第二章「Aralia cordata(アレイリア コーデイタ)」03
03
アンダは上空に浮かんでいた。
炎上する純麗のマンションを見下ろしている。
「我がリリックの炎が、ここまで執念深くなるか……」
壁が熱で脆くなり、自重でボロボロと崩れる様子がよく見えた。
彼女の褐色の肌と、鷹のように黄色い瞳は、その明かりに照らされて揺れている。
「……持っている者には、失うまでその大きさがわかるまい。貴様が《女王のクロス》を奪うのであれば、私はそれ以外のすべてを奪ってやろう」
こんなこと、女王や親衛隊隊長のスロゥには報告できない。
配下のディ・ズーすら見て見ぬふりはできないだろう。
こちら側にいるケガチは気づくかもしれないが、所詮は元女王。クリスタル・キングダムから去った逃亡者でしかない。
私はクロスさえ回収すればいい。
結晶化が解け始めた世界でアンダは焦げたにおいを感じた。
「ふんっ……女王は他世界への影響を抑えろと言うが、これだけ豊かな世界だ。少しくらいなんだ! 私の生まれ故郷はその資源のすべてを合わせても、貴様たちが失う十分の一にも満たなかったぞッ!」
怨念とともに炎は増す。
◆
結晶化が完全に溶けて、世界が正常に動きだした。
リリックの炎は科学的な燃焼反応に移り変わり、建物全体に広がっていく。
「なんでっ……どうしてこうなるんだよっ……」
純麗の泣き叫ぶ声。
目頭の奥で体液が溜まっている。喉が熱くなる。
「リリックの炎なの……まさか、親衛隊なのにっ……アンダがっ……」
クリーネはそう言った。
純麗の頭に浮かぶのは、未夢を攫おうとしたあの二人だ。一人は肌が透き通るほど白い男。もう一人は空にいた女。たしか、女の方は炎を使っていた。
純麗は空を探す。
わずかに見えるその姿を見つけた時、筒型ケースを強く握りしめていた。
「リリカル・チェェエエンジッ!」
純麗は《女王のクロス》を纏い、上空へ一直線。
アンダの姿に向かって拳を固めた。
「す、純麗! 駄目なの! さっき心を消耗したばかりなの!」
わかっている。
わかっているが、止められないのが激情だ。
「純麗っ! 純麗ぇっ──」
「許せるわけないだろッ……あのドグサレ野郎ぉおおおッ!」
純麗の怒りに呼応して、《女王のクロス》は力を開放する。
虹色の波動が広がり、一瞬で世界が凍りついた。
空気がガラスのように張り詰めた。
その勢いで肩に引っ付いていたクリーネが剥がされて落ちた。
それに気づかないまま、純麗はアンダへ突撃する。
「てめぇッ! この前、未夢を襲ったなッ……今度はあたしの家までッ!」
「左様だ」
「地獄に落ちろ、クソムシぃいいッ!」
直線的すぎる純麗の拳。アンダは軽く躱して、がら空きになった胴体に蹴りをかます。
だが、純麗はうめき声一つ上げない。
「……固いっ……」
純麗の胴体は打たれ慣れている。加えてリリックが体内を駆け巡っていた。全身に溢れる女王のエネルギー。純麗は鬼の形相でアンダのその蹴り足を掴んで、逆に踏みつけるように彼女の顔面を蹴りまくる。
「うぉおおおあああああッ!」
叫び声だ。
勇ましいものではなく、悲しさと苦しみが籠もっている。
「きぃっ……」
アンダは全身を発火させた。
その衝撃で純麗は弾き飛ばされる。
「──ッ! ……はぁ……はぁ……」
「女王のリリック……そんな雑な扱い方で!」
「うぁああああああッ!」
純麗の長躯から放たれる蹴りはよく伸びる。
横蹴り。アンダは間合いが読めず、脇腹にもろにそれを受けた。
人間で言えば肝臓の部分だ。他世界人のアンダに同じ内臓があるのかは定かではないが、とにかく内蔵にダメージが入った。
「ぐっ……このっ……女王のリリックめっ!」
アンダの炎が勢いを増した。
同時に進行する結晶化。虹色の世界は彩度を失った。灰色の世界だ。
燃え盛るアンダが分裂する。何十という炎の分身だ。その幻炎が純麗を囲んだ。
「なにッ──」
「貴様ごときに見下されてたまるかぁッ! 消えろよッ! 現地人ッ!」
背後から近づく炎の拳。純麗はそれに反応して振り返るが、その瞬間、正面から蹴りを受けた。同時に横からも殴られる。かと思うと後ろ首を踏まれて、さらに幻炎の一人に羽交い締めにされた。熱い感覚。それでも、攻撃は止まない。
上からも、下からも殴られる。
滅茶苦茶だ。暴走した洗濯機の中につっこまれたかのよう、純麗は全身を殴られた。幻炎の顔らしき部分に拳をぶつけてみるが、揺らめくだけでダメージはない。
アンダ本体を攻撃しなくては意味がないのだ。
「……リリカルっ……エクステンションっ……──ぜぇああああああッ!」
純麗はリリック波動を全力で吐き出した。
一帯に広がる女王のエネルギー。それによってアンダの幻炎はかき消される。
「──ぜぇッ……ぜぇッ……」
純麗の全身から力が抜けた。
精神力の消耗。力を使い果たしてしまった。
アンダはその機を逃さない。純麗の腹部に重い一撃を打ち込んだ。
「がぁッ──」
「集中力が足りないな。激情にかられても、心が不安定ではリリックは扱えん」
純麗のリリックが弱まる。
体に張り付いていたはずの《リリカル・クロス》が緩み、部分的に元の長い布に戻っていた。
すでに純麗の意識は虚ろだ。
虚ろの中で、純麗は自分の心が砕ける音を感じた。
決して強くない自分の心──それが決定的に砕ける感触だ。
時折沸き起こってくるあの暗黒が自分を飲み込む。暗い暗い深淵の底だ。
アンダは純麗に手を伸ばした。しかし、《女王のクロス》に触れる直前、バチンッ──とクロスそのものから漏れるエネルギーに弾かれてしまう。
「むぅっ──」
リリック自身の抵抗だ。
純麗は地面に落ちていく。
舗装された地面にぶつかると、その肉体が何度も跳ねた。純麗は動かない。
「……無意識に守っている……《女王のクロス》は、纏っている状態では剥がせないか……」
無理に剥がそうとして傷つけるわけにもいかない。
アンダは辺りを見回した。
景色が灰色だ。結晶化の第二段階だろう。アンダは炎を収める。
「まぁいい。ここには失えるものはいくらでもある。貴様がクロスを差し出したくなるまで、私は貴様のすべてを焼いてやろう」
そう言い残して、アンダは姿を消した。
地上で、純麗はアスファルトの冷たさを感じていた。
視界に映る制服の袖。《女王のリリカル・クロス》は一人手に筒型ケースの中に戻って、自分の服が帰ってきていたらしい。
耳鳴りのように聞こえるサイレン。人々のざわめく声。
何時間経ったのか、結晶化はとっくに溶けたようだ。
白いヘルメットの男が声をかけてくる。
「大丈夫ですか! わかりますか!」
救急隊員だ。
純麗が曖昧な吐息で返事をすると、担架がやってきて、それに乗せられる。
救急車へと運ばれる際に、自分のマンションが見えた。
既に鎮火していた。星空の逆光でその特徴がよく見える。
中心が焼失し、真ん中に大きな穴が空いていた……ちょうど自分の部屋の位置だ。あそこにあったすべてがもうこの世のどこにもない。キッチンも、食器も、ベッドも机も焼き消えてしまった。
──もう二度と会えない……。
未夢とアリスの顔を思い浮かべる。
心は裂けていた。
ああ、やっぱり駄目だったんだ。
あたしなんか、何を望んだって、何をやったって……。
純麗は救急車の中で再び気絶するまで、引き付けのような嗚咽を繰り返した。
◆
数日後。純麗は退院した。
リリカル・クロスの保護力だろう。大きな怪我はしていなかった。
自宅が全焼したので、新しい家が見つかるまで、しばらくビジネスホテルで生活することになった。そこで火事の原因究明のためとかで事情聴取を受けた。両親には手続きだとかでいろんなところに連れ回された。保険会社の廊下の椅子に座って、市役所の受付前に座って、知らないうちに一日が過ぎて、知らないうちに朝になる。
気づけば一週間だ。
純麗はその間ずっと空洞だった。
登校できるようになってもそれは同じだ。
コンビニで買ったパンを机の脇に引っ掛けて、授業を受ける。
クラス内に噂はとっくに広がっているし、目立つ体躯の純麗は学校では有名人だ。あの火事はニュースにもなったので、その視線を嫌でも感じた。
その教室で、純麗は無心で授業を受ける。
空洞の心に知識を詰め込む。
『山月記』における李徴(りちょう)の挫折、力学的エネルギーの保存則の公式を用いた計算問題、数学の一次不等式、英語のリスニング小テスト……黙々と受ける。
教科書に書かれた問題は簡単に解ける。
だが、心はどこにもない。
頭に浮かんだ疑問がまったく解けない。
──ねぇ、あたし、こんなことしてていいのかな……。
放課後。純麗は机に突っ伏して眠っていた。
目を覚ましているだけで気疲れてしまう。あれから長時間起きていることができなくなった。セロトニンの分泌が間に合わないのだろうか。
しかし、夢の中ですら考えたくないことを考えてしまう。
あのマンションは損傷が激しく、住民全員が立ち退くことになったらしい。自分のせいだなんて主張はしないけれど、関わった事実はある。家に帰るのが怖い……あの仮住まいのホテルも燃やされてしまうんじゃないだろうか。父が新しい家を探しているが、それも燃やされてしまうのではないか。
何を買っても、何を集めても、消えてしまうのではないか。
炎の景色に追い詰められていく。
──夕方のチャイムが鳴る。
──最終下校時間の合図だ。
純麗は目を覚ました。
やかましい音楽が鳴り始めて、部活動をやっている生徒に帰れと急かす。純麗は観念して、くしゃくしゃになった髪の毛もそのままに廊下のロッカーへ向かった。
開けると、そこにクリーネが眠っていた。
一週間ぶりだ。純麗が入院していたときには姿を消していた。
おなじく目を覚ましたクリーネは純麗の様子を見て、うつむく。
「純麗……ごめん、なの……ぜんぶ僕のせいなの……」
「……そんなとこにいたんだ……」
「僕、隠れなきゃだから……」
「……別に。正直、忘れてたし……」
純麗のスカートベルトに引っ掛けた筒型ケース。その中に《女王のリリカル・クロス》が封印されているが、純麗はその日登校するまでその存在も忘れていた。
唯一残っていた衣服である制服と一緒に、両親が紙袋に入れてていたそうだ。
それをアンダが取りに来なかったのは、偶然としか言いようがない。
「活動してないリリックは見つけられないの。波動が小さすぎるから。だから、アンダは純麗を見失ってたんだと思う……」
「そう」
「ごめんなの……僕が悪いの……」
「いいよ」
なにが、いいよ、なのか純麗自身にもわからない。
単に怒ったり責めたりする気力が無くて曖昧な返事をした。
「アンダから声が届いたの。女王のクロスを渡せって……」
「…………。」
「でも、僕にはできないの。それはケガチ様の物なの……──だからって、純麗はもう巻き込めない。僕はこれから一人で行動するの。うまくできるかわからないけど、これ以上、純麗を巻き込めないの」
「そう」
「ケガチ様も、きっとわかってくれるの」
「……いいよ。あたし、もう疲れちゃった……」
ただ、そう吐き出した。
クリーネに向けたのではなく、なにもかもにそう言った。
腰の筒型ケースを外して、それをクリーネに差し出す。
クリーネは少し躊躇する。それを受け取れば、純麗がアンダから狙われる理由はなくなるが、だからといって安全が確保されるわけでもない。
「これを手放しても、きっとアンダは──」
「いいよ」
「純麗が──」
「もう、いいよ……」
「でも──」
「いいって言ってるでしょ! もう、あたしにはどうしていいかわからないよっ……」
「……純麗……」
「そりゃあ、できればあんたの助けになりたいけどさ……何かを見たかったけれど、あたしにはそこまでできないっ……できなかったんだッ! ねぇ、あんた、どうしてそんなに必死になれんのっ……あたしだって悔しいよ! こんな目に合わせたあいつが憎い! だけど、あんたみたいに、どうにかしてやろうって……思えないんだ……こんな状況になっても──」
純麗は掴みかかるようにロッカーに両手をつけていた。
自分を責めるような表情で、中のクリーネに泣き叫んだ。
「こんな図体してるからさぁ、どこに行っても大人びてみせろって言われてる気がしてっ……どいつもこいつも言葉の最後に〝お前は大きいんだから〟って付けやがる! それからやっと開放されるのは一人でいるときだった! あの家だ! 誰も待ってなくたって、あれはあたしの家だった! あたしの部屋だったんだ! ぜんぶ消えた……あたしだって子供をやりたかったのに、あそこでわがままに甘えて喚きちらす子供をやりたかったのにっ……──もう、16歳になっちゃったじゃん……どうしてくれんだよっ……」
膝をつき、ロッカーに額をつけた。
冷たい感覚だ。
まるで鉄の箱に閉じ込められたかのよう。
そんな純麗の背後に、足音が近づく。その金髪の生徒は、呆れ顔で声をかける。
「……あんた、なんでロッカーと喋ってんの?」
アリスが立っていた。
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