最終章「恙(ツツガ)なき旅へ」02

   02


 数日後の、喫茶店カガリ。

 仕立て妖精であるマスターが修復したその店内から、ツツガは窓の外を見上げていた。

 晴れ渡る青い空には、白い雲がいくつかあって、風がさらに向こうから積雲を運んでくる。

 マスターが紅茶を運んでくると、ツツガは彼に言う。

 クリスタル・キングダムの言葉だ。

 ──良い天気ですね。

 ──これから小雨ですよ。

 ──クリスタル・キングダムはいつも眩しいですから。

 ──ああ。

 マスターはカップを置き、一礼する。

 ──ケガチが新たに女王のリリカル・クロスを仕立てるのに、こちら側の世界で一ヶ月半……ですか。長いのか短いのかわかりませんが、この天気というものに目を回していては、一瞬でしょう。

 ──陛下の命です。王姉(おうし)様には、女王の氏名の日まで、ここで御辛抱をしていただきます。

 ──思えば、昔から譲らない姉と妹でした。この様な別れになったのは、当然の報いかもしれません……。

 ──そういう言い方は自分の心を荒ませますよ。

 ──女王の忠犬たるスロゥ・バンは、始めからケガチの命令で私を見張っていたのでしょう。賢者殿も始めからこのつもりで……しかし、それに気づかない私も私です。適性試験で女王候補になったとき、これから生まれてくる妹のためにこの身を捧げるものだと思っていました。それが妹によって解かれてしまったことに、思うことはありました。ですが……。

 カップを持ち上げようとしたツツガの手が震えた。

 ──ですが、やはり妹を失うのは、何よりもつらい……。

 ぽつり、ぽつり……、街ににわか雨が降り始めた。


   ◆


 その日は休日だ。

 だけど、予報では雨が断続的に降るんでしょ、と純麗は思う。

 だから、家を出るのが億劫だと感じて一日中部屋でごろごろすることにした。もともと趣味なんてないし、学業に意欲的というわけでもない。そういう意味では、天気予報は自分に対する言い訳のようなものだった。

 新しい家の、新しい部屋。まだ新しい香りの残るベッド。

 やっぱり家には誰もいない。

「……はぁ……はぁ……ふぅ──」

 仰向けの純麗は熱い吐息を繰り返す。

 誰かの顔を想像したり、好きなシチュエーションを空想することはしない。目を閉じて、気分の赴くまま手を伸ばし、特に中指の先を使う。

 下着越しだ。直接触れるのはなんとなく気持ち悪い。

 尻の下から脳天まで走る衝撃が来る。

 全身がのけぞって息が止まるあの瞬間だ。

 ──それから深呼吸して、呼吸が落ち着くと、下半身から手を離した。

 またやってしまったなと、ぼうっとした頭で思っていた。

「……あーあ……朝したばっかりなのに……」

 これから軽く昼寝して、おやつでも食べるのだろう。

 で、夕方前にして、夕食を食べて、寝る前にもう一度。

 休日はいつもこれだ。

 これをしている最中と直後は火照って頭がぼうっとするから、嫌なことを考えなくて済む。もちろん、だんだん回復してくると不安感は戻ってくるので、一時しのぎでしかないことは自分でも承知していた。

 純麗は目を閉じる。

 昼寝だ。小一時間だろう。その間に下着は乾く。考えてみたら朝の分の体液もそのままだが、何年もやっている習慣なので気にしていない。「洗濯すればきれいになるんじゃない?」くらいの感覚だ。

 いつもなら、この何のやる気も出ないぐったりした感覚の中で眠りにつく。

 しかし、目が冴えていた。

「……寝れない……」

 頭から、クリスタル・キングダムのことが離れない。

 ケガチとクリーネは向こう側に帰った。

 代わりに姉のツツガがこちら側に閉じ込められている。

「……一ヶ月半。そしたら、喫茶店カガリもなくなる……」

 それはまるで、自分の思い出のぜんぶが無くなってしまうようだ。

 あのマンションだってそうだ。ぽっかり空いた穴。最近は解体工事のために足場が組まれている。あんな家でも自分の家だったが、その〝だった場所〟すら跡形もなく消えようとしている。

 育った場所が、もう、何も残らない。

 それを思うと切なくなる。

「ねぇ、ゾウリムシ……ゾウリムシさぁ……」

 純麗はベッドの上で丸まって、語りかける。

 頭の中にいる誰かだ。最初はクリーネだったが、それはいつの間にかアリスの顔に変わり、未夢の顔にも変わる。誰でもいいと純麗は続ける。

「失ってから気づくなんて……月並みかもしれないけど……どんな嫌な記憶だって、それはあたしだけのものなんだよ……自分に寄り添ってきた思い出なんだよ……」

 あたしという人間は、このコンプレックスに肉付けして形成されたものなんだよ。

 それがやっとわかってきたんだ。

「……笑っちゃうでしょ……あたし、やっぱり情けない人間なんだ……」

 言いながら、一筋の涙を流していた。

 いままでの自分なら、そのままふて寝でもしただろう。

 だが、今、純麗には、涙を蒸発させてしまうほど熱い感情も滾っている。

「……でも、そう、怒ってる……あたし、怒ってるよ……このままじゃ終わらせたくないんだ……」

 体は重い。起き上がりたくない。だけど、いま立たないと一生後悔する予感がある。だから、純麗は目の前のシーツを握りしめる。

 これだ。これなんだ。やっと気づいたんだ。

 この怒り。こんなあたしにだって、何かが許せない、捨て置けないって思える激情がある。そうだ。これがあたしの芯なんだ。

 ──あたし、怒ったっていいんだっ!

 ふざけやがって、勝手に人の人生に関わっておいて、用が済んだらさよならか? そんなの認められるか、やってやる、やってやるぞ。

 クリーネがそうしたように、ケガチがそうしたように、この想いは一歩踏み出す勇気をくれる。

 純麗はベッドから降りて、外着に着替える。

 部屋を出て、あの場所に向かう。


   ◆


 一応は解決なんじゃないかなって、アリスは思うんだ。

 なんか、自分が結晶化してる内にいろいろあったみたいだけど、最終的にはケガチさんが復権するんでしょ? あとは彼女が女王の務めを果たせば世界の融合は押さえられる。万事解決じゃん。

 ……まぁ、聞いちゃったけどさ。

 女王の真実。姉、ツツガの目的もさ。

 アリスたちが巻き込まれたのは、言ってしまえば自己犠牲の押し付け合いだったんだ。互いに相手を思うからこそ、相手に悲しい思い出を送りつけなければならなかったんだ。

 こんな台詞は不謹慎だけど、ちょっと尊敬してしまう。

 それほど我が身を犠牲にできる人間が、この世界にどれだけいるだろう。

 アリスのような劣等感に呪われた人間には自己犠牲は難しい。

 自己犠牲の精神とは「無償の愛」と表現されるよう、誰かを思いやれる心の余裕があるから為せるのであり、それを育まれた人間にしかありえない。もしくは〝大義〟によるものだろう。個人の感情を捨てされるほどの確信があるから、信念を貫き通すことができる。

 アリスは餓えている。

 金にも、物にも、性にも餓えている。

 あまりにも俗物的なんだ。

 ああ、生え際の黒が目立ち始めた。うちの学校、髪型に関してはゆるいけど、流石にエクステは禁止だからなぁ。金髪にしてもすぐプリンになっちゃう。このまま夏休みが明ければちょうどいい感じになるのかな。

 ──なんてさ。ほら、こんな時にそんなこと考えてる。

 きっと習慣なんだ。色水につけた花がその色を変えてしまうように、アリスという人間は俗物的な土壌に芽吹いた雑草なんだ。

 李斯感鼠(りしねずみにかんず)……曰く、便所の鼠は天敵に怯えながら汚物を食って暮らし、倉庫の鼠は天敵から守られた環境で食べ物にも苦労しない、の例え。

 幸福とは当人の努力とは関係のない因果関係にあるのだろう。環境こそが人生を作るのだ。

 アリスは身の回りの環境を変えなければならない。アリスは未来の為なら、この腐った過去だって捨てられる。

 そう。駑馬十駕だ。

 逃げない、休まない、諦めない。

 走り続けてやる。

 私は有村薫なんて人間ではないから。

 だから、あの場所に向かう。


   ◆


 未夢は暗くした自室にいた。

 カーテンで日光をシャットアウトし、正座でスマートフォンの小さな画面を見つめていた。聞こえるのは有線のヘッドホンから流れてくる音楽と台詞のみだ。

 小さなテーブルの上にはエナジードリンクとポップコーン。

 朝9時からこうすると予定を立てていた。

(……『風と共に去りぬ』。1939年にアメリカで公開された不朽の名作……)

 南北戦争という〝風〟と共に、〝去りゆく〟貴族文化社会。その激動の中で強く生きる女性、スカーレット・オハラの波乱の人生を描いた作品だ。

『──戦争だぁ! やった、戦争が始まるぞ! フォオオゥッ!』

『──手柄を立てるんだぁ!』

 これは映画の序盤、南北戦争が始まる直前の男たちの台詞だ。

 当時の社会背景を示唆するよう、彼らは戦争を避ける者を臆病者と罵り、敵は腑抜けであると高を括る。開戦の知らせはまるで楽しいお祭り騒ぎ(カーニバル)のようだ。

 しかし、いざ戦いが始まると、彼らは現実に心を疲弊させる。

 病院代わりの教会に担ぎ込まれた兵士は看護師に泣すがり、医者が壊死した脚を切断すると言えば「殺してくれ」と泣き叫ぶのだ。

『──痛み止めをくれ! 痛みがたまらないよぉ!』

『──脚を切らないでくれ! 頼む! 人殺しぃっ……』

 悲惨ながら、醜悪にも感じられる。

(……だけど、現実の人間ってこんなものだろうなぁ……)

 悲惨さを伝える表現や現実の資料を、「不適切な表現」だとか「誤った歴史認識」と覆い隠すから、実態を想像できない世代が生まれてしまう。そして、嬉々として滅亡に向かい、先人と同じ絶望を味わうのだ。

 過ちを再確認した者は、それを後世に伝えようとするだろう。しかし、平和ボケの時代が再び到来し、現実の悲痛さから目も耳も塞いでしまうから、過ちを想像できない世代がまた生まれるのだ。

 約三時間半の長い物語が終わり、エンディングの音楽を聞きながら、未夢は思う。

(……このままじゃいけないんだ……)

 次元の融合、クリスタル・キングダム、女王とクーデター。

 あまりにも壮大で、自分には関わりのなかった物語。

 だけど、純麗ちゃんはそれに巻き込まれてしまった。

 アリスちゃんは立ち向かってしまった。

 私は……。

 そうだ。終わりじゃないんだ。本当の戦争は、戦いが終わった後にこそ始まる。長い長い戦いだ。平和や平穏を守り続けることに終わりはないんだ。

 私、立ち向かう勇気なんてないよ。

 私、とっても弱い人間なんだもん。

(……でも私、このまま純麗ちゃんを放っておけるほど強くないんだっ……)

 だから、私の心の中のヒーロー。もう一度だけ、私に勇気を貸して。

 未夢はあの場所へ向かう。

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