2 奇妙すぎる手紙
あれは昨日のことだった。すなわち、凛久くん誘拐が犯人の手紙によってさつきに知らされた翌日のこと。論理パズルみたいに回りくどい言い方になってしまったが、十一月二十日だ。
朝から晩まで凛久くん誘拐の件で動き続けていた宮野は、ほとんど仮眠をとるためだけに自宅に戻っていた。もう日付が変わるという頃にアパートの郵便受けを覗いた。中にはカラフルな水道工事のチラシと味気ない茶封筒が一通。チラシをアパートの管理人が用意してくれている不要なチラシ入れに突っ込んで、茶封筒を観察した。表面には宛名シールが貼られていて、郵便番号と自宅の住所が部屋番号までと宮野の名が印字されていた。裏面には差出人の名前はなかった。表面の切手はコンビニでも売っているようなもので、消印は市の中央郵便局が十一月十九日の十八時から二十四時の間に引き受けたことを示している。ほとんど重さはなく、おそらく紙が一枚程度入っているだろうことだけは確かだった。
不審に思いながら自室の玄関を開けてマスクを外した。キッチンのゴミ箱にマスクを捨てて、手に持っていた封筒とコンビニの袋をコンロのそばに置く。冷蔵庫のドアを開けるとコーラのペットボトルを取り出し、唇をつけずに中身を口の中に流し込んだ。宮野くらいの熟練度なら、コーラをこぼすことなどない。ただ読者諸君は見習わないでほしい。もうやっているのなら、それはもう仕方がない。
いつもシャワーで済ませていたが、この日の宮野は湯船に浸かりたい気分だった。湯船の蓋を少し開けてお湯の蛇口を捻って湯を溜め始めた。その間ずっとあの封筒のことが気になっていた。コンビニの袋と封筒をもって茶の間へ。低いテーブルのそばに敷いた薄い座布団の上に腰を下ろして、小さいテレビのスイッチを入れる。訳の分からないドラマが流れるまま、宮野は封筒の口を破った。白いA4用紙が一枚入っている。丁寧に三つ折りされたそれを広げて、印字された文章に目を通した。
“親の借金がまだ山のようにあるこの頃、いかがお過ごしでしょうか。”
「どんな時候の挨拶だよ」
宮野は思わず手紙に言い放っていた。
“さて、宮野さんにおきましては、激務薄給の刑事生活の中で親の借金に苦しんでおられることと思います。借金を残した父親は蒸発、おまけに母親は身体が弱い。他人事ですが、宮野さんの状況を思うと布団を被って寝ずにはいられません。”
「寝てるじゃねえかよ。本当に他人事だよ」
しかし、同時に、この手紙の差出人が自分の境遇に詳しいことが分かり、宮野は薄気味悪い思いで先を読み進めた。
“今回手紙をお送りしたのは、宮野さんに人生逆転のチャンスを差し上げたいと考えたからです。そういうチャンスはそうそう巡ってくるものではありません。
率直に申し上げますと、私は小野寺凛久くんを誘拐した犯人でございます。”
宮野は背筋をおぞましい悪寒が走るのを感じた。飄々と名乗る文章だけの存在が妙に恐ろしく感じられたのだ。そして、妙に読ませる文章なのが腹立たしくもあった。
“おっと、読むのをやめてお仲間に報告する前によく考えてみて下さい。私は、私が要求する身代金五千万円のうち半分をあなたにお渡ししようと計画しているのです。宮野さんの代わりに計算をいたしますと、その額は二千五百万円。
存じております。宮野さんが返済すべき借金は一千万円超。身を綺麗にしてなお、手元に一千万円程度が残る仕組みになっております。宝くじを頼っていくら無駄にしましたか? FXと暗号資産で赤字をどれほど伸ばしましたか? ここで宮野さんが払うのはお金ではなく、少々のリスクのみです。”
本当のところをいうと、宮野は今の状況にうんざりしていた。刑事ともなれば、犯罪者たちが札束を自由自在に流していることに気づく。そういった連中を相手にして身を粉にしながら、給与明細に溜息を吹きかける日々である。そもそもの始まりである借金自体も、自分自身がこさえたものではない。母親を支えるため、その一点で、兄弟もいない宮野は誰にも頼ることなく今までやってきたのだ。
目の前にぶら下がる二千五百万円が宮野には眩しく見えた。それさえあれば、薄暗くジメジメした人生のトンネルから抜け出すことができる。トンネルを抜けた先は天国でしたと言わんばかりである。
“刑事様相手に講釈を垂れるつもりは毛頭ありませんが、身代金目的の誘拐というのは近年続々と減少中です。それには様々な技術の進歩が寄与しているわけですが、なんといっても身代金の受け渡しに相当なリスクが生じるからです。もちろん、私のような誘拐犯にとっての、ですが。
では、その身代金の受け渡しにかかるリスクを減らしてはどうだろうかというのが私の考えでございます。その鍵があなたであるということは、賢明な宮野さんであればもう思い至っておられることでしょう。”
宮野の胸に嫌な予感がせり上げてきた。その正体はコーラの炭酸だった。宮野はげっぷを一つして次の文章に目を移した。
“手順はコンビニのおにぎりを開けるより単純です。宮野さんに身代金の入ったバッグの中身をすり替えていただくだけでございます。中身は一旦宮野さんの自宅に隠しておき、その後、私からの指示の手紙が届きますので、その通りにしていただければ問題ございません。
それでは、当日のご参加をお待ちしております。”
まるで職場の野球大会か何かに招待されたような気分のまま手紙を読み終えると、宮野は放心状態になっていた。無意識にダミーの札束をどうしようかと考えている自分に気づいて、宮野は自分の頬を叩いた。
頬を叩いてみたところで、すでに芽生えた葛藤は消せなかった。職場の野球大会も人間関係やらと面倒臭さを天秤にかけるものだ。特に野球未経験者ならば。
宮野にとっての最初の迷いは、米田に報告すべきかどうかということだった。あの血沸き肉躍る人間ならば、確実に刑事魂が燃え盛るだろう。正しい刑事ならば、迷うことはなかったかもしれない。しかし、宮野の脳裏には別の未来の青写真も浮かび上がっていた。もし誰にもバレずに成し遂げることができれば、もっと良い所に住んで、良い暮らしができる。なんなら刑事を辞めて落ち着いた仕事をしたっていい。そうすれば、汚い世界で札束の風呂に入っているような連中と地面を這いつくばっている自分を比較することもなくなる。
宮野を襲う次の悩みは、もしやるのならばどうやってやるのか、ということだった。禁酒を言い渡された人間が馴染みの居酒屋の暖簾を掻き分けて店の中を覗いているようなものだ。
身代金は警察が用意することはない。誘拐被害者の家族、親族や会社などが銀行などに掛け合って搔き集める。警察にできるのは、ダミーの札束を用意して、身代金受け渡しの時までには被害者を確保する算段を整えておくことぐらいだ。宮野は思うわけだ。ダミーの札束を用意することはできる、と。しかし、小野寺家に出張るとはいえ、部屋の中には実動部隊として他にもメンバーがいることになる。彼らの目を盗んでバッグの中身をすり替えるなどというマジシャンばりの芸当を素人が発揮できるとは、宮野自身も思っていない。
宮野に覆い被さる最後の悩みは、犯人は誰なのかということだ。
宮野自身、自分の境遇を隠しているわけではないが、自ら吹聴しているわけでもない。しかし、犯人は的確に宮野の弱点というか人間的な汚点を突いてきていることは事実だ。現に宮野の心は大波に乗る遠洋漁船みたいにグラングランである。さしずめマグロ漁船で借金返済というところだ。そこまでバックグラウンドを把握しているということは、母親の居場所も掴んでいるというわけで、そこに宮野はそこはかとない恐怖を感じずにはいられなかった。もし犯人からの提案を跳ね除けてしまったら、母親が人質に取られる可能性もないとは言い切れない。
そういう事情もあり、宮野は次第に心を傾けていった。二千五百万円の方へ。とりあえず心の準備をしておくだけなら大丈夫だろう……宮野はそう考えていた。
もうお湯が溜まっただろうと、服を脱ぎながら風呂場に向かう。裸になって浴室を覗くと、栓の抜けた湯船から虚しく湯気が立ち上っていた。
人生は選択の連続だ。そして、何かを選ぶということはそれ以外の全てを選ばないということ。この日の宮野はおずおずと破滅への道に踏み出す決心に手を伸ばす代わりに湯船を諦めた。
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