第三章「ブロンドガールの駑馬十駕(どばじゅうが)」01

   01


 私はアリス。

 有村薫という名前は嫌いだ。

 まぁ、戸籍上はそうだし、テストの答案用紙にもその名前を記入するけれど、誰かにその名前で呼ばれるのは避けたいと思っている。

 父から受け取った「有村」という性も、「香(か)」の字を持つ母から由来した「薫(かおる)」という名も好きになれない。これは私という存在のアイデンティティに刻まれたタトゥーであり、改名してもその痕が消えるわけではないが、それでもその名前で呼ばれたくなかった。

 父は酒浸りのクズだった。

 だったと過去形なのは、いまは病院で寝たきりで、酒なんて飲めない状態だから。

 四、五年前までは、毎月の中頃、いま思えば給料日直前になると、両親が夜遅くまで喧嘩するのが恒例だった。

 家賃の催促が来たと母が報告すると、父は「俺が悪いのか」と怒鳴り始め、同じくらい稼いでみろと酔った調子で取り合おうとせず、そしたら母もヒステリーを起こす。

 そういうとき、アリスは暗くなった部屋で寝たふりをする。ガタンッ──と何かが投げられる音が怖かったし、翌朝になると母の顔に傷ができてるから、何が起きているのかは想像できた。

 別に母を可哀想とは思わなかった。ただ、どうしてあんなやつと結婚したのって思ってた。

 ねぇ、あんたら、どうしてアリスを生んだの?

 アリスが生まれるから結婚するしかなくなったの?

 だったら、何で抱きあったの? あなた、なんでそんな男に抱かれたの? どうせ何も考えてなかったんでしょ。

 なにかにつけていつもアリスのせいにするけれどさ、お金のこととか、家のことが大変だってアピールだとかするけれど、そもそも自分が慎重に生きていれば回避できた事象じゃないの。

 だから、あなたの娘は惨めな思いをするんだよ。

 アリスはね、あんたみたいになりたくない。

 アリスはね、ここから抜け出してやんの。

 金にも容姿にも優れた男と結婚して、自分の子供にはこんな惨めな思いはさせないんだ。そのために、アリスはいい女にならなきゃいけない。誰よりも優れた、誰よりも好かれる人間にならなきゃいけないんだ。

 駑馬十駕……曰く、どれほど足の遅い馬でも、十日も走れば駿馬と同じ距離を走れるの例え。

 これは中国の故事だ。いつだか聞いたこの言葉が頭に響いている。

 駄馬と駄馬の間に生まれたアリスは、遺伝子的にはあまりにも劣った存在だ。けれど、誰よりも休まずに走り続ければ、きっと駿馬と同じ距離を走れる。

 だから、アリスは走り続ける。

 私は、決して有村薫などという、惨めな人間じゃないんだ。


   ◆


 ある女が泣いていた。

 ロッカーに向かってだ。

「──こんな図体してるからさぁ、どこに行っても大人びてみせろって言われてる気がしてっ……」

 わざわざ聞き耳を立てていたわけではないけれど、あんな風に叫んでいれば嫌でも聞こえる。

 アリスの嫌いな女だ。

 本人は自覚がないようだけど、はっきり言って恵まれている。

 顔はいいし、背は異様に高いが、スタイルがよくてバランスの取れた体型をしている。頭だって悪くない。苦手な科目とか特にないみたいだし、運動神経も男子以上。ほぼ毎日作ってくる弁当の中身や、たまに買ってくる惣菜パンを見るに、普通より裕福な家庭に育っている。アリスの持っていないものすべてを生まれながらに持っている。

 正直、誰かに嫉妬するなんて珍しくない育ちだから、冷静にその感情を受け止めることができた。そう。アリスはあいつに嫉妬しているんだ。

 ──黒木純麗って女に嫉妬している。

 口が悪くて、態度が太くて、粗野で大食いな女。

 でも、聞いてしまったんだ。

「……もう、16歳になっちゃったじゃん……どうしてくれんだよっ……」

 聞いたこともない情けない声でうずくまっていた。

 ああ、そっか。あれはぜんぶ虚勢だったんだ。

 あの態度も、ぶっきらぼうな様子も、アリスに突っかかる様子も、あれはぜんぶ、彼女の内面の弱さの裏返しでしかないんだ。

 中身はあんなに脆いんだ。

 開きっぱなしのロッカーの奥に見える白いモコモコの小動物。

 なにがなんだかわからない。

 とにかく、最終下校を知らせるチャイムが鳴っていた。

 部活を終えた生徒たちが校門に向かっている。

「……とりあえず、外、出よっか……」

 アリスはその大きな子供の手を取って、階段を降りたんだ。


 ──で、近くの公園で信じられない話を聞いた。

 クリスタル・キングダムと、女王のケガチ。

 リリカル・クロスという魔法の布。

 目の前にこんなモコモコちゃんがいたら、信じるしかないのだろう。

 それにこの純麗だ。

 クロスの影響で心が壊れてしまったらしい。

 こんな落ち込んだ様子を見てしまったらもう疑う方が無理だ。

「──けど、アリスはその……結晶化? ってのしてたから自覚ないんだけど、どうして火事の中で動けないのに助かったの? なんか、気づいたら未夢と一緒に駐車場にいたんだけど……」

「ケガチ様が助けてくれたの!」

 モコモコちゃんはそう説明する。

 実は、その女王ケガチという人は、商店街で暴れている巨大なイソギンチャクを感知した時、それはアンダによる揺動なのではないかと先に見抜いていたらしい。だから、純麗のマンションが燃やされる前に、住人を避難させていたのだ。

 それで、戦いの場に現れなかった。

「よくわかったもんね、そのケガチさんって人は……」

「きっと、お側に賢者様がついてるからなの。賢者様は未来を予見することができるの。ケガチ様、謝ってたの……純麗のことを助けられなかったって……本当は、僕たちは他の世界に大きい影響を及ぼしちゃいけないの……」

「そうね……」

 他世界からの影響を個人で受けてしまったのが黒木純麗だ。

 ベンチの隣にいるその表情は、一週間前とはまるで別人になってしまった。あのレジで平気で一万円札を出した時のぶっきらぼうさがなくなって、まるで幽霊のように生気を失っている。

 伏した目、八の字に寄せた怯えた眉、恐れと自我の喪失。

「ケガチさんが受け取ってくれる日が来るまで、その《女王のリリカル・クロス》を守らないといけないんだ……なんでそうなるかよくわかんないけど……」

「女王の務めを果たすためなの。女王のリリックは、時空の融合を防ぐ力を持ってるの」

「んっ? それは初耳……」

「僕たちがこっち側に来れるのは、こことクリスタル・キングダムの時空がとても近い位置にあるからなの。でも、これ、放っておくと完全にくっついちゃうの!」

「……えっ?」

 なんか、ぞわりと悪寒がした。

 さっき聞いた説明によると、《結晶化》という現象は時空の融合によって起こるらしい。例えば、向こう側の力であるはずのリリックをこっち側の世界で使ったときに発生する。

 けど、聞いた感じ、それだけが原因ではない。

「そもそも時空の融合って自然現象なの! 今、僕たちの世界とこっち側の世界って、自然に距離が近づいてるの!」

「そ、それってやばいじゃん!」

「やばいの! 放置したら二世界とも凍りついちゃうの! だから、特別な資質を持つ女王様がいるの! 女王様と特別なリリックだけがそれを防ぐことができるの!」

「その資質を持つのがケガチとツツガ、二人の女王候補……あっ、あと純麗も一応そうなるのか……」

「より高い適性を持つケガチ様が第一候補だったんだけど、第二候補のツツガ様がクーデターを起こしちゃったの! だから、ケガチ様は先に女王の力を手にして復権しようとしているの! 《女王のリリカル・クロス》の力を完全に開放するには、こっちの世界で準備が必要なの!」

「それってどれくらいかかんの?」

「ケガチ様にしかわからないの……──親衛隊があそこまでするなんて、あっちゃいけないことなのに……」

 派遣されてきた親衛隊のアンダ。

 あのマンションに火を点けた女。そいつが相当の擦れ者らしい。

「いまはアンダも僕たちを見失ってるみたいなの。でも、それだっていつまで続くかわからないの……」

「そうね……」

 純麗はもう戦えない。

 一度(ひとたび)虚勢という表皮が剥がれてしまえば、柔らかな芯は剥き出しになる。

 肉体に寿命があるように、心にだって寿命がある。それが尽きたとき人は自ら生命活動を断つのだろう。

「──ご、ごめん……」

 うつむいた純麗が幼子のように言った。

「別にあんたのせいじゃないでしょ」

「……ご、ごめ……んっ……なさい……ううっ……」

 また、泣いてしまった。

 大きいはずのその体躯が小さく見えてしまう。

 なぜだろう。アリスはこんなの見たくないと思ってしまったんだ。

「話はわかった。つまり、そのアンダ人をやっつけちゃえばいいんでしょ?」

「えっ──」

 驚くモコモコちゃん。

 純麗も、泣き顔を向けた。

 別にアリスだって、こんな台詞を口にしたからって、打開策を思いついたわけじゃないんだけど、決めたんだもん。

 できるとか、できないじゃなくて、絶対に逃げないって。

 負けない、諦めない、休まない。

 私はアリス。有村薫なんて人間じゃないから。

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