第29話
「まあ、捨てられたってことだな。けど、その男の人は、俺を見捨てたりせずに、一緒に暮らしてくれたんだよ。赤の他人のガキなのに、イヤな顔ひとつせずにさ。……俺、その人のこと、大好きだった」
葉っぱを指先でくるくる撫でて、どこか遠い目で続けた。
「けど、その人、俺が十五歳のときに、病気で死んだんだ。……残された俺は、その人の家に幸いにも住み続けることができたけど、ひとりのままだった。施設にはいきたくなかったし、あの人の残したものを失うのが怖くて、ずっとあの人の思い出の中で生活してた。学校はいったけど、金を稼がなきゃいけなくて、年齢を偽って夜の仕事してた」
夜の仕事ってのはな、と解説をしながら、ハクトは身体を起こして座り直した。
「十八で学校を卒業してからは、手当たり次第に働いて金を稼いだ。まあ頭の回転と要領はいい方だったから、どんな仕事しても上からは認められて、転職しながらスキルも身につけて、二十一歳で今の仕事に就いたんだ」
草原の先に顔を向け、そこに自分のかつての世界があるかのように目を細める。
「俺を育ててくれた人はなあ、俺にいつも言ってたんだ。人ってのは、真面目に働いて、愛する人を得て、そうして人様に後ろ指をさされない生き方をするのが大事なんだって。だから俺はあの人との約束を守ろうと思って、がむしゃらに働いたんだ。きちんと仕事をして、給料を得て、立派な社会人になれば、きっとあの人にもう一度会ったとき、偉かったなあって、褒めてもらえると思ってさ」
チレはハクトが召喚されてきたときのことを思い出した。
この人が異世界に帰ることに、あれほどの執着を見せたのは、好きだった人との約束があったからなのか。
「……すみません」
チレが謝ると、ハクトが目を移してくる。
「なんで謝んの」
「私たちが、ハクト様を召喚してしまったから、大切な人とのお約束を反故にしてしまいました」
「ああ」
ハクトが小さく笑った。
「そうだな。お前らのせいで、俺は大事なものをたくさん失った」
片膝を立てて、その上に腕をおく。
「けど、こうやって、ぼんやりこの世界を見ていると、立派に生きていくってことの意味は、仕事の種類じゃなくて、どんだけ人の役に立ってるかってことなんじゃないかとも思えてくるんだよな」
ふわりとそよ風が吹いて、ハクトの黒髪を揺らす。チレのヒゲも一緒にゆるく波打った。
ハクトは口は悪いが、考え方まで歪んでいるわけではなくて、思考はいつも正しい方向を向いている。聖女に相応しい正義感と博愛精神をちゃんと持っているのだ。
「だったら、ここで人助けして暮らすのも悪くはないかなって、ここ最近、思うようになった。この世界は、日本みたいにあくせくしてなくて、のんびりしてて、まあまあ楽しいしな」
「そうでございますか」
ハクトの前向きな思考に、チレの声が弾む。
「ハクト様は、本当に心が純粋なお方なのですね」
「何、急に」
褒め言葉に肩を揺らして薄く笑う。
「知らない男の方からもらった愛を、きちんと受け取って、それを守り通して生きていこうとされてるのですから」
「……」
ハクトが笑みをたたえたまま、真剣な顔になった。
「そして変わってしまった運命を、前向きに捕らえ直すことで、私たちルルクル人も救おうとなさっている」
チレはそんな姿を眺めながら呟いた。
「ハクト様を育てたその方は、きっとハクト様のことを心から愛していらっしゃったのでしょうね。だからハクト様も真っ直ぐな心根に成長された」
言いながら、自分もその男性に会ってみたかったなあと考える。幼いハクトも見てみたかった。叶わない望みだけど。
「俺、あの人に育てられて、よかったんだ?」
「ええ。もちろんですとも」
確信を持ってうなずく。
「そうか」
ハクトははにかむように笑って空を見あげた。その横顔は何かが吹っ切れたかのように清々しかった。
「あの人のこと、他人に話したのはお前が初めてだ」
「左様でございますか」
「ずっと、自分の抱えていた気持ちに整理がつかなかったからさ」
大切な秘密を明かしてくれたことに、心が温かくなる。
「愛されていたのですね」
ハクトはその男性に。
この人には、実の親からの愛が薄くても、それを補う愛があった。
「羨ましいお話です」
自分にはそういう存在はなかったから。
小さな目をパシパシさせて、太陽の眩しさとそれ以外の感傷に耐えていると、ハクトは片頬をちょっと苦く持ちあげた。
「チレ」
「はい」
急に両手を伸ばしてきて、チレを抱えあげると、自分の膝の上に対面で座らせた。
「ハクト様?」
どうしたのかと不思議がるチレに命じる。
「ヒトになれ」
そう唱えて、しゅるるんとチレを異世界人の姿に変えた。
「え?」
手足が伸びて、ハクトを跨ぐ恰好になる。久しぶりの変化にチレは目を見はった。
「どうされたのですか、急に」
そよ風に栗色の髪が揺れた。そしてむき出しの足が草にこすれてくすぐったい。
「なあ、チレ」
口調を変えたハクトが名を呼んだ。こちらを見つめる瞳に、いつもと違う様子が浮かんでいて、チレはそれに戸惑った。
「お前、今まで長い間生きてきてさ、……恋人とか、いなかったのか」
「え」
いきなり思ってもいない質問をされて、目をパチクリさせた。
「恋人ですか?」
「ああ」
「そんなの、いません」
すぐさま否定する。
「だって、私は聖徒ですよ? 聖女様にお仕えして、誠心誠意お世話をするのが務めです。それが私の存在理由ですから。恋人なんていません。清き童貞です」
「そっか。じゃあ、好きになった相手とかもいなかったのかよ」
「好きになった……」
それにはちょっと口ごもる。
好きになった人、と問われ脳裏をよぎったのはひとりの異世界人だった。それは、かつて自分がお世話をした、男の聖女――。
「いたのか?」
ハクトが再度問う。チレはうっすらと瞳を伏せた。
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