第28話

「楽しいですねえ」

 チレは心からそう言った。木漏れ日がふたりの上に、光の雫となってこぼれ落ちてくる。キラキラ眩しかったり、影の色を濃くしたり。周囲に人影はまったくなく、世界は静かに輝いていた。

「そうだなあ」

 ハクトがパンを頬張りながら呟く。

 お弁当はスモークした肉や野菜を挟んだパンに果物、そしてデザートのプリンと飲み物。どれもハクトの好きなものばかりを弁当袋につめてきた。昼食が終われば、ハクトは草の上にゴロンと転がった。

「あー……、食った食った」

 やっぱりお昼寝するんだな、とチレは苦笑する。けれど今日は気候もよいので、風邪をひくこともないだろう。少し離れた場所では、小さな野生動物が不思議そうにこちらを眺めている。長い耳をヒクヒクさせる可愛い姿を、ふたりで一緒に見物した。

 爽やかな風が吹き抜ける午後は、天国にいるようだ。もちろん本物の天国にいったことはないけれど。

「なあ、チレ」

 肘枕をしたハクトが、ぽつりとこぼす。

「はい」

 ヒゲをそよそよさせながら、チレが返事をした。

「お前、過去に世話した聖女とも、こんな風にピクニックにでかけたの?」

「……そうでございますね」

 チレは昔を思い出すようにして首を傾げた。

「聖女様が退屈されないように、草原でピクニックというものをしたことは、前にもありました。けれど、こんな遠くまできたのは始めてですよ。ドラゴンにされてたくさん飛行させられたのも」

 クスリと笑いながら答える。

「聖女様にも色々な方がいらっしゃいましたからね。海岸での海水浴を好まれた方も、街まで出かけて買い物を楽しまれた方もいらっしゃいましたねえ……」

「ふぅん」

 ハクトがチレを見あげながらうなずいた。小さな紫色の虫が、彼の腕をよちよち登っている。ハクトはそれに気づいて、そっとつまむと草の上に戻してやった。

「お前はさあ」

 虫が草の中に消えるのを見ながら聞いてくる。 

「なんで聖徒になったん?」

「え」

「自分からなったの? それとも選ばれて?」

 どうしてそんなことを聞かれるのかわからなかったチレは、ちょっとの間、戸惑って彼を見返した。

 ハクトがこちらを見つめてくる。その瞳にはわずかに愁いの影があって、つられてチレも、わけもなく切なくなった。

「……選ばれて、でございます」

 チレは瞳を伏せがちにして答えた。

「お前の家族は、反対しなかったの?」

「ええ」

 微笑みつつうなずく。遠い昔を思い起こしながら。

「私の生家はとても貧しくて、八番目の子供だった私は五歳のときに神殿に奉公に出させられました。その後、見習いを経て十六歳で正式に神官となったのです。二代目の世話役が不慮の事故で死んだとき、神官の中から私が三代目に選ばれました。理由は、私の両親が反対しなかったからだと聞いています」

「へえ」

「聖徒になりたがる信徒は、そうそういませんから。それに私が聖徒になれば、両親には幾ばくかのお金が渡されますし。そんなわけで私も進んで聖徒になりました」

「聖徒になりたがる奴はいないんだ?」

「まあ、そうですね。歳を止められるというのは、ある意味、つらいことですから。周囲の者は歳を重ねて死んでいくのに、自分だけ取り残されるのです。一緒に老いていけないのは、生命のことわりから外れた疎外感が大きいですよ」

「そんなもんなのか」

「特に両親や兄弟に残されていくのは、とても淋しかったですね……」

「ふぅん」

 ハクトはゴロンと転がって腹ばいになった。

「そっか。まぁ、そうだろうな」

相手の頭がチレの横にくる。黒髪に、小花の花びらが幾つかくっついていた。薄黄色の花びらは小さな髪飾りのようだ。

「……ハクト様は」

 きれいな顔を見おろしながら、以前から知りたかったことをたずねてみる。

「異世界で、どんな暮らしをされていたのですか」

 向こうの世界のことを思い出させれば、また機嫌が悪くなるかも知れない。でも、チレはハクトのことをもっと知りたかった。

「俺の?」

 それにハクトが唇を尖らせる。――あ、やっぱり聞かなければよかったかな、と後悔したけれど、黒い瞳は穏やかなままだ。

 組んだ腕に顎をのせて、「うーん」と考える顔をした後、ハクトは話し始めた。

「俺の暮らしなんて、別に、どうってことないもんだけどな。でも、普通の奴とは違って、大変なことも多かったな」

「そうでございますか」

「苦労もしたかな。俺の両親は、俺が二歳の時に離婚して、俺は母親に育てられてたんだよ」

 草の葉をもてあそびながら、どうでもいいような、かるい口調で説明する。

「でもって、四歳のときに、知らない男の人の家に引っ越して、そこで三人で暮らし始めた。男の人は優しくて、俺はすぐに懐いたけど、その後しばらくして、何でか知らんけど母親のほうが出てって戻ってこなくなった」

「…………」

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