第二章「Aralia cordata(アレイリア コーデイタ)」02

   02


 松本祐司(まつもと ゆうじ)。会社員。

 独身、三十二歳。不動産会社勤めの男だ。

 これといって目立つ特徴はなく、社内で誘いがあればどこにでもついていくつき合いの良さがあり、異性にも邪険にされないが、かと言って積極的でもないので恋愛には進展はしない。

 というより、人生で恋をしたことがない。

 人嫌いというわけではないが、特定の誰かを贔屓(ひいき)するのが苦手なのだ。誰にも分け隔てない地味な男なのである。

 仕事も卒なくこなすが、情熱がないので残業はしたがらなかった。

 だから、キャリアを積むに連れて自然と定時帰宅できるようなポストについた。

 趣味は仕事帰りの一人カラオケ。誰かを誘うでもなく、どこかで披露する機会があるわけでもない。好きな歌を好きに歌うだけだ。

 その時だけは自分を忘れられる。

 激しい歌が好きだ。

 日頃出さないような大きい声を出すのが好きだ。

 毎日、二時間半をぶっ通しだ。退室する頃には疲れ切っている。それが気持ちいい。

 その日もカラオケボックスでシャウトした。

 歌うほど全身にじんじんと滾(たぎ)るのを感じる。

 なぜか、普段ならしない時間延長もしたくなった。不思議な感覚に包まれたのだ。バスドラムの振動を体で感じているときのような高鳴り。アドレナリンが溢れてくる。

「……なんだっ……俺のビート……?」

 祐司の血液が熱くなった。

 全身がうずいて、張り裂けそうなほどの感覚。

「震えてるッ……俺のビートがッ……」

 その昂りに感応するかのよう、カラオケルームの壁が虹色に変わった。

 ──結晶化だ。

 彼が手にしたマイクからスピーカーへ、スピーカーから音へと伝導し、やがてテーブルへ、ソファへ……結晶化は建物全体へ浸透した。

「誰かッ……俺のビートを聞いてくれッ! 俺の音楽を聞いてくれェエエエーッ!」

 リリックの波動は世界へ広がった。


 純麗の家にあったテレビが凍りついた。

 三人で観ていた『フルメタル・ジャケット』という映画──アメリカ海兵隊とベトナム戦争を描いた作品の前半に、候補生の一人が石鹸で殴られるという虐めのシーンがあるのだが、モニターの画面がちょうどそこで停止した。

 痛そうなシーンに怖がって目を細めていた純麗は、急に結晶化が起こったので慌てふためいた。

「うわっ──な、なになに なんなのっ!?」

 ソファの隣に座っている未夢は、握り拳を作って映画に熱中している状態で止まっていた。

 その奥のアリスはなんとも言えない表情で凍っている。思ったよりハードな内容で困惑しているのだろう。

 とことこっ……と、クリーネが純麗の部屋からやって来た。

「純麗! 結晶化してるの!」

「みっ、見ればわかるって!」

 純麗は立ち上がってカーテンを開けた。

 ちょうど、自分たちが数十分前に立ち寄った商店街から光が漏れていた。

「あそこ? な、なんであんなところに……」

「純麗! リリックが暴走してるの!」

「ぼ、暴走……?」

 とにかく、放っておくわけにはいかない。

 この結晶化した世界で動けるのは、《女王のリリカル・クロス》を持つ自分だけだ。

 振り返れば、ソファで硬直した未夢とアリス。二人とも虹の石で造られた彫像のように停止している。

「……あたしが行かなきゃ、永遠にこのままか…… もう、世話が焼ける!」

 純麗はベランダに出た。

 スカートベルトに引っ掛けていた筒型ケースを手にして、その封印を解く。

「リリカル・チェェエエンジッ!」

 ケースから魔法の布、《女王のリリカル・クロス》が飛び出した。

 フリルが付いたリボンのように長い布だ。それが純麗の体に張り付くと、形状が変化してドレスに変わる。一部はアームカバー、一部はセミロングブーツへ変わった。

 元着ていた服や下着は筒型ケースの中に収納された。

「……相変わらず丈が短いっ……」

 身長146センチという小柄なケガチの服を、2メートル16センチの純麗が纏っているのだ。肩や下腹部、太ももが丸出しで、意図しないセパレート状態だ。

「スースーするよぉ……あたし、脚見せるの嫌なのにっ……」

「どうせ誰も見てないの! 急ぐの!」

「……こいつ、後で漂白剤に漬けてやる……」

 純麗はリリックの力で飛んだ。

 空を駆けて商店街の光源へ向かう。


 商店街には、巨大な植物が生えていた。幹は無い。地面から直接無数の茎が伸びている。まるで全身が触手という、イソギンチャクのような怪物だ。大きさは10メートルほどだろうか。

 商店街のタイル敷の道路は元々劣化してひび割れていたのだが、結晶化とその怪物の運動によってさらにバラバラに砕かれていた。

 怪物の触手が蠢くと、ぶつかった店の正面外観(ファサード)が削られる。

「なっ──なんだよありゃッ! クリスタル・キングダムの化物かぁッ!?」

「違うの! リリックの影響なの! 誰かが不安定なリリックで心を暴走させているの!」

 アームレットのように純麗の二の腕に巻き付いていたクリーネは、小さな腕をにょっこりと伸ばして指差した。

「あの人から同じ波動を感じるの!」

 怪物の傍らで抜け殻のように気絶している、会社員らしき男性だ。

「あれが本体……? あそこから、あのでかいイソギンチャクが飛び出してきたのかよ」

「この前の香りに近いの……この前、純麗が見た親衛隊のアンダ。きっと、アンダが無理やりリリックを流し込んで、あの人を暴走させてるの!」

「なんだよそれっ……なんでそんなことする必要があるんだッ! クソがッ!」

「純麗、中和させるしかないの! 女王のリリックを流し込むの!」

「けっ、要するにぶん殴ればいいんだなぁッ!? おぉらぁああッ!」

 純麗は急降下して、触手の中心に拳をめり込ませた。

 リリックが弾けて、巨大な怪物はゼリーのように歪む。

「──ルゥウウおおおオオオォォ!」

 悲鳴だ。

 音ではなく、リリックの波動で彼のビブラートが聞こえてきた。

「俺のぉっ……俺のビートを感じてくれぇええっ!」

 怪物は触手同士をぶつけて衝撃波を吐き出した。

 まるでシンバルだ。ゴゥウン──という大きな波動に一帯の窓ガラスが砕け、タイル敷の道路は爆撃を受けたかのよう捲(めく)れ上がった。

 結晶化した人々はその砂埃に呑まれた。

 純麗も吹き飛ばされる。

「ぐぅううああッ──」

 十数メートルの位置で着地した。

 顔を上げると、触手が蠢めいていた。

「震えるんだよッ! 燃え尽きそうなほどッ! ぶっ壊すほど、どうしようもないほどッ! 俺のビートがァあああーッ!」

「あぁっ!? ビートってなんだよッ!」

「張り裂けそうなんだっ……俺の悲しみがっ……」

「なにっ?」

「途中でパートが分かれる曲って、一人だととっても歌いにくいィイイーッ!」

「…………」

「しかもッ! 主旋律がだいたい女性担当だから、キーが高いィィイーッ! あんなの歌えないよォオオオ──ッ!」

「うるせぇえッ! 知るかぁ! このミンミンゼミがぁああああッ!」

「るぅうォオオオオーンッ!」

 また、衝撃波だ。

 無数の触手がバイブレートし、振動が重なり合った。

 一定の周波数。それが一帯を包み込んで景色ごと純麗を震わせる。

「ふぁぁああっ!? んひィっ!」

 肌に感じる痺れがくすぐったい。

 思わぬ感覚に赤面した。

「純麗! 笑ってる場合じゃないの!」

「うっ、うるせぇ! 地肌に直接くるんだよぉ! このぉッ!」

 純麗は底掌を怪物に向けた。

 向こうがリリックで衝撃波を放てるのであれば、こちらにも可能だろうという理屈だ。純麗の突き出した腕から真っ直ぐな圧力が放たれ、それが十数メートル離れた怪物の触手をバチンッ──と弾いた。

「んぐぉっ……俺のぉ……ビィィ……トォォオーッ……」

 怪物がよろけて振動が止む。

 純麗はそれに向かって走った。

「ビートだかビブラートだかビンロウだかビンゴゲームだか知らねぇがッ、ヒトカラなら一人で楽しんでりゃいいんだよッ!」

「純麗、いまなの! リリカル・エクステンションするの!」

「ウッシャァアア──ッ!」

 雄叫びとともに、純麗はクロスの力を全力で開放した。

 激しいリリックで世界の結晶化が進む中、全身を輝かせた純麗の跳び膝蹴りは、怪物の胴体を貫いた。

「ビィ……トゥッ……」

 巨大な怪物はガラスのように砕け散った。

 その存在が消えると、商店街の結晶化がゆっくりと溶けはじめる。

 地面に落ちている大きな瓦礫を目で追うと、パズルのピースのように、建物の空いた穴に戻っていった。まるで逆再生だ。壁の亀裂も塞がり消えていく。

「結晶化が溶ければ、その流れに乗って元の形に戻っていくの」

「……けどよ……」

 地面に散らばったガラスや、細かいコンクリートの粉塵も残っている。

 それらも引き潮に呑まれた砂粒のように動いて、元に戻ろうとするが、そこへ届かない。まるで、記憶を失い、自分が何だったのかわからなくなってしまったかのようだ。

「うん……バラバラになりすぎると、戻らないの」

「そうか……」

 純麗は《女王のリリカル・クロス》を筒型ケースに収納し、商店街を去った。

 戻っていないものがあったら……そう思うと怖かった。


 純麗は、見ないふりをするように駆け足でマンションに向かった。

 結晶化が解けきる前に部屋に戻らなければ、未夢とアリスに変に思われてしまう。

 変身しなくても近所なのですぐだ。

 十階建L字型のマンション。

 自分の家。

 近くまで行くと、それが赤く光っていた。

 虹色の世界で、マンションは激しい炎に包まれていた。

「……なに……あれ……」

 鉄筋が溶けてしまうほどの高温だとわかる。火の中心は五階の真ん中辺り。純麗の部屋だ。そこが火元だ。

「……えっ……なに、なんだ……」

 純麗は意味がわからず困惑した。

 なんで、あたしの家が燃えているの?

 思っていると、肩に乗っていたクリーネから禁忌を恐れた声を出す。

「リ、リリックを感じるのっ……こんなことあっちゃいけないのっ……」

 リリックの炎だ。だから、まだ結晶化が溶け切っていないこの世界で燃え盛っている。だから、焼かれたコンクリートの壁が剥がれて砕け散る。

 それは宙で黒焦げ、跡形もない塵になる。

「……嘘でしょっ……待ってよ……だって、まだ、あの中にはッ──」

 この世界では自分以外の人間は動けない。

 炎に包まれても、それに気づくことなく砕けて塵になってしまう。

 大きく破損したものは元に戻ることはない。

 あの商店街の粉塵のように。

「うあっ……ああッ! 嘘だぁああああああっ!」

 純麗の前に広がっているのは、その景色。

 未夢とアリスが逃げられないまま焼き殺される景色だった。

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