(5)――「ぎゅって、ハグしても良いかな」
二度寝から起きて、それから、ユカリとたくさん遊んだ。
軟禁前に買ったゲーム類は全て制覇し、特に面白かったものは何度も繰り返して遊び。ゲームに疲れたら、休憩がてら映画やドラマを観る。それはこれまでの五日間となんら変化のない過ごしかただった。
ただひとつ変化があったとすれば、僕の心構えだろうか。
後悔のないように。
記憶に残るように。
そうこうするうち、時間はあっという間に過ぎ去り、時計の針は二十三時半を示していた。
ユカリが消える最後の瞬間まで一緒に過ごしたい。
そう伝えると、ユカリは喜悦と気鬱が入り混じった表情で、そっと窓を開けた。
開け放たれた窓からは、生温い夜風が入ってくる。虫が集まってこないように部屋の電気を消すと、室内は途端に真っ暗闇に包まれた。外の街灯の明かりが、ぼんやりと僕らの姿を照らし出している。
「僕の誕生日を迎えるまでって言ってたけど、それって日付が変わった瞬間にユカリが居なくなるってことなのか?」
二人してベッドにもたれかかり、肩を合わせ。
しばらくの沈黙の後に、僕は今日一日ずっと心の中で燻っていた疑問を、ユカリに投げかけた。
「それはないよ」
僕の不安もよそに、ユカリはけろりと否定する。
「紫鶴の誕生日は、あくまでも目安。零時きっかりに消滅するってことはないから安心して」
「そっか」
僕はそれだけ言って頷いて、ユカリのほうを見た。
「なあに?」
視線に気づいて、ユカリも悪戯っぽい笑みを浮かべながらこちらを向いた。
「今日までありがとう、ユカリ」
彼女の瞳を見据えて、僕は言った。
どんなに言葉を尽くしても、これ以上のことを僕は言えない。心の底からの感謝の気持ちをその言葉に詰め込んだ。消えないでくれ、なんて本音は飲み込んで。
「それはこっちの台詞だよぉ」
ユカリは少しだけ声を震わせながら、そう言った。
暗い室内でも、その僅かに紫がかった瞳は美しく輝いているように見える。
「四歳のキミがわたしの手を取ってくれたあの日から、わたしは呆然とこの世を彷徨う幽霊から、キミを護る守護霊に成れた。そうしてわたしに『ユカリ』という名前をくれた」
彼女の名前を考えた日のことは、僕もはっきりと覚えている。
物心がつく頃には傍に居た彼女を、僕は初め「お姉ちゃん」と呼んでいた。自分の周りに居る大人が「お父さん」や「お母さん」なのだから、それは至極自然な流れだったと思う。それに彼女は僕にしか見えない存在で、二人の間で会話が問題なく成立していたというのも大きい。なにより、本人も当時は気にしていないように見えた。
呼称が変化するきっかけとなったのは、小学校に入学して間もない頃だった。クラスメイトが上級生を名前で呼んでいるところを目撃し、ようやく「お姉ちゃん」にも名前があるはずだと思い至ったのである。
しかし当の本人はと言えば、死んだときの衝撃で生前の名前を忘れており、それなら僕が名前をつけてあげる、と張り切って漢字辞典を開いたのだ。
「紫鶴から『紫』の字を貰って『ユカリ』。わたしの瞳の色が紫がかっているから『ユカリ』」
愛おしそうに、ユカリは言う。
「ありがとう、紫鶴。わたしにとってこの十五年間は、本当に夢のような時間だった」
それからどちらともなく、ぽつぽつと十五年間の思い出を語り合った。
たくさんの思い出が詰まった十五年間。
これらを共有する相手がもうすぐいなくなってしまうなんて。
信じられない。
信じたくない。
ああくそ、と内心毒づく。
絶対に泣かないと決めていたのに。眼球の奥がじんと熱くなって、熱が溢れてしまいそうだ。
「――紫鶴。二十歳の誕生日、おめでとう」
ユカリに温かい声でそう言われ、時計を確認する。
もう日付が変わってしまった。
「ねえ紫鶴」
「なに?」
「ぎゅって、ハグしても良いかな」
「もちろん」
即答し、僕はユカリに向かって腕を広げた。
「えへへ」
照れ笑いしながらも、ユカリは優しく僕を抱き締めた。
相変わらずひんやりとしていて、鼓動も感じられない。けれど、この唯一無二の感触を持つ彼女が、十五年間、僕を護ってきてくれたのだ。安心しないわけがない。
「今まで本当にありがとう、ユカリ」
改めて感謝の言葉を口にして、僕もユカリの背に手を回した。
僕の目にはこんなにはっきりと視えているのに、触れている感覚はほとんど無い。
それでも僕は、大切にユカリを抱き寄せる。
「朝は一人でも、きちんと起きるんだよ」
「うん」
「栄養バランスを考えて、ご飯を食べるんだよ」
「うん」
「夜ふかしし過ぎたら、駄目だからね」
「うん」
「わたしが居なくなっても、元気に生きてね」
「……うん」
最後まで、ユカリは僕の心を見透かしたようなことを言う。
こんなことを言われたら、元気な爺さんを目指すしかないじゃないか。
「紫鶴」
ユカリは小さく息を飲んでから、僕の名前を呼んだ。
そうして、まるで寝かしつけるかのように、優しく僕の背を叩く。
「ばいばい」
それはユカリと過ごしてきた時間で、初めて交わす言葉だった。
またね、と返せないことが、心臓を握り潰されるように、痛くて苦しい。
「ばいばい」
だから僕も、同じ言葉を繰り返すことしかできなかった。
そして。
この会話を合図にしたかのように、ユカリは僕の腕の中から消えていった。
辛うじて掴んでいたユカリの感触がなくなり。
僕の腕は虚空を抱いたあと、重力に従い、力なく落ちた。
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