第46話
また同じ声が響いてくる。これはチレ以外には聞こえないようで、ジェルヴェは笑んだままだ。
『ああ、いつ見てもこの者らは気持ち悪い。食欲も失せる』
「……」
チレはジェルヴェの手を握ったまま硬直した。
この声は。ジェルヴェから聞こえてくるのだ。この人の心の声が自分に伝わってきている。
その内容に呆然としながら、どうしてこんなことが急に? と戸惑う。
そのときふいに、身体の奥が熱く疼いた。チリリと粘膜が灼けるような感覚は、先ほどハクトを受け入れた場所の奥、彼の雫が残っているところだ。
もしかして、ハクトがチレの中に体液を放ったから、そのせいで微量の魔力がまたチレに戻ってしまった?
だからジェルヴェの心が読めてしまうのだろうか。
チレはそっとジェルヴェの手を握りこんだ。
「……ジェルヴェ様」
「なんだい?」
『掴むなよ。ミミズみたいな指には悪寒がする』
本心を明かす声にショックを受ける。
「ひとつ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「うん? いいよ」
『何だよ急に』
重なるふたつの声に動揺しつつ、思い切ってたずねてみた。
「ジェルヴェ様はどうして、我々を助けてくださったのですか。自分の命が危険と知りながら、なぜ穴に飛びこんだのですか」
ルルクル人を気色悪いと思うのなら、そんなことはしないはずだ。一縷の望みをかけて問いかける。それにジェルヴェは目を見ひらいて、すぐにゆるく微笑んだ。
「それは、君たちの世界を救いたいと思ったからだよ。三百年前にも伝えただろう」
『そんなわけあるか。私はこの世界が大嫌いだった。本にあるようなネズミの妖怪ばかりいて、人間はひとりもいない。悪夢としか思えなかった。だから絶望して、死ぬために飛びこんだのさ』
「……」
チレの身体が震えた。
『けど、飛びこんだ先の暗黒回廊は悪くなかった。あそこには強い力を持った魔物たちが大勢いて、そいつらを喰らうことで私は巨大な魔力を手に入れた。ここに戻ってきたのは、この世界を破壊して、私だけの国を作るためだ』
ジェルヴェは鷹揚に微笑んでいる。
その美しい笑みからは、もう優しさは微塵も感じられない。笑いの中にあるのは、不気味な影だけだ。
「……もうひとつ、お聞きしても、よろしいですか……」
繋がった手からジェルヴェの考えが流れてくる。それを失うまいと、チレはさらに手に力をこめた。
「ジェルヴェ様は、私のことを、どう思っていらっしゃいますか……?」
ジェルヴェはちょっと首を傾げ、麗しげな笑みのまま答えた。
「もちろん大好きだよ」
『もちろん大嫌いだ。声を聞くのも汚らわしい』
衝撃的な返事に、チレはそっと手を引いた。
「……すみません。あの、えと、お飲み物を見てきます」
後ずさりながら寝室を出ていこうとする。心は混乱の極みで何も考えることができない。
すると、こちらを見ていたジェルヴェがすっくと立ちあがった。
「え? ジェルヴェ様?」
まだ立つのも難しいはずなのに、両足で仁王立ちになる。
「チレ」
今まで聞いたことのない底冷えする声音で呼ばれた。
「私の心を読んだな」
「……」
腰が抜けそうなほどの恐怖に襲われて、その場から動けなくなる。
「やはりな。そうか、お前の中にわずかな魔力が感じられたが、――あいつの命令か」
ジェルヴェの口元が醜く歪む。チレは震えあがった。
「ではすべて本当だったんですね」
「薄汚い間者め」
唇が動いて、声がはっきりと発せられる。心の声がすべて事実とわかって、チレは衝撃を受けた。
「そんな。嘘です……」
チレはわななきながら訴えた。
「嘘だと言ってください。あのお優しいジェルヴェ様が、そんなこと――」
「愚かなネズミが、うるさいわ」
正体を明かしたジェルヴェはもう、優しさを取り繕うことはしなかった。
恐慌に陥ったチレが、震える足で逃げだそうとすると、ジェルヴェが手のひらを翳して、シュルッと魔法で太い縄を繰り出した。縄は蛇のようにチレの身体に巻きついてくる。あっという間に縛りあげられ、身動きが取れなくなった。
「――やっ、なっ、何をッ」
「もう少し奴の動向を探ってから計画を実行しようと思っていたが、お前を使って心を読ませるとは。どうやら奴は私の邪魔をしようとしているらしい」
縄の端を握ったジェルヴェがうすく笑う。その姿から真っ黒な影が立ちのぼる。
「この世界をどうなさるおつもりなんですかっ」
「破壊し尽くす。すべてのネズミは殺し、あの聖女も殺す。そして私は自分だけの城を作り、この世界の覇者となる。しかし、お前だけは生かしておいてやろう。偉業を成し遂げても、観客がいなければ、満足感は得られないであろうからな」
「そんな……」
「おまえは生きた剥製として、未来永劫、この見世物を私のそばで見物するのだ」
「そんなっ」
ジェルヴェは高らかに笑うと、チレを連れて窓から飛び出した。
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