第7章:未来への決断

 葵は、ゼノンが用意してくれた静寂な瞑想室で目を閉じていた。壁には地球の美しい風景が投影されており、かつての青い惑星の姿を思い起こさせる。


 頭の中では、これまでの経験が走馬灯のように駆け巡っていた。水没した東京、地下都市で暮らす人々、月面基地の不安な日々、南極の変わりゆく景観、北極の融ける永久凍土、縮小するアマゾンの森、そして海上に浮かぶ新しい都市。


 そして、もう一つの未来。プログラムを起動させた世界での、放射線に脅かされる人々の姿。


 どちらの未来も、人類と地球の未来として望ましくない。しかし、どちらの未来でも、人々は懸命に生き、問題解決に取り組んでいた。その姿に、葵は人類の可能性を感じていた。


 「でも、私にできることは……」


 葵は、自分が開発に関わったプログラムのことを考えた。確かに、それは画期的な技術だった。地球の気候システムを人工的にコントロールできる可能性を秘めていた。しかし、同時に大きなリスクも伴う。


 「技術の力だけで、全てを解決しようとしたのが間違いだったのかもしれない」


 葵は、ふと自分の過去を思い出した。10年前の事故のこと。新エネルギー開発の最中に起きた予想外の事態。多くの命が失われ、自分自身も深い心の傷を負った。


 その時の教訓が、今ここで生きている。


 「技術には限界がある。そして、予期せぬ結果をもたらす可能性も常にある」


 葵は深く息を吐いた。そして、ゆっくりと目を開けた。


 「ゼノン、聞こえますか?」


 部屋の隅から、ゼノンの姿が現れた。「ああ、聞こえているよ。何か思いついたのかい?」


 葵はうなずいた。「はい。私の答えは……プログラムを起動しないことです」


 ゼノンは驚いた様子で尋ねた。「そうか。でも、そうすると温暖化は進行してしまうんじゃないのかい?」


 葵は静かに説明を始めた。「はい、その通りです。しかし、プログラムを起動することで生じるリスクの方が大きいと判断しました。地球の気候システムは複雑すぎて、私たちが完全に理解し、コントロールできるものではありません」


 葵は立ち上がり、窓の外の風景を見つめながら続けた。


 「私たちが目指すべきは、技術で全てを解決しようとすることではなく、自然と共生する道を見つけることです。プログラムを起動しない代わりに、私は次のことを提案します」


 葵は指を折りながら説明した。


 「1. 国際的な協力体制の強化:気候変動問題に対して、全ての国が一丸となって取り組む体制を作ります。これには、技術の共有、資金援助、人材交流などが含まれます」


 「2. 再生可能エネルギーへの全面的シフト:化石燃料の使用を段階的に廃止し、太陽光、風力、地熱などのクリーンエネルギーへの移行を加速させます」


 「3. 森林再生と生態系の保護:大規模な植林活動を行い、失われた森林を取り戻すとともに、既存の生態系を保護します」


 「4. サーキュラーエコノミーの推進:廃棄物を最小限に抑え、資源の再利用を最大化する経済システムを構築します」


 「5. 教育と啓蒙活動の強化:環境問題の重要性を世界中の人々に理解してもらい、一人一人が行動を変えるきっかけを作ります」


 「6. 適応策の開発:気候変動の影響に適応するための技術や戦略を開発します。例えば、耐熱性の高い作物の開発や、海面上昇に対応した都市計画などです」


 「7. 炭素回収技術の改善:大気中のCO2を直接除去する技術の研究開発を進めます。ただし、これは補助的な手段として位置付けます」


 葵は一息つき、ゼノンの反応を窺った。


 ゼノンは思慮深い葵の提案に耳を傾けていた。「なるほど。技術だけに頼るのではなく、社会システム全体を変革しようというわけだね。でも、それで間に合うのかい? 気候変動の進行は待ってくれないよ」


 葵は真剣な表情で答えた。「はい、時間との戦いになることは承知しています。しかし、私が見てきた未来では、人々は困難な状況でも諦めずに生き抜く力を持っていました。その適応力と創造性を信じています」


 葵は続けた。「それに、私たちの時代にこの選択をすることで、未来の人々により多くの選択肢と可能性を残すことができます。プログラムを起動してしまえば、その結果は不可逆的なものになりかねません」


 ゼノンはしばらく考え込んでいたが、やがてゆっくりとうなずいた。「わかった。君の決断を尊重しよう。でも、これは簡単な道のりにはならないぞ」


 葵は決意を込めて答えた。「はい、わかっています。でも、私はこれが正しい選択だと信じています」


 ゼノンは葵の肩に手を置いた。「よし、じゃあ君を過去に戻す準備をしよう。ただし、一つ条件がある」


 葵は疑問に思いながら尋ねた。「条件ですか?」


 ゼノンは真剣な表情で説明した。「君が過去に戻っても、この未来での経験の詳細な記憶は失われる。ただし、決断の核心部分と、その理由についての漠然とした感覚は残る。これは時間の整合性を保つためだ」


 葵は少し戸惑ったが、すぐに納得した。「わかりました。それで構いません」


 ゼノンは装置の準備を始めながら、最後のアドバイスを送った。「君の決断は正しいと信じているよ。でも、忘れないでほしい。未来は常に不確実で、予期せぬ事態が起こりうる。柔軟に対応し、必要なら軌道修正する勇気を持ち続けてほしい」


 葵はうなずいた。「はい、肝に銘じます。この経験を無駄にしないよう、全力を尽くします」


 準備が整い、葵は過去への旅立ちの時を迎えた。ゼノンとの最後の別れの際、葵は感謝の言葉を述べた。


 「ゼノンさん、この機会を与えてくれてありがとうございました。人類の未来のために、最善を尽くします」


 ゼノンは優しく微笑んだ。「君なら大丈夫だ。人類の未来を信じているよ」


 光に包まれる中、葵の意識は徐々に2050年へと引き戻されていった。

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