3 ご破算
「……どうすりゃいいんだ」
ここまでくれば読者諸君にも宮野の苦悩の一端は理解できるかもしれない。とにかく、バッグの中の金をすり替えるタイミングが皆無に等しいのだ。
幸いなことに、米田に進言したところ、ダミーの札束五千万円分を用意することはできた。一万円札大の五千枚の紙切れはリビングの端の段ボール箱の中に収められている。一度はあのボストンバッグと同じものを用意しようとした宮野だったが、本物と間違えてしまう危険性を指摘されて断念せざるを得なかった。それ以前に、凛久くんの母親であるさつきが、絶対にダミーの札束を使わないでほしいと訴えたことで宮野の計画は瓦解寸前に陥っていた。
だいいち、警察は後れをとっていた。犯人が足のつきにくい方法でコンタクトを取ってきたことに対し、先手を取って犯人の居場所を掴むことができなかったからだ。ダミーの札束は先手を取っているからこそ意味のあるものだ。検めればすぐに分かる紙切れを渡すことは凛久くんの命運を左右する。警察としても、さつきの訴えを受け入れるしかなかった。
宮野の中に二つの未来予想図が照らし出されていた。
最初の未来予想図は、バッグの中身をすり替えられず、犯人にただ身代金を渡してしまうという未来だ。その結果、凛久くんは戻るかもしれないが、宮野には何の収穫もなくなってしまう。そこは凛久くんの命を守り通したと思ってもらいたいものだが、今の宮野はそこまでお人好しではなくなってしまった。金に目が眩んだ人間とはかくも冷血になれるものなのだ。
未来予想図Ⅱは、宮野が協力を拒んだと判断した犯人が最悪の結末をお見舞いするというものだった。凛久くんが帰らぬ人となってしまうばかりか、宮野の母親も三途の川を渡らされることになる。さらに悪いことには、犯人に宮野を黒幕に仕立ててしまう余地を与えてしまうことだ。宮野は手錠を掛けられ、人生が終了する。
今の宮野にとって、未来は、最高がプラスマイナスゼロで最低がマイナス百だ。どうあがいてもプラスにはならない。最高得点であるプラス二千五百万を達成するには、リスクを背負う必要がある。犯人の言う〝少々のリスク〟なんてものではない。
宮野は立ち上がってトイレの水を流した。ゆっくりとドアを開けてリビングに向かう。壁に掛かった時計が正午を過ぎようとしていた。
刑事三人が膝を突き合わせていた。
「どうしたんですか?」
宮野が声を掛けると、米田が嫌味っぽく返した。
「お前がウンコしてる間に手紙の鑑識報告が届いたぞ」
ウンコしてませんとは言い返さずに宮野は三人の輪に入った。米田が自分のスマホ画面に目を向けている。
「とはいうものの、大した情報がない。封筒はどこにでも流通している茶封筒で、両面テープで封ができるタイプのものだ。宛名は封筒ではなくシールに印字されていた。茶封筒の裏面に差出人の名前はなし」
宮野にとっては実感を伴う情報だ。
「シール、封筒、共に表面上は手紙を読んださつきと郵便局関係者以外の指紋は検出されなかった。ただ、封筒のベロの内側からはラバー手袋のものと思われる痕跡が見つかっている。これは中身の手紙も同様だ。封筒の中に毛髪などはなし。封筒に貼られた切手からDNAは検出されず」
どこからともなく諦めに似たような吐息が漏れる。
「印字されている文字フォントは宛名、手紙共に『HG丸ゴシックM‐PRO』……株式会社リコーが製作し、マイクロソフトがライセンス使用している。マイクロソフトオフィスでは標準搭載されているフォントだ。日本のウィンドウズ搭載PCのシェア率は約七十三パーセント……これは単なる参考値だな。インクは成分からキヤノン社の純正と思われる……これでは犯人を特定する決め手にはならないな」
杉村が腕組みをする。
「何も分からないということですかね」
「犯人がこれに合致するツールを使っていれば整合性が取れるということだ」
だが、正直なところ、宮野にとってそんなことはどうでもいいことだった。テーブルの上のバッグに目をやる。近づいてファスナーを開ければ札束が詰まっているのが見えるはずだ。ただそれだけなのに、距離が遠く見える。
じっとバッグを見つめながらソファに座る宮野は上の空だ。リビングの入口付近にダミーの札束の入った箱がある。中身だけを入れ替える魔法が使えたら……宮野はそう思うが、仮に魔法が存在するとして、誰がそんな使いどころの少ない魔法を開発するだろうか。
宮野の脳内でシミュレーターが起動する。身代金をどうやって掠め取るかという最低なシミュレーターだ。現実的なシミュレーションでは、ボストンバッグの口を開けて札束を掴んでダミーの札束と少しずつ入れ替えることになる。そこまで計算が進むと、重大な問題が判明する。ダミーの札束は、紙幣に似せたものが使われているわけではない。札に似た色の無地の紙が束になっているだけだ。上下に一万円札を入れておかなければ、一瞥して偽物が入っていることが分かってしまう。
今度は宮野の脳内にそろばんが現れる。しかし、宮野はそろばんに触れたことがないので、そのそろばんを脇に除けて考える。五千万円になるには、百万円の札束が五十束必要だ。その上下に一万円札を入れるとなると、一万円札は百枚が必要だ。
宮野の脳内は大忙しだ。次に記憶を映し出す映写機が回り始めた。犯人は五千万円の半分を、と手紙に記していた。しかし、ダミーの札束を完成させるには百万円の出費が必要だ。身代金からダミー費用を横流しするとして、全体の額が四千九百万円になる。犯人に渡すのが二千五百万円ならば、宮野が手にするのは二千四百万円になる。
数字が大量に出て来て、宮野は気持ち悪くなってしまった。昔から計算は苦手だった。こんな捕らぬ狸の皮算用ならぬ取らぬ身代金の額算用をしてみたところで、ダミーの束を一万円札でサンドする手間で、よりミッションの難易度が高まったことが分かっただけだ。
暗澹たる思いで頭を抱える宮野の耳にさつきの声が届いてきた。
「お昼……どうされますか?」
少しやつれた顔のさつきが米田に顔を向けていた。
「何か食べますか、さつきさん?」
「何かご用意を……」
キッチンに向かおうとするさつきを制して、米田は宥めるような声色で言う。
「昼食は部下に用意させます。さつきさんはゆっくりしていて下さい」
米田は財布を取り出すと、一万円札を抜き取って宮野に手渡した。
「そこのコンビニで適当に買ってきてくれ」
男女混合の団体にコンビニ飯を買ってくるという、なかなかにセンスを問われる大役を任されて宮野の頭は強制的に犯罪的な思考から引き剥がされる。モタモタしている宮野の背中を叩いて杉村が玄関に向かう。
「一緒に行くぞ」
言われるがままにその後姿を追って宮野は部屋を出た。
空は澄んだ空気に満たされた快晴だ。日向にいれば春かと錯覚させられるくらいの陽気の中、宮野と杉村は並んでコンビニへの道を歩いていた。ずっとあのバッグのことを考えていた宮野にとって外の空気はリフレッシュに最適だった……とは言い難かった。離れることで想いは育まれるとよくいうが、カーキ色のボストンバッグへの宮野の想いは募るばかりだった。
「歯痒い時間だな」
杉村が辺りを見回していた。宮野は「そうですね」と言ったが、意味合いは杉村のそれとかなり違っていた。
「凛久くんは無事だと思うか?」
「え、無事じゃないっていうパターンあります?」
杉村はバツが悪そうに頭を掻いた。
「さつきさんの前じゃ言えなかったが、そりゃ、あるだろ。身代金の受け渡しは最も逮捕されるリスクがある。犯人が自らそんな危険を冒すとは思えない」
だから俺を利用してるんですよね……という返しを喉の奥に押し込めて、宮野は刑事っぽい質問を繰り出した。
「じゃあ、どうして犯人はあんな手紙を……?」
「さあな……警察を撹乱したいだけなのかも」
「何のために?」
「別の目的があるのかもしれない」
「別の目的とは?」
杉村は手を払って宮野の追撃を逸らそうとする。
「質問ばっかすんなよ! ちょっとは自分の頭で考えろ」
あんたが言い出したんでしょとは言わずに、すんませんと頭を下げた頃、二人はコンビニに辿り着いた。勝手に男性陣の食事選びを担った杉村を密かに睨みつけながら、宮野はできるだけ色合いを重視しながら商品を手に取って行った。
レジで会計を済ませ、領収書を受け取った宮野の手に、偶然にもお釣りの四千九百円が戻ってきた。これを一万倍すれば、ダミー用に使った百万円を抜いた身代金額になる。
── 一万倍になあれ。
宮野は心の中で恭しく呪文を唱えた。口に出さなかった分まだマシだという現実だけが宮野の身体を優しく抱きしめた。
「おい、早く戻るぞ!」
袋を二つ提げた杉村がコンビニの入口で声を上げた。犯人からの連絡がいつ来るとも分からない。気が逸っているのだろう。その様子を感じ取った宮野の思いはボストンバッグの中身に向かっていた。
食事を終えて、宮野はゴミを片付けていた。キッチンからリビングの面々を盗み見る。この数日、張り詰め続けてきた空気がやや緩んでいた。宮野は頭を働かせすぎてコンビニ弁当の味を見失っていたが、こうなれば強引にでも金をすり替える余地をこじ開けるしかないと腹を括り始めていた。
意を決してリビングの隣室に入る。ここはさつきの居室だ。部屋の隅のデスクの上には凛久くんとの写真が飾られている。部屋の中に物は少ないが、凛久くんの玩具がしまわれていて、それが賑やかさの残り香を漂わせている。シングルのベッドは綺麗に整えられていて、枕が二つあるのもどこか物悲しさを漂わせていた。
さつきの部屋にもリビングと同じようにバルコニーに繋がる窓がある。閉じたカーテンをそっと開いて外を見る。四階の窓の眼下には丁字路があり、向こうに伸びる道の脇からこちらを見ている人影が見えた気がした。
宮野の黄ばんだ脳細胞が一斉にざわめきだす。すぐに口を開いた。
「あの男……怪しくないですか?」
米田と花坂が部屋にやって来て、宮野の横で窓の外に目を向ける。宮野はじりじりと交代しながら指を差す。
「あの道の脇にいる……」
リビングの方を確認すると、杉村とさつきが網戸を開けてバルコニーに歩み出ていた。宮野は素早くリビングに移動してバッグのそばに膝をついた。そっとファスナーを開ける。興奮と焦りで先走っただけで、後先を考えて出た行動ではない。バッグの中に詰められた札束に手を伸ばして指先で本のページをめくるようにした。宮野は「はあ?」と声を出しそうになった。すぐにファスナーを閉じて立ち上がると、後ずさった。
米田がスマホを片手に玄関に駆け出した。
「杉村、一緒に来い! 宮野は待機! 花坂はさつきさんといろ!」
ドタドタと慌ただしく二人が出て行くと、さつきが不安そうな表情を浮かべた。
「倉橋だったんでしょうか……?」
「まだ分からないですけど、ここにいれば安全ですから」
花坂がさつきに優しい眼差しを向けた。網戸とカーテンを閉めると雪崩れ込んできた冷気が少しだけ行き場を失ってリビングの足元に漂う。
「宮野さん、よく見つけましたね。……宮野さん?」
宮野は顔面蒼白だった。
バッグの中には、一万円札でサンドされたダミーの札束が詰まっていたのだ。
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