第2話

 ――混乱していらっしゃる。

 チレはそう感じた。しかしそれも致し方ないことだ。

 今まで召喚の祈りによってこの世界に降臨した聖女は一様に、自分に起こった出来事にまず動揺した。ある日突然、見知らぬ世界に強制的に移動させられたのなら誰だって恐慌状態に陥ってあたり前だ。

 そしてこの聖女もその例にもれず、非常に困惑しているようだった。

 神官は最後に、一枚の木の板を差し出した。そこにはこう書かれている。

『心の中で、我々と言葉が通じるように、強く念じてください。それでお話ができるようになります』

 おずおずと示された文章に、男は眉をひそめた。疑うような視線を神官らに向けて、いきなり両手を伸ばすと、なぜかひとりの神官の顔をむんずと掴んだ。

「えええっ、いてててててっ」

 神官が叫ぶ。周囲の者らが驚いた声をあげる。

「ひえええっ」

「な、何をいきなり」

「‰¢%、Å#ー⚠£☆⁉ 仝○〒〃、Ω‡※◇☆⁉」

 聖女は大声で怒鳴って、神官の顔を上に引っ張りあげた。はずみで神官の身体がぶんぶん揺れる。動揺した周囲がぴぃぴぃぎゃあぎゃあ騒ぎ出す。

 首がもげるほど引っ張られた神官が泣き出して、それでやっと聖女は彼を解放した。パッと投げ捨てられた神官が床をゴロゴロと転がっていく。近くにいた神官がそれを助け起こした。

 聖女は憤懣やるかたないといった様相で周囲を睨め回した。神官らがそれに怖じ気づきながらも震える手でもう一度『心の中で~』と書かれた木の板を聖女の前に掲げる。男の聖女はそれを確認し、怒りを湛えた表情で静かに目をとじた。

「££㏄…!」

 明らかに悪態と思える台詞をもらして嘆息する。そしてうんざりした顔で、こうささやいた。

「まじ意味わかんね」

 先刻とは違う言葉の響きに、一同が感嘆の声をあげた。

「おおおおっ。我らの言葉だ」

「無事通じましたっ」

「よかったっ、よかったぁっ」

 神官らが手を取って喜ぶ。万歳して涙ぐむ者もいた。ホールが歓喜の嵐に包まれる。

 その喧噪の中から、おずおずと神官長が前に進み出て、上目で聖女に問いかけた。

「あの……、よろしいでしょうか?」

「は?」

 聖女は整った顔を怒りにゆがめて答えた。

「何だよお前らは? これは何の冗談だ。ふざけんなよっ」

 いきなり立ちあがり、神官長に食ってかかる。

「ここは一体どこだよ。なんで俺はここにいる? 急いでんだ俺はっ。早く元の場所に戻してくれ」

 そう言うと、服の内側から薄い鋼の板を取り出した。手のひらほどの大きさの滑らかな板だ。それを指先で叩いて呟く。

「まずい、遅刻する」

 そして周囲を見渡した。

「出口はどこだ」

 召喚聖殿の入り口扉を見つけて、「あれか」とそちらに歩き出した。

「お待ちください。あなた様はもう、元の世界に戻ることはできません」

「はぁっ?」

 聖女が振り返った。

「召喚されたのです。我らの魔術によって。ですから、もうニホンには帰れません」

 聖女が胡散臭いものを見る目つきになる。周囲を睨め回し、壁や柱、天井などをしげしげと眺めて、口元を笑いの形にして言った。

「ユーチューバー?」

「はい?」

「何か、俺のこと、騙そうとしてる? テレビの撮影とか?」

「え? は、はい?」

「素人ハメて、オモシロ画像とか撮ろうとしてる? いやそんなん乗ってやるヒマはねえし。早く出社しないとまずいんだよこっちは。他の奴でやって。お願い」

「何のことでしょうか……」

「くそ、時間がない。今日は朝イチで会議入ってるし、その後はクライアントのとこいかなきゃなんねーんだ。駅どっちよ」

「ですから、ここから戻ることはできません」

「は。ふざけんでくれる?」

 聖女はつかつかと両びらきの扉まで歩いていくと、乱暴に押してひらいた。すると、外の風がふんわりと流れこんでくる。その先に見えるのは、花の咲く中庭と、石塀と、遠くに広がる果てしない海だ。

「…………」

 空は晴れ渡り、数羽の鳥が優雅に飛翔している。

「どゆこと?」

 聖女が呟く。そうして、手をこめかみあたりに持っていくと、ゆるく何度か掻いた。

「知らん間に、バーチャル空間に突っこまれた? ……いやいや」

「現実でございます」

 後ろで厳かに神官長が告げる。

「うそやろ」

 美しい男の聖女は呆然と空を見あげた。

「うせや」

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