第一章 最低な刑事
1 公僕にあるまじき輩
そのカーキ色のバッグに穴が開いたのならば、きっとここで神妙な顔をしてソファに腰を下ろしている宮野のせいだといっても差し支えないだろう。読者諸君は「誰なんだそいつは」と思うかもしれないが、こいつも刑事である。それも県警の捜査一課特殊犯捜査係というイカつい肩書を擁しているのだ。
「さっきからボーッとして、何してるんですか?」
横合いから唐突に声を掛けられて、宮野は飛び上がるほどびっくりして間の抜けたデカい叫び声を上げてしまった。マスクの上の丸い目をパチクリとさせる声の主をまじまじと見つめて、宮野は喉を震わせた。
「なんだよ、花坂さん……ビビらすなよ」
「いや、こっちがビビったんですけど」
隣室から大柄な人影が現れる。
「なにデカい声出してるんだ。小野寺さんが怯えてるぞ」
「すんません……杉村さん」
杉村は小難しそうに眉間に皺を作って番長ばりの眼光を放った。マスクで口元が隠れている分、その凄味が増している。
「……ったく、事件は進行中なんだ、気を引き締めろよ」
「すんません」
これ以上は小言を聞きたくないという意思表示で宮野が頭を下げると、杉村は舌打ちをして隣室に消えた。向こうで女性の話し声がしている。
リビングのテーブルのど真ん中にデーンと腰を下ろすのはカーキ色のボストンバッグだ。持ち手の根元には名刺サイズのカードの入ったネームタグがぶら下がっている。花坂はそいつを見つめて、小さな声で言った。
「米田さんがいなくてよかったですね」
その通りだ、と宮野は心を込めてうなずいた。一人のくせに刑事の寄せ集めみたいに熱い米田がここにいれば、きっと拳を脳天にお見舞いしてくるに違いない。幸い、今は周囲を見回りしてくると言って部屋を出て行ったところだった。
このマンションの一室には、実動部隊として宮野たち四人が、そして周囲にはサポートとして五人が控えている。他に捜査を続けている何人もの仲間たちが動いていた。
十一月十九日に発覚したのは、二歳の小野寺凛久くんが誘拐されたという事件だった。その二日前に失踪届が出されており、ニュースでも凛久くんの件が報じられていた。県警の広報課は即座に報道協定に従い記者クラブに報告を行った。誘拐事件の場合、報道各社は事件についての報道を控えるように通達される。それが報道協定だ。報道過熱を防ぎ、誘拐された被害者の命を守るために警察とメディアが結んでいるルールになる。ただし、記者クラブでは事件の情報は常に共有されており、報道規制が解除され次第、一斉にテレビや新聞を賑わせることになる。
「小野寺さん、大丈夫でしょうか……」
心配そうな視線を隣室の方へ投げるが、宮野は冷ややかである。
「自分の子どもを誘拐されて大丈夫な母親はいないでしょ」
「それはそうですけど」勢いよく振り返る花坂から微かに鼻をくすぐる香りが迸る。「心配じゃないんですか?」
ボストンバッグを一瞥する宮野は心をリビングのどこかに置きっぱなしだ。誰か拾うことができるなら、その心を宮野の胸にぶち込んでやってほしい。
「いや、まあ、心配だけどね……」
「『だけど』? だけど何なんですか?」
迫る花坂に宮野は嫌気が差したように顔をしかめた。
「起きちゃったもんは仕方ないだろ。その分、俺たちが無事解決しないといけないってことだ」
マスクの下で口をへの字にしてソファの背もたれに寄り掛かると、花坂は不服そうに溜息をついた。
「それはそうなんですけどね……」
ここは攻勢に出るべきと判断したのか、宮野は隣室を顎で示した。
「そんなに心配だとか言うなら、ついててあげればいいだろ。なんで強面の杉村さんにやらせてんだよ」
凛久くんの母親、さつきは憔悴していた。宮野の言う通り、自分の子どもが誘拐されて憔悴しない方がおかしいが、とにかく憔悴しまくっていた。話を聞いた刑事によれば、凛久くんが誘拐されたのは自分のせいだと言っていたらしい。
「イヤイヤ期って誰にでもあんのかね?」
ソファから立ち上がりかけていた花坂だが、宮野の突拍子もない問いの意味を理解したようだった。
「あるみたいですよ、二歳頃から」
「なんなの、イヤイヤ期って?」
まだ結婚というものが遠い未来に感じる宮野にとって、子どもに関する疑問は目の前に現れて初めて認識できるものだった。下手すると一生疑問を抱かなかった可能性もある。
「自我が芽生えたから、とかいいますけどね。なんでも自分でやりたがるからそれ以外のことは拒否しちゃうという……」
「歳食った頑固ジジイもイヤイヤ期なのかな」
「それは何でもやりたいという自我が芽生えたんじゃなくて、やり残したことに未練が芽生えたからなんじゃないですか」
「なにうまいこと言おうとしてんだよ」
わざとらしく作り笑いを浮かべて、花坂は隣室に向かった。その隙に宮野はボストンバッグに手を伸ばそうとした。と、その時──、
「息が詰まるな」
深呼吸するような息遣いで杉村が隣室から出てきた。宮野はバネ仕掛けの玩具みたいに元の姿勢を取り戻した。
「そうっすね」
「ずっと座ってるだけじゃねえか」
鼻で笑う杉村に宮野は心の中で舌打ちをした。杉村は換気のために開けていたリビングの窓のそばに近づいて、薄いカーテンを指の背で軽く開くと外の様子を窺った。端から見ると、強面も相まってどこかのボスみたいだ。
「いいんすか?」
「何がだよ?」
宮野は内緒話でもするように背中を丸める。
「俺たち警察が動いてると知ったら、犯人を刺激しちゃいませんかね」
「お前も見ただろ。犯人からの手紙を。俺たちを弄ぼうとしてるんだよ」
犯人からの連絡はただ一つ、手紙だけだった。足がつくのを恐れたのかもしれないが、ずいぶんとレトロなことである。その犯人が寄越した手紙にははっきりと「警察諸君の努力は無駄に終わるだろうけれども」と記されていた。
「身代金目的の誘拐なんて、珍しいですよね」
手紙によれば、犯人の要求は五千万円。それで凛久くんの身柄と引き換えだという。
「電話でやり取りすればすぐに居場所は分かるし、金が欲しけりゃ詐欺で引っ張ってくる方が手っ取り早いからな。わざわざ捕まるリスクを高める必要がない」
「じゃあ、どうして犯人もそうしなかったんでしょうか?」
「知らん」
杉村は吐き捨てるように言ってカーテンを元に戻した。やたらと外の様子を気にしている杉村の背中を宮野は怪訝そうに見つめた。
「犯人は俺たちの様子をどこかで見てるんですかね?」
「どうだろうな」
杉村にとっても犯人の行動は読みづらいものなのかもしれない。だからこそ、何を警戒していいか分からずに意味もなく外を眺めているのだろう。杉村は窓に背を向けてテーブルの上のボストンバッグに目を落とした。
「そういえば宮野、お前、両親の件は大丈夫なのか?」
宮野は一瞬だけ目を丸くして、次の瞬間には取り繕うように笑みをこぼした。
「なんすか、急に?」
「いや、言ってたじゃねえか。親の借金を肩代わりしてるって」
ボストンバッグの中身から連想したらしい。宮野は肩を落とす。正直なところ、忘れていたいことだったのだ。
「いや、まあ……全然大丈夫っすよ……」
全然大丈夫じゃなさそうにうなずくので、杉村も同情を寄せるように目を逸らした。
何の前触れもなく玄関のドアが開いて、忙しない足音が近づいてくる。
「まだ犯人からの連絡は来てないな?」
米田が現れた。
「来たら連絡しますよ」
耳にタコどころかイカができるほど繰り返した文言を杉村は返した。
「何も異常はないな?」
「異常があったら連絡しますよ」
今度は宮野が応えた。米田は臆することなく隣室に向かうと、部屋の中に声を投げ入れた。
「さつきさん、少しは休んでいて下さいね」
かすかにさつきの声が聞こえる。
「はい。なので、今休んでます」
米田は両拳をぶつけながらリビングに戻ってきた。
「犯人の奴、一体何が目的なんだ……」
鼻の下にずり落ちたマスクをグッと引き上げるこの人が現場での責任者だった。ちなみに、読者諸君が気にしたままモヤモヤしているといけないので先に記しておくが、冒頭のあの暑苦しい奴と同一人物である。
「……身代金でしょうね」
今回の誘拐犯の目的は明白だ。五千万円の身代金だ。米田は短く笑った。
「冗談だよ。ちょっと言ってみたかっただけだ。そうカッカするなよ」
「いや、してませんがね……」
米田のペースに絡め取られれば、杉村など一瞬で飲み込まれてしまう。それは宮野も同じことだった。
「宮野、どう思う?」
急な質問である。
「ええと、何がですか?」
「犯人からの次の連絡はいつやって来ると思う?」
「そろそろなんじゃないですかね」
何の根拠もない返答をするという世界一無駄な会話だ。米田は杉村に目を向ける。
「集荷してる郵便局は特定できたんだよな、確か」
「ええ……、なんですけど、全てのポストを調べようにも時間がかかる上に、次も同じエリアで手紙が投函されるとは限らず、我々は手紙が出てくるのを待つのみです」
警察では県内の集配郵便局に伝達をして、小野寺家宛ての不審な手紙が見つかり次第、連絡を寄越すように言ってある。
「街頭の防犯カメラが増えたといっても、まだまだカバーきしれてないんですよね」
宮野は恨み節を効かせたが、米田はリビングの隅に置かれた、乗って遊ぶ外車の玩具に目を向けていた。
「なんで大人は玩具で遊ばないんだろうな」
「どうしたんですか急に」
改めて聞くまでもなく、米田はいつも急だ。好きな数字が「92」でも誰も驚かないだろうというくらいのレベルだ。
「玩具で遊ぶ大人もいますけどね」
余計な指摘をする杉村に意味ありげな視線を送ると、米田は外車の玩具の上に跨った。
「だけど、おっさんが公園でこうやって遊んでいるのを見たことないだろ」
「まあ、もし見たとしたら不審者案件ですね」
「そもそも、子どもはこの玩具で『車は跨るものだ』と思わないんだろうか」
「実際の車に乗って跨れるもんじゃないって実感するんじゃないですか。少なくともうちの子どもは車に跨ろうなんて考えたことないと思いますよ」
米田は車に跨ったまま杉村を見つめた。
「子どもは元気か?」
大人みたいな質問をしていい様子には見えなかったが、杉村は大人しくうなずくことにした。
「ええ、おかげさまで」
宮野は頭を掻き毟って立ち上がった。
「ちょっとトイレを借ります」
足早にリビングを出てトイレに入ると、蓋をしたままの便座にズボンを下ろさぬまま腰かけた。そのままそこでひり出そうというわけではない。声にならない呻きを喉元に震わせながら、頭を抱えた。
「……どうすりゃいいんだ」
小さくそう呟いた。この世が終わりそうな空気感である。
宮野は考えていた。あのボストンバッグの中には、凛久くんを誘拐した犯人に渡すはずの金が入っている。五千万円だ。そして、その半分を宮野は手にできるかもしれないのだった。
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