あの金を渡すのはあなた
山野エル
プロローグ
プロローグ
黄色い箱が蹴っ飛ばされて、茶色いビール瓶が散乱する。ガチャガチャとけたたましい音が弾け飛んだ。ドラマやなんかで粉々に砕け散るビール瓶は飴細工だ。一本一万円もする。あれは簡単に粉々になるが、本物のビール瓶はそれなりに頑丈で、思い切り人の頭をぶん殴ろうものなら、きっと小一時間後には、相手はMRIの中に突っ込まれるであろうことは覚えておいてもらいたい。
「待てっ!」
鬼気迫る怒号が飛ぶ。およそ徒競走には向かない革靴が転がるビール瓶を踏みつける。スーツを着た身体が縦に百八十度回転して、右手から盛大にアスファルトの地面に叩きつけられた。
「痛ぇなおい……」
ジンジンと痛む手を押さえて怒りのままに瓶を蹴り飛ばすと、狭苦しい路地の壁にぶち当たったものが真っ二つに割れた。飴細工の物に比べると、こっちは一本二千分の一の価値だが、迫力はせいぜい千円分くらいだ。実際のところ、派手に割れる飴細工の方が見栄えが良い。
追手の言うことを聞く逃亡者がいないのと同じように、先を行く男は止まることを知らない。積み重ねてあった段ボール箱を引っ掻くと、ゴロゴロと音を立てながら路地を行く追手を堰き止めようとする。苛立ちを紛れさせるように呪詛の言葉を吐いた追手がアスファルトの地面を蹴って乱雑な箱の山を飛び越えた。
だいたいの場合、人間というものは悪いことをするから逃げるわけだ。そんな悪人も数十年前は校庭で鬼ごっこに興じていたかもしれないと思うと、時の流れがいかに残酷なものであるかが分かる。
「いい加減諦めろ!」
燃えるような肺を飼い慣らしてそう叫ぶのは刑事だ。捜査二課の米田。暑苦しい奴なのである。今も初春の空気の中を汗を飛ばしてかけている。世界的な感染症が蔓延する世の中だが、マスクを顎の下に押し下げているところについては大目に見てやってほしい。
刑事ドラマでも観慣れている読者諸君においては、捜査二課が何を担当している部署なのかお分かりだろう。米田が絶賛追跡中なのは、詐欺師だ。ここ数年、猛威を振るっていた美術品詐欺……その犯人グループを追い詰めた矢先のこと、米田たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出した詐欺師たちを追うことになった。米田が追うのは、グループのリーダーと目されている男──通称〝牧瀬〟だ。
前方から猫の絶叫が響いてきた。夜中に外で聞いた昔の人々が妖怪の類だと思ったのも不思議ではないと思えるほどだ。猫は米田とすれ違うように猛スピードで疾走していった。路地から抜けて、逃げる牧瀬は左右を確認もせずに車道を横切っていった。足を滑らせながらそれを追う米田のズボンのポケットの中でスマホが鳴った。胸を張って顎を引きつつ足をグングンと動かしながら米田が電話に出ると、向こうから息も絶え絶えの声が聞こえてくる。
『そっちはどうですか……!』
別の詐欺師を追っていた犬塚だった。米田は答えるのも億劫で自分の息遣いを聞えよがしに大きくさせた。状況を察知したらしい相手が泣きそうになって言う。
『こっちはみんな逃げられました……! 米田さん、何とか捕まえて下さい!』
米田は野犬のように鼻の頭に皺を寄せて舌打ちをすると、黙って電話を切った。喋れない米田の代弁をするとこういうことになる。
──使えない奴らめ!
街に人通りがないのが幸いした。逃げ惑って見境のなくなった犯人はしばしば力の弱そうな通行人を人質に取ることがある。その心配がないというのが米田にとってはマシだった。
牧瀬は歩道を死に物狂いで駆けていく。死ぬほど捕まりたくないのだろう。歩道が切れて、横道がぶつかる。そこを牧瀬が走り抜けようとした時だった。
ドーンと音がして、牧瀬の体が空中に放り出された。タイヤが擦れる音がして、横道からトラックが顔を出していた。怒り狂った子どもが放り投げた人形みたいに手足を振り乱して空を飛ぶ体が十メートルほど先でグシャリと着地して動かなくなった。
「おいっ!」
米田の声が青空に木霊した。救急車を呼ぶためにスマホを構えながら牧瀬に近寄る米田の目には、やっとの思いで伸ばした手の先が犯人の尻尾を掴み損ねてしまうことへの絶望と失望が鈍く光って見えた。
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