第30話
「……それは、いたか、どうか、よく、わかりません。けど……」
「よくわからない奴はいたんだな」
「……どうなんでしょう」
「そいつはどんな奴だった?」
首を傾げるチレに、ハクトの質問はとまらなかった。
「どんな……と、言われましても……、好きだったのかどうかは、よくわからなくて。どちらかというと、そのお方には、尊敬とか、憧憬とか、そんな感じの気持ちだけだった気もしますが」
「けど、好きなと聞かれて、とっさに頭に浮かんだんだよな」
「そうでございますね……」
じゃあ好きだったのかな。チレの感情が迷子になる。
「そいつは誰だ?」
「……その、お方は、十一代目聖女のジェルヴェ様です」
「聖女?」
ハクトが目を見ひらいた。
「てことはお前、異世界人に恋してたのか」
「恋かどうかわかりません」
チレが眉をよせる。
「へえ……。しかも名前からするに、そいつは外人の男だな」
「ていうか私の話はいいでしょう。ジェルヴェ様にはいい思い出がないんです。もう、過去のことなんですからやめてください」
「なるほど。お前、そいつにフラれたんだな」
口の端を意地悪に持ちあげて笑うので、チレも頬を膨らませた。
「違いますよう、だったらハクト様はどうなんですか? 恋人はいたんですかっ?」
チレが長くなった手を伸ばして、ハクトの胸をポカポカ叩く。それにハクトが声をあげて笑った。
「俺はいねえよ。いたら童貞なもんか」
「じゃあ、好きな人はいたんですか? 片想いした人はいなかったんですか」
「好きだったのは、俺を育ててくれた人だけだよ。その人のことが、ずっと好きだったんだ。あの人だけが、俺の心ん中にいるんだよ」
言われてチレの手がとまった。
「そうなんですか?」
ハクトは笑顔のまま、少し淋しげな様子になってうなずいた。
「うん」
ハクトの手が、チレの両手首を掴む。そして、ゆっくりと自分のほうに引きよせた。
「俺ら、ふたりとも、好きになった人はもういないな」
「…………」
片頬を持ちあげて、悲しげに微笑んだままハクトがチレに顔をよせてくる。チレはどうしてかそれに抗わなかった。
ふたりの間をさわやかな風が通り抜けていく。ハクトの髪と長い睫が揺れるのを、チレはじっと見つめた。
黒い瞳は瞬きもせず、やがて視線をチレの口元に移すと、優しくキスをした。
久しぶりの口づけだった。
ハクトは王都から戻った夜に、もうキスはしないと宣言していた。なのに、一体どうして。
けれどまた彼と触れあえたのは純粋に嬉しかった。
やわらかな唇は、壊れものを包むかのように慎重にチレの唇をたどり、何度か触れたり離れたりした後、ひらくことなく去っていった。
ほんのちょっとの間、ふたりともぼんやりする。お互い口づけに酔ってしまったかのようだ。
「……もう、しないんじゃなかったんですか」
チレは自分の頬が赤くなっているのを自覚した。
「ああ。そうだったな」
ハクトが視線を逸らして答える。
「けど、ヒトになったお前が、無駄に、何かかわいいような気がして」
「無駄に」
意味のわからない理由に、チレの頭がこんがらがる。
「よくわからないですが、けど、また、これからもしてもらえるんでしょうか」
「もらえるんでしょうかとか、何? お前、俺としたいの?」
聞かれて、顔がボッと赤くなった。
したいのか? 自分はもっとハクトとこんなことをしたいのか?
したい気がするが、それを口に出すのは聖徒としてはしたない気がした。
「もちろん、魔力がハクト様にすべて戻れば、そちらのほうが私としても助かりますし。だから、したいんです」
誤魔化すように答えると、ハクトが「チッ」と舌打ちする。
「そういうことかよ」
チレに顔をグイッと近づけて、意地悪く言った。
「だったらもうしてやらねえ」
「えっ」
「義務だけでするのはごめんだ。キスは好きな相手とするほうがいい」
「そ、そんな、あ、――でも、え?」
ならばさっきのキスは?
チレが目を瞬かせて言葉の意味を考えていると、ハクトが目元を赤らめて、いきなり立ちあがった。その拍子にチレがコロンと転がる。
「お前、下着はいてねーの?」
呆れ声で言われて、慌ててローブを引っ張った。
「バカチレ。色気の欠片もねえな」
鼻で笑って、そのまま太陽の下に駆け出した。
「あ、ハクト様」
ハクトが草をかきわけて走っていくと、驚いた虫や小鳥が、彼の周囲から飛び立つ。
残されたチレは、ハクトが大股でジャンプするように走るのを呆気に取られて見つめた。
「……もう。何なんですか」
遠くでハクトがまた、「バカチレー」と叫んでいる。
「どうして私がバカなんですか」
まるで手に負えない腕白小僧のようだ。
「ハクト様ぁー、あまり遠くへいかないでくださいよぉ」
チレが呼びかけると、それを無視してさらに遠くへといってしまう。
「まったく……。子供の様な人ですね」
けれどチレはそんなハクトが嫌いじゃなかった。
破天荒な性格は、今まで見てきたどんな聖女とも違っていて、手はかかるけれど、毎日が意外性にあふれていて楽しく感じる。こんな日々は予想していなかった。
ハクトが遠くで小動物を追いかけている。つかまえられっこないのに、必死になって走っている。本当にやんちゃな少年のようで、チレは思わず笑ってしまった。
明るい陽光が草原を輝かせ、その中で背広姿のハクトが馬鹿馬鹿しくも素手で狩りをしている。
その姿を、チレはいつまでも微笑んで見守った。
ずっと後になって、彼がこの世界を去って、自分だけが残されたとき、チレはよくこの景色を思い出した。
遠い初夏の日。暖かな陽ざしの中で、虫や動物と戯れていた背の高い異世界の人――。
その姿を求めて、召喚神殿の窓から遙かな草原を何度も望む。
かつての楽しかった時間を幻の中に探して、そんなとき、チレは悲しみにくれてひとり涙したものだった。
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