってやつだ」


 米田が突き立てる人差し指をゆっくりと引っ張り下ろして宮野が言う。


「それは秋田で売ってるアイスです。それを言うならメンヘラでしょ」

「それでそのアイス売りの男とはどうなったんです?」

「アイス売りじゃないです……」さつきは困惑の表情を浮かべる。「普通の会社員でした。同じ職場で。ちょうどその頃にアメリカに渡る準備をしていたんです。だから、大事になる前に引っ越しを」


 杉村が横合いから問いを投げかける。


「それはいつ頃の話ですか?」

「私が渡米する前のことなので七年くらい前のことですね」


 杉村が米田に顔を向ける。


「どうですかね? そんな昔のことで凛久くんを誘拐する動機になるかどうか……」

「分からんだろ。子どもの頃からの鬱憤が溜まって親を手にかける奴もいる世の中だぞ」

「それに」花坂が加勢する。「男の方が未練たらしいじゃないですか」


 このご時世のコンプライアンス的にマズそうな発言だが、そう深く捉えないでやってほしい。花坂にも色々と過去があるかもしれないではないか。


「とりあえず、調べない理由にはならんな」


 数秒の間、会話が途切れた。宮野はずっと胸にしまっていた疑問をさつきにぶつけてみることにした。


「それで、身代金を用意する当てはあるんでしょうか?」


 偶然、金に興味のあるような質問になってしまったが、さきほども述べた通り、この時の宮野はごく一般的な刑事であった。月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。


「いや、ここはダミーの金で犯人を──」


 米田が熱弁しようとしたところ、さつきがおもむろに大きな声を出した。


「絶対にダメです!」


 おとなしそうな見た目の彼女からド迫力の五・一チャンネルサラウンドが放出されて、刑事たちは気圧されてしまった。電車で隣に座っているおじさんが応援団長の雄叫びみたいなくしゃみをした時みたいである。


「そんなことをしたら、凛久がどうなるか……! お金は私が用意できます。絶対に偽物は使わないで下さい!」


 宮野には不思議だった。五千万円という額は、別居中とはいえ一人の母親がおいそれと用意できるものではない。宮野にとって資産にゼロが七つ並ぶなんてことは、太陽の代わりにミルクビスケットが昇ってくるくらいあり得ないことだ。


「持っていた株を手放してお金自体は用意できるんですが、現金となると難しくて……」


 その覚悟の眼差しに米田は渋々うなずいた。


「警察を通して銀行に協力をお願いしましょう」

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