奇跡
第14話
その後のことはよく覚えていない。
気がつけば、チレは神殿のベッドに横たわっていた。脇腹はまだズキズキと痛んだが、どうやら一命は取りとめたようだ。
「やっと目覚めたか」
話しかけられて目玉だけ動かせば、枕元に神官長とハクトがいた。
「どうだ? 具合は?」
老神官長は、少しホッとした声でたずねてきた。
「……はい。まだ痛いですが」
「そうか。儂の力ではそれが限界だ。まあ、助かったのだから文句は言うな」
「いいえ。……その、ありがとうございます」
「うむ」
普段は恐い神官長だが、今日はいつになく優しさが感じられた。
「ゆっくり休みなさい。そなたは結果を出したのだからな」
「……」
「よくやった」
神官長の隣では、ハクトが疲れた顔でこちらを見おろしていた。
「……ハクト様」
ハクトが枕元にある椅子に腰かける。
「助かってよかった」
いつもの不遜な様子は影をひそめ、声は少し頼りなげだった。
「すいません。ご迷惑をおかけしてしまって」
「初陣なのに油断した。俺のヘマだ」
ハクトはチレの頭をそっと撫でた。
「傷が深くて、助かったのは奇跡だそうだ。完治までは長くかかるらしい。まあそれまで十分に休んでろ。魔物退治は俺だけでいくわ」
「大丈夫ですか?」
「ああ。対策は練る。二度とあんなヘマはしない」
「ハクト様……」
魔物退治に積極的になってくれていることに感激する。
「帰る方法が見つかるまでの暇つぶしだ。本気で戦ってやる」
「暇つぶしに本気になるのですか」
ちょっと笑ってしまった。
「ゲームってのはそういうもんだ」
ハクトも口元をあげて笑う。その姿がとても素敵で新鮮で、チレはつい見とれてしまった。
「どした?」
チレの視線に気づいたハクトがたずねる。
「いいえ。何でもありません」
「そか。まあ、ゆっくり寝てな」
ハクトは被毛をかるく掻いてから、ベッドから離れていった。
残されたチレは、傷のせいではない熱を胸に感じて、少し戸惑ってしまった。
この気持ちは何なのだろう。経験したことのない感情が身体に満ちている。温かくて嬉しくて、そしてちょっぴり切ない。
こんな感覚は生まれて始めてだった。
翌日、やってきた神官長はチレの傷をみて驚いた。
「なんじゃこれは」
「どうかしたんですか」
「傷が、ほとんど塞がっておる」
「え」
チレも繃帯を解かれた自分の腹に目をやった。
「あり得んことだ。こんなに早く治るのは」
「そうなのですか」
神官長は傷口をさわさわと撫でて、呆気にとられた。
「痛みはどうだ?」
「もうまったくありません」
「たった一日で? まさか」
疑いの目で傷口を何度も確認し、チレの体温や脈拍を測る。
「気分はどうなのじゃ」
「すごくいいです。何か、力が漲るというか」
「……何という」
神官長は目を丸くして呟いた。
「こんなことは初めてじゃ。これは儂の力ではない。もしかして聖女様が何かそなたにしてくださったのか」
「ハクト様は私を治療しようとして失敗されました」
「失敗?」
チレは戦場でのハクトの治療について話した。
「そうか。では一体どういうことなのか……。これは儂にもよくわからん」
神官長も首を捻る。チレにも理由はわからなかった。
「まあ、何らかの奇跡が起きたことは間違いない。まずは気を抜かず、しっかり養生せよ」
「はい。わかりました」
そして次の日、チレは完治した。
傷口はきれいに消えてなくなり、ベッドからおりてスタスタと歩き回っても、飛びあがっても全然平気になった。むしろもっと動いて走って大声で叫び出したいくらいに元気だ。
「……これはまた」
神官長は驚き、言葉もなくチレを見つめた。他の神官もビックリしている。
「奇跡じゃ」
「信じられません……」
目を剥く彼らに、しかしチレは何となく気づいていた。この回復力の速さは、やはりハクトのおかげではないのかと。
魔物に腹を切り裂かれて大急ぎで神殿まで飛んで戻ったあのとき、彼はずっと傷口を手のひらで押さえて祈ってくれた。『どうか助かりますように、死にませんように』と。その願いが魔力となって自分に注ぎこまれてくるのを、チレは朦朧とした意識の中で感じ取っていたのだ。
きっと彼の強い思いが死を撃退して、チレの命を守ってくれたのだろう。この回復力は、ハクトから与えられたものだ。それ以外の理由は考えつかない。
あの人はとても口が悪くて威張っているけど、心の奥にはちゃんと正義感がある。彼は本物の聖女だ。
そう考えると、チレの中から不思議な力がわいてきた。それは今まで体験したことのない、血が沸き立つような、地の果てまで飛んでいきたいような、心が奮える感覚だった。
ただの感謝ではなく、尊敬でもなく――これは、もしかして……。
心臓がドキドキと脈打って気持ちを急かせる。
――もしかして、これは……。
チレは胸を押さえた。
「何なんだろう」
十九歳で世話役に任命されて三百年。聖女相手にこんな気持ちになったのは初めてだ。
意地悪だけど恰好いい、異世界の男の人。彼のことを考えると、どうしてか被毛の下の地肌が熱くなる。
「きっと精気を分けてもらったせいだ」
チレは単純にそう結論づけた。
しかし、身体の中にはもっと大きな、不思議な秘密が潜んでいたのだった。
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