インターミッション 1

インターミッション 1

 ロサンゼルスという街の名前は、スペイン語の「我らが貴婦人、ポルツィウンコラの天使たちの女王の街」という言葉の「天使たち」の部分が残ったものだ。「天使たちの女王」とは、聖母マリアのことを指す。今日も空には天使たちのような小さな白い雲がポツポツと浮かぶばかりで、朝から風もなく、神のご加護みたいな日差しが柔らかく降り注いでいた。


 デイル刑事が運転するクラウンビクトリアはサイレンを鳴らしてウィルコックス・アベニューを北上していた。


「一マイル先に車を飛ばすとは」


 デイルのサングラスがキラリと光る。健康的なチョコレート色の額は精悍な雰囲気を漂わせている。助手席のタッカーもサングラスを青い空に向けた。


「ジョギングで行くなんて、俺はごめんだな」

「太ったって言ってなかった? 運動するにはちょうどいい距離でしょ」


 タッカーはマスクの下で口を曲げて顔を逸らした。


「俺はプライベートとビジネスはきっちり分けるタイプなんだ」


 スターの名が無数に刻まれたウォーク・オブ・フェイムがあるハリウッド大通りを真っ直ぐ横切ると、急に味気ない景色に変わる。西に半マイルほど行けば、観光客のイメージするハリウッドがある。それ以外は少し治安の良いロサンゼルスだ。街を行く人々の中にはマスク姿もある。デイルは彼らをちらりと見やって、少しずり下がった自分のマスクを片手で直した。


「このご時世で殺人も増えたらしい。人類が混沌の坩堝の中で光を求めて彷徨ってる」


 デイルが低音を響かせると、タッカーは冷ややかな視線を送った。


「大袈裟に言うのはよせ。また黙示録が大好きな連中が幅を利かせるぞ」

「誰もマジで言ってないだろ」

「マジで言ってる奴らがいるからみんな困ってるんだ」

「仕事できなくなった奴らが暇を持て余してるんだな」

「みじめな気持ちになる秘訣は、自分が幸福であるか否かについて考える暇を持つことだ」

「……なに、それ?」

「教養を積め」


 右折して少し行くと、ハリウッド・フリーウェイの高架下をくぐる。その先は目的地のハリウッド・デルだ。タッカーは助手席の窓を下ろして風を浴びた。


 住宅に前庭のある街は比較的治安がいいらしい。警察車両が停まっている家にも前庭があった。庭の周囲はクリーム色の塀で囲まれていて、開け放たれた門には規制線が張られていた。車を降りてタッカーたちが近づくと、現場の警官が手を挙げて会釈した。


「タッカー&デイル」

「セットで呼ぶな。状況は?」


 綺麗に刈り込まれた芝生の真ん中を玄関までコンクリートの道が続いている。煉瓦の外壁の母屋とは別に右手の奥にシャッターの開いたガレージがある。鑑識官たちはそこで作業を行っていた。


「被害者はアジア人の女性。身元はまだ分かってないが、二十代から三十代くらい。この家の住人によれば、ナイフで武装した被害者が制止を聞き入れずに襲い掛かって来たので発砲したらしい。二時間前のことだそうだ」


 タッカーは腕時計に目をやった。二時間前といえば、午前十一時頃のことだ。


「住人に話は?」

「これから聞くところ」


 タッカーはデイルに目を向けた。


「頼む」

「了解」


 大股で母屋の方へ歩いていくデイルを横目に、タッカーは警官と共にガレージに向かう。警官の報告は続く。


「近所の話では、銃声が四回。被害者の胸には二発が命中して、ほぼ即死だったらしい。拳銃はグロック17」

「パニックで撃ちまくったんだな」


 運ばれる前の女の死体がガレージの前でうつ伏せに倒れている。地面に押しつける形になった胸から流れ出た血が身体のまわりを赤黒く濡らす。長い黒髪も血のように地面に広がっている。無造作に伸びた右腕の先にハンドルからブレードまで迷彩柄のサバイバルナイフが転がっていた。


「軍用のサバイバルナイフか?」


 警官は肩をすくめた。まだ分からないという意味らしい。死体のそばでしゃがみこんで辺りを見回すタッカーの目には、母屋とガレージの間にオリーブの木が映る。二階建ての母屋が煉瓦色の外壁が太陽の光を浴びて眩しく輝く。ガレージは木造の白塗りだ。その屋根の正面、母屋側の隅に防犯カメラがぶら下がっていた。レンズの周囲にセンサーが並んでいるのが見える。タッカーが顎でそいつを指し示した。


「動体検知カメラだな」


 タッカーは警官に別れを告げて母屋から中に入って行った。リビングではデイルが住人に事情聴取を行っているところだった。二人の視線を受けてタッカーは会釈をした。


「ハリウッド署強盗殺人課のタッカーです」


 住人のヒスパニック系の中年男性が怪訝な顔をする。


「強盗殺人課?」


 デイルが慌てて男を紹介する。


「こちらドス・サントスさん」

「正当防衛だ!」


 青筋を立てて声を上げるドス・サントスだったが、タッカーは冷静に応じた。


「形式的に調査をしているだけです。で、当時の状況は?」

「気づいた時には、あの女が庭にいたんだ」

「あなたはその時、何を?」

「ガレージにいたんだ。ブレーキオイルを交換しようと思って」

「シャッターは開いていたわけですね。銃はどこに?」

「ガレージの作業机の引き出しに」

「被害者の女性はガレージに真っ直ぐ向かってきた?」

「ああ。ナイフを片手に。だから、慌てて銃を取り出して警告したんだ。止まらないと撃つぞ、と」

「止まらなかった?」

「あの女、突っ込んできやがったんだ」


 大きく広げた両手をこめかみの辺りに持って行って、ドス・サントスは白髪交じりの頭をグシャグシャに揉みしだいた。


「それで四発も……」


 チクリと指摘するタッカーにドス・サントスは嘆くような表情を浮かべた。


「仕方ないだろ! 殺されると思って何も分からなくなっちまったんだから!」

「女性に見覚えは?」

「一切ない」


 十分に揺さぶりをかけてタッカーは本題に入った。

「お宅のガレージに防犯カメラがついてますよね。それも動体検知型の」

「ああ」

「その映像はどこで見られます?」


 ドス・サントスは立ち上がってタッカーを先導した。


「こっちの部屋で」


 三人はドス・サントスの書斎に入って行った。アンティークな調度類が並ぶ落ち着いた内装の部屋だ。机の上にデスクトップパソコンがある。


「カメラの映像は動きを検知すると録画されるようになってる。録画が終わった映像は勝手にエクスポートされてこのフォルダに保存されるんだ」


 マウスを操作して動画ファイルの保存されているフォルダを開く。いくつかの動画ファイルを開いて、該当のファイルを探し出す。


「画質が粗いな」


 庭のオリーブの木が風に揺れているのが分かる。動画は女が向こうからナイフ片手に近づいてくるところから始まる。音はない。ゆっくりと近づいてくる女が立ち止まる。


「たぶん、ここで俺が止まれと言ってる」

「あなたはガレージの中に?」

「ああ、そうだ」


 ガレージの中は映っていない。


「銃は構えてた?」

「脅し程度に」


 しかし、次の瞬間に女がナイフを構えて走り出した。すぐに女が膝を折りながら二、三歩進んでうつ伏せに倒れた。ちょうどカメラの視界に倒れ込んで、あとは庭の光景が数十秒続いて動画は終了した。タイムスタンプによると、この出来事は今日の午前十一時四分から六分にかけてのことだった。




 タッカーとデイルはドス・サントスを中に残して母屋から庭に出た。


「問題は過剰防衛かどうかというところかな」


 デイルがサングラスを掛けてそう言う。


「被疑者の身元が分からん限りは何も言えんな」


 死んだ女はナイフ以外の持ち物を全く持っていなかった。


「足取りを調べないと」


 デイルが言うのを尻目に、タッカーは道路に面した塀で何かを調べている鑑識官のもとに歩いて行った。


「塀に何かあるのか?」

「弾丸ですよ。被害者に命中しなかったうちの一発。もう一発はあっちに」


 鑑識官が指さすのは門を挟んだ向こう側の塀だ。そこでも鑑識官が作業をしていた。


「塀があってよかった」


 デイルがにこやかに言った。


「のんきなこと言ってないで行くぞ」


 タッカーはサングラスを掛けて門から外に出て行った。

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