第50話

「はい。今夜はここですごそうかと」

「宴には出ぬのか」

「はい。騒々しいのはちょっと」

「そうか。では、風邪を引かぬようにな。夜はまだ冷えるぞ」

 神官長は手を振って、他の神官らと共に船に戻っていった。

 残されたチレは、祭壇を片づける兵士を手伝った。宴に参加できない彼らにとって供物は今夜のご馳走だ。

 そうしていたらやがて日も沈み、静かな夜がやってくる。

 夕食までのいっとき、チレは駐屯地の天幕からひとり抜け出して、クレーターの中へと向かった。

 なだらかな坂をザクザク上り、クレーターの端を越えてから、雑草の茂る斜面を下っていく。空には星が輝き、月は満月から少し欠けた姿で周囲を照らしていた。

 虫たちの鳴き声が響く中、チレの背丈ほどもある雑草をかき分けてクレーターの真ん中におりる。そこはかつて、穴があった場所だった。今ではもう、そんな不気味な空間があったなどとは微塵も感じられないありふれた場所だ。チレはその場にペタンと腰を下ろすと、草の合間に見える地面に手をあてた。

「……ハクト様」

 指先に触れる土は硬く冷たい。この下に闇の回廊があるとは思えない。もうあそことは繋がっていないのだ。地面の下は延々と続く土と岩があるのみ。

「ハクト様、……ハクト様」

 チレは小さく囁き続けた。五十年前に失った人を求めて。

「もう一度、お会いしたいです……」

 できることなら。一目でいいから。

 何年経っても恋心を消すことができない。年を重ねれば重ねるほど思いは強くなる一方だ。

 脳裏に、片頬を持ちあげてちょっと意地悪そうに笑う姿が浮かぶ。口が悪くて我が儘で、チレのことをいつも振り回して。けれど心の底は強くて優しくて、他人思いな人だった。『ルルクル人のために穴に飛びこむなんて、俺には絶対無理だな』と言っていたにもかかわらず、最後にはチレたちを救うために自ら穴に落ちていった。何の躊躇いも見せずに、命の危険も顧みず。

「会いたい……」

 地面に額をこすりつけて、チレは涙を流した。

「会いたいです。淋しい……」

 想いを地面に染みこませるように雫を落とす。行き場のない愛情はここに捨てるしかなかった。

 しばらくそうしていると、身体が冷えてお腹も空いてくる。

「そろそろ戻らなきゃな……。皆に心配をかける」

 チレは涙をクシクシと拭いて立ちあがり、あたりを見回した。

 この先も百年二百年と、彼のために祈りを捧げよう。命が尽きるまでひとり孤独に。だってきっとハクトの方が孤独な人生だったろうから。

「ハクト様……。またきますね」

 チレは引き返そうと、草地を一歩踏み出した。だがその瞬間、あたりの空気がさっきと違うことに気がついた。

 虫が鳴いていない。

 そして風のざわめきがとまっている。

 どういうことかと、耳を澄ます。カサリと草が鳴って、動物でもいるのかとそちらを振り返った。けれど生き物の気配はない。

「……」

 目を瞬かせるチレの前で、ボコッ、と音がした。

「え?」

 また、ボコ、ボコッ。

 音のする方角へ草葉をかき分けて進んでいけば、何と、地面が小さく盛りあがり、その下で何かが蠢いているのがわかった。

「何?」

 雑草が倒れて、土がモコモコ押しあげられている。

 何が起きているのかと凝視していたら、突然、ボコッと土が噴出した。そうして中から泥まみれの長細い物体がニュッと飛び出てくる。

「えっ」

 チレは恐怖に後ずさった。

 また魔物でも生まれてくるのかと驚愕して、その場にペタンと尻餅をつく。物体はモゾモゾ動いて周囲の土を退かせ始めた。

 その動きを見ていたチレが、ハッと目をみはる。

 慌てて起きあがり奇怪な生き物のそばによると、急いで土を掘り起こした。懸命に穴を大きくしていると、やがて黒く丸い物体が見えて、それから見覚えのある服があらわれる。

 そして最後に、全身が穴からスポンと飛び出てきた。

「ぷはぁっ」

 姿をあらわしたのは、何と、失われた最後の聖女――ハクトだった。

「ハ、ハク、ハク、ト……様……?」

「おう、チレ」

 ハクトは薄汚れた顔でニャッと笑って見せた。それから、キョロキョロと周囲を見渡した。

「ちょうどいい場所に戻ってこられたようだな。目の前にお前がいるなんて」

 ポカンとなったチレに挨拶をする。

「よ。久しぶりだな。まだ生きてたか」

「ハクト様……?」

 信じられなくて、問い返してしまう。

「そうだ、俺だよ」

「本当に? 本当に、ハクト様なのですか?」

「ああそうだ」

「生きていたんですか」

「おかげさまで。ラッキーなことに」

「本物ですか? 幽霊じゃないですか?」

「ばぁかチレ」

 ハクトはチレの両頬をつまんで、むにっと横に広げて見せた。

「本物だ。死んじゃいない」

「……ハクト様」

 ぶわっと涙がこぼれる。滝のような雫がだらだらと流れて、ハクトの指も濡らした。

「死んで……死んでなかったんですね」

 チレが短い手を伸ばす。するとハクトはチレの顔から手を離して抱きしめてきた。

「生きてるよ。死なずにすんだ。大変だったけどな。けど、……ああ、やっとここに、戻ってこられた」

 安堵のため息をもらす相手に、必死に縋りつく。

「ハクト様、本当にハクト様……」

 夢のようで、嘘みたいで、でも自分を抱きしめる腕は本物で、嬉しさに気が遠くなる。

「なんで、なんで、こんな。ずっと、ずっと会いたかったんですよっ。もう一度会いたいって、毎日お祈りして、帰ってきてって、願って……」

「俺も、お前に会いたかったよ」

 五十年ぶりに聞く恋しい人の声に、胸が締めつけられる。息もできないほど心臓がキュウキュウ軋んで、チレは幸せに死にそうになった。

 ハクトがチレの頭の天辺に顔を埋める。そうして感慨深くささやいた。

「……ああ、この匂い。懐かしいな。この世界の匂いだ……」

 口づけるように何度ももふもふするから、くすぐったくて泣きながら笑ってしまう。

「ハクト様…………っ」

 優しい囁きに、チレは相手に縋りついていつまでも泣き続けた。

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