第一章「 Lilycal‐Cloth(リリカル クロス)」05

   05


 夕刻──

 純麗は納豆巻きを食べていた。家に帰ってから、まず空腹を紛らわせるためだ。

 雑な作り方をしているから市販の太巻きよりも大きくて歪んでいる。純麗はそれをナマズを飲み込むかのように頬張りながら、夕御飯を何にするか考えていた。

「昨日、肉だったからぁ……もごっ。魚だよなぁ……冷凍庫にサバの西京漬けがあったっけ。あとは、トマトでも洗うかぁ……」

 リビングテーブルの反対側にちょこんと座っているのはクリーネだ。

 クリーネは浮かない顔で筒型ケースを抱いて揺らしていた。

「なにか食べないの? 朝からなんも口にしてないじゃん」

 ぶっきらぼうながら、純麗はそう言った。

 クリーネは顔を上げて首を横に振った。

「お腹は空かないの。僕たちは直接食べなくなって平気なの」

「でも、元気は出るんでしょ?」

「…………」

「あたしの夕飯、少しだけ分けてあげるからさ、食べなよ」

 純麗は納豆巻きを食べ終えると、皿をシンクに持っていった。朝の青椒肉絲の平皿の上に重ねておく。

 それから夕飯の準備だ。

 豆苗と冷凍していた油揚げを取り出して、味噌汁の準備を始めた。

 作業しながらクリーネに言う。

「今日一日、それの持ち主……ケガチ女王様の気配を探ってたでしょ? どうだった?」

「……ぼんやりと香りを感じることはあるの。この街にいるの。きっと、ものすごく近くに……」

「近くねぇ……そういえば、その人の年齢っていくつくらいなの?」

「わからないの」

「わからない?」

「こっちとは暦(こよみ)が違うから……クリスタル・キングダムには一年がないの。空も大地もほとんどが止まっているから、僕たちは女王の任期で歳を数えるの。ケガチ様は二期前の女王時代の生まれ。僕は四期前。それをこっちの時間に換算することはできないの」

「そっか。季節もないのか……」

 地球上ですら国によって暦が違って、しかも同じ太陽を基準にしていても別の数え方をしていたという歴史がある。時空が違うとその辺りの常識はだいぶかけ離れているのだろうと、純麗は想像した。

 江戸時代の日本だって季節ごとに一時間の長さが変わる不定時法だった。現代は一時間の長さが完全に決まっている定時法。これらはルールが違うから換算することができない。それらと同じだ。

「見た目で言えば、純麗の同級生とほとんど同じ歳なの」

「ふうん。女王っていうから、最初は偉そうなオバさんを想像してた。考えてみれば、その小さいドレス着れるほど小柄なんだもんね」

「純麗が大きいの」

「違う。女王が小さいの! ──実際、あのサイズは中学生かそこらの身長だと思うし」

 聞いたところによると、ケガチの身長は146.5センチだそうだ。

 クリスタル・キングダムの単位はメートル法ではないが、これはメジャーを使って換算できた。実際に形があるものならば、物理的に変換できる。

 ちなみに言語の問題だが、これはリリックの魔法でどうにかしているらしい。クリスタル・キングダムの人間は他世界へ渡っても、その世界と少しだけ融合することで、感覚的に常識がわかるようになるそうだ。彼らは日本にいる間は日本語を、アメリカに行けばアメリカ英語を使うことができる。クリーネは自分が纏っているスカーフの力で日本の言語を使っていた。

「便利なんだか不便なんだか……いま日本語喋れるのに、インドに行ったら日本語がわからなくなるんでしょ?」

「それも訓練次第なの。というか、なに呑気してるのっ!」

 ふわりっ──と、クリーネは筒型ケースを純麗に飛ばした。

「ぬおっ?」

 女王のクロスだ。純麗にも適性があるが、まだこれを使いこなせるわけでない。

「そうなの! ご飯食べたんだから、純麗もリリックの練習するの! なにご飯のあとにご飯のこと考えてるの!」

「いや、今のはおやつで、夕食はまだだし……」

「そんなんじゃ、次は捕まっちゃうの!」

「……別に……サボりたいわけじゃないけど……」

 純麗にもわかっている。

 ケガチ女王を見つけ、この《女王のクロス》を届けるまでは、自分たちで自分の身を守らなければならない。リリックという魔法を使いこなさなければ、この先どうなってしまうかわからない。

 初めは淡い期待があったから。

 それを起因に首を突っ込んでしまったから。

 でも、もしそんな目的がなくとも、この白いモコモコの妖精を追い出すことは、同時に顔も知らないケガチという人を見捨てることにもなるから、純麗としてはできなかっただろう。

 結局は成り行きなのかもしれない。

 流れに身を任せて、こうなっているのかもしれない。

「向こう側とこっち側が繋がってると、時空が融合して結晶化が起こる……それが進行しすぎると両方の世界が滅びちゃうから、親衛隊の人たちには時間制限があるんだよね……」

「そうなの! リリックは本来クリスタル・キングダムの力。少しだけならともかく、大きく行使すれば世界同士が引っ張られて繋がっちゃうの!」

「その時間制限の間だけ逃げ切る力があればいい……それはわかってるけど……」

「わかってるけど?」

「……あのさ……正直……戦うのが怖いんだよ。それを考えるのも怖い。あたし、こんな見た目だけど、そっちが思ってるような人間じゃないよ……」

「…………」

 純麗が中学生まで極真空手をやっていたのは、漠然と強くなりたいと願ったからだ。

 誰よりも強ければ何も怖くなくなる──そんなふうに思った。だけど、まったくの思い違いで、誰かを殴るのは不快だったし、この体躯に嫉妬の目を向けられるのも心が痛かった。結局、自分には向いてないと思ってやめてしまった。

「あたしさ、誰かと競うの向いてないんだよ。勝つのも負けるのも苦手なんだ……」

「じゃあ、純麗はどうしたいの?」

「…………」

 だから、それが、わからないんだよ。

 あたしには、あたしがわからないんだ。

 思いながら、純麗は《女王のクロス》を握りしめた。


   ◆


 目堂未夢は歩道を歩いていた。

 時刻は19時前。日が暮れる直前だ。

「ほーちーみん、いずぁ、さのばびっちぃー……」

 と口ずさむ。昔の映画で聞いた歌だ。小さい頃に見た作品なので内容は曖昧だが、作中に出てくる兵士たちのその歌だけは何故か覚えていた。

 片手に下げたトートバッグの中身はケチャップだ。

 母が夕食にオムレツを作ろうとしたが、直前でケチャップがないことに気づいたらしい。それで、未夢は買い物に行かされた。

「そういえば、私『フルメタル・ジャケット』って前半部分しか記憶にないなぁ……」

 何年も前に見た作品のこと。

 その感動は覚えているけれど、細かい部分は忘れている。だからといって観た意味がないとは思いたくない。

「みんな、映画なんて時間の無駄だって言うけど、現実の思い出だって忘れるときは忘れるじゃん! 合唱祭とか、運動会とか。いい思い出にしよう、なーんてさ……言ってる側が大人になったら忘れてるんだろうなぁ……」

 未夢は昔のことはあまり思い出したくないが、考え始めると止まらないのでそんな風にちょっぴり怒ってみた。遠目に見えてくるL字型十階建のマンション。自分の部屋はその三階で、友達の純麗ちゃんは五階に住んでいる。

 辺りはすっかり暗くなっていた。

 パキッ──

 不意に、足元から、ガラスに亀裂が入った様な音がした。

「えっ……」

 未夢は何か踏んでしまったのかと思い、地面に目を向けた。

 インターロッキングの歩道が虹色に輝いていた。

 明るい虹色ではない。水彩絵の具のバケツをひっくり返したような濁った虹色だ。それが氷のように張っていて、未夢の足元でひび割れたのだ。

「な、なにこれっ……」

 空から褐色肌の女が降りてきた。

 ──アンダだ。

 クリスタル・キングダムからやってきた彼女は未夢の背後に着地した。

「純麗という女の知り合いだな──」

「えっ……」

「少し、眠れ」

 未夢が振り返ると同時に、アンダは纏っていた《リリカル・クロス》から青白い光を放った。

 途端、未夢は白目をむいて気絶した。

 アンダはそれを配下の兵士ディ・ズーに抱えさせる。

「よろしいのですか……」

 と禁忌に触れてしまったかのような態度をとる彼に、アンダは鋭い瞳で答える。

「女王のリリックで抵抗されれば面倒だ。初めから戦うつもりはない」

「しかし、人質というのは──」

「親衛隊の名に恥じると思うか?」

「い、いえ……そのような……」

「戦わなければ平和的な交渉なんだよ。あとはクリーネに連絡を入れるだけ。とにかく回収さえしてしまえばいい」

 そうだ。クリーネはともかく、純麗という現地人は本来無関係の子供なのだ。向こうとて、わざわざ戦う理由はない。《女王のクロス》の価値などわかっていないのだ。

 そう思っていたアンダの背後に近づく気配があった。

 何者かが歩いてくる。

「むっ──」

 アンダは振り向き、警戒の目を向ける。

 その者から、大きなリリックの波動を感じた。

「誰か! 女王の命を受けてこちら側に渡っているのは、親衛隊のアンダだけであるぞ!」

「──親衛隊の恥は、女王の顔に泥を塗る行為と知れ……」

 現れたのは覆面の少女だった。

 若いながらも芯の通った声。アンダには聞き覚えがある。

「……この香り、まさか……」

「リリカル・チェンジ──」


   ◆


 純麗は自室にいた。

 あぐらをかき、右腕の周りにリボンのように長いリリカル・クロスを漂(ただよ)わせている。クリーネが言うには、これで訓練になるらしい。

 電気を消した空間の中で、クロスはぼんやりと輝いている。

「女王のリリックが純麗の体内を巡ってるの! 純麗の体がそれに馴染むほど、リリカル・チェンジしたときうまく力を扱えるはずなの!」

「その説明聞くと、なんか魔改造されてる気分……」

「できれば実際に纏いたいけど、そんなことしたらリリックの波動を感知されちゃうの。それに──」

「使いすぎると結晶化が起こるんでしょ。だいたいわかって……きたって……のっ……」

 純麗は重みを感じた。腕の血管に鉛が流し込まれたかのようだ。

 額から汗がたれる。

「……くっ……」

 これだ。初めて纏ったときに感じた疲労感。

 強大な力を使っているときは気分が高揚するが、後に反動が来る。ひどく気分が落ち込んでしまう。まるで危険な薬物(ドラッグ)だ。

「クロスに呑まれないように気をつけて! リリックは心の魔法。正しく扱わないと心が暴走しちゃうの!」

「……あ、ああ……」

「暴走すると、自制が効かなくなって、自分の心を壊しちゃうの」

「…………」

「だから、本当は純麗にこんなこと──」

「ごちゃごちゃ言うなッ……気が散るだろッ……」

 いけない。また、口が悪くなっている。

 だけど、迷いが生まれたら、この激流にも乗れなくなってしまう。

 今は少しだけ状況に流されていいと、純麗はそう考えることにした。

 迷ったら、きっとあたしはもっと自分がわからなくなってしまう。とにかく前に進むんだ。なんだっていい。これはきっと──

 クリーネが叫んだ。

「──っ! 純麗! 何かの気配がするの!」

「なにっ……」

 純麗は《女王のクロス》を筒型ケースに収めた。

 意識を向ければ掃除機の電源コードのように勝手に引っ込んでいく。

 クロスを戻した後、純麗は大きく息を吐いた。

「はぁ、はぁ……なにっ!?」

「小さいけど……ううん、小さかったけど、どんどん激しくなって──う、うわぁ!」

 閉じていたカーテンの裏側から虹色の光が漏れた。

 すると一瞬だ。

 純麗の部屋が結晶化した。

 壁にかけていた制服も、柔らかい羽毛布団も凍りついた。おそらく、街全体が凍りついてしまったのだろう。

 無事なのは純麗とクリーネだけだ。

「なっ……あいつらが来たの!? 待ってよ、いま最悪のタイミング!」

 純麗は疲労の汗を拭う。

 クリーネは全身の毛を逆立てて、そわそわした。

「ち、違うの。ぶつかり合ってるっ……」

「えっ──」

「戦ってるの! 誰かがリリックの力で!」

「な、なにが起きてんのっ!」

 純麗は部屋を出る。

 扉も蝶番も結晶化していたが、純麗が触れている間だけは動かすことができる。手を離せば再び時が凍りつく。勢いよく閉めたが、閉まり切る前に扉は停止した。

 家を出て、マンションの廊下を走った。

 空に二つのぶつかり合っている光があった。

「あれっ!」

「このリリックの香りっ……もしかしてっ……」

 純麗は癖でエレベーターまで行き、ボタンを押したが、当然、世界が凍りついているので反応を示さない。

「そっか……階段か……」

 純麗の肩に抱きついていたクリーネが純麗の髪を引っ張った。

「痛っ! なにすんの、このゾウリムシっ!」

「純麗っ! リリカル・チェンジしてっ! 飛ぶのっ!」

「えっ──」

「急ぐのっ! ケガチ様の香りがするのっ!」


   ◆


 アンダはリリックの力で炎を生み出した。

 それがまるで燕のように飛翔し、宙を舞う少女の影を追う。

 しかし、少女は片手で炎を払い除けた。

「ちぃッ──流石は元陛下殿でありますなぁ!」

「アンダ! 女王親衛隊であるお前が、私に手向かいするか!」

「元女王の言うことっ!」

 燃え盛るアンダの拳。それを少女はいなして、逆に蹴り飛ばした。

 さらに、少女は手から杭のような光を数本放った。それは、地上にいるディ・ズーを牽制するものだ。

「むぅっ……」

 未夢を抱いていたディ・ズーは足止めされ、動くことができない。

「現地人に手を出すことは禁じられている! ましてや、人質などと!」

「国から逃げた者が偉そうに!」

 アンダの炎が広がった。

 少女は炎に包まれた。

「……リリカル・エクステンションっ!」

 少女から放たれた光の波動が炎を弾き飛ばした。

 砕け散った火の粉は、街灯やガードレールに降り注ぎ、それらを一瞬で溶解させる。焼け焦げたアスファルトには穴が空いていた。

「よせ、アンダ! 女王のリリックと我が身は然るべき時に帰還する! 姉上にはそう伝えよ!」

「なにを仰っしゃいますか! この場で前女王の身柄を確保した方が、ツツガ様はお喜びになられるでしょう!」

「貴殿には、使命以上の野心を感じるな……」

「元陛下とて、そのクロスでは敵いませんよ」

「…………」

 二人のリリックが圧を増し、その反動で世界の結晶化が進行した。

 虹色の空気がガラスのようにひりついた。

 純麗はその中を泳ぐような重い足取りで、その場に降りた。

 クロスを纏って、マンション廊下からジャンプして飛んできたのだ。

「あれかッ!」

 空にいる二人の女と、地上にいる白い肌の男。

 そして、その男が抱きかかえる未夢の姿を、純麗は見た。

「み、未夢っ!? てめぇらッ、そういうつもりかぁあああッ!」

 純麗の目が血走る。纏っている《女王のクロス》から光が溢れた。

 感情の高ぶりが目に見えて力になる。

「この薄汚れたセンチムシがぁッ!」

「ぬぅっ──」

 純麗のジャブがディ・ズーの頬を掠めた。

 斬撃のように鋭い拳だ。拳を引いたあと、ディ・ズーの白い頬から青い血が流れる。

 クリーネは純麗の肩にしがみついていたが、そのあまりの直情さにドン引きする。さっき注意したばかりなのにもう心が暴走しているのだ。

 ディ・ズーは、

「ま、待てっ……返す!」

 純麗に未夢を投げ渡した。

「なにっ……」

 純麗は未夢を受け取って、もう一度彼に目を向けた。

 ディ・ズーは空に向かって叫んだ。

「アンダ様、お引きを! ここで女王のリリックが溢れれば、結晶化がさらに進行します!」

「ぬぅ……っ!」

 目の前に《女王のクロス》とケガチ、その両方があるというのに手が出せない。その忌々しさを表情にして、アンダはケガチから離れた。

 そして、ディ・ズーと共に空間にヒビを作り、その中に姿を消した。リリックの波動が収まったお陰か、世界の結晶化が治まる。

 覆面の少女は純麗たちの元へゆっくりと降りてきた。

 その姿を見て喜ぶのはクリーネだ。

「ケガチ様ぁ! 会いたかったのぉ!」

 彼女のもとへ跳んで抱きついた。

「クリーネ殿っ……やはり、こちら側にいらしてましたか……」

 覆面越しでも、少女の頬が緩んでいるのを、純麗は感じた。

 あの覆面も《リリカル・クロス》なのだろう。全身に纏ったその魔法のドレスを拡張し、頭部まで覆っている。まともに扱えれば、あれくらいできるのだ。

 わずかにはみ出た明るい栗色の髪の毛、そして、聞いていた通りの小柄な体。いま外見からわかるのはそれくらいだった。

「この香り。クリーネ、私のクロスを持ってきてくださったのですね」

「そうなの! 僕、これをケガチ様にお届けするためにここまで来たの! 真の女王様はケガチ様なの!」

「それは……我が親族の招いた混乱、こちらの世界までご足労いただき危険な目に合わせてしまったこと、大変申し訳なく思います」

 ケガチは女王らしく頭を下げるような真似はしないが、態度で礼を示した。

「いいの! 僕たちは友達なの!」

「ありがとう、クリーネ。ところで、そちらの方は──」

「純麗なの! ケガチ様と近い適性を持っているの!」

「なるほど……。──先日のクリスタル・キングダムからの捜索隊は私も感じておりました。その際、大きなリリックの波動を感じましたが、あなたがそれを纏っていたのですね」

「──ええ、まぁ……」

 考えてみれば、今、この人の服を勝手に着ている。地肌の上に。

 しかもサイズが合っていないからパッツパツで、ほとんど肌が見えている。

 純麗は気恥ずかしくなった。

 それを気にせずケガチは言う。

「本来、クリスタル・キングダムは他世界の環境に影響を及ぼしてはならなかったはずです。純麗さん。あなたには多大な迷惑をかけ、また大きな不安を感じさせてしまいました。すべては我が身が犯した過ちです。どうか、お許し願いたい」

 ケガチは、今度は頭を下げた。

「じゃあ、その……これ、返します……」

 純麗は変身を解き、筒型ケースを差し出した。

《女王のリリカル・クロス》。クリーネが仕立てた魔法の布。それが真の女王たる証であり、これを彼女に渡すために面倒事を頼まれた。

 それが、こんなにもあっさりと終わるらしい。

 なんでこんな必死になっていたのだろう、と純麗は思ってしまった。

 なんにもなかったじゃんか、という期待外れの感想だ。

 しかし、安堵もある。終わりは終わりだなのだ。これで一段落。自分は元の生活に戻るのだろう──

 と、そう思っていたのだが、ケガチは両手で純麗の手を包んだ。

「いえ、受け取れません」

 きっぱりとそう言い、優しく押し返す。

「……はい?」

 純麗は目を丸くした。

 ケガチは言う。

「申し訳ありません、純麗さん。そのクロス、今しばらく預かって頂きたく存じます。まだ、その時ではないのです」

「……な、なんでぇっ!?」

 心の底から〝WHY(なぜ)〟だった。

 やや断らせるつもりのない口調なのも気になる。

「なっ……いやっ、そんなん言われたって──」

「受け取るわけにはいかないのです。《女王のクロス》は私のために編まれたもの。私が手にすればその強大な力を隠すことが出来ません。私はもうしばらくこちら側の世界に隠れていなければならないのです」

「……っ……」

「然るべき時。私がクリスタル・キングダムへ帰る際には、それを受け取りに参ります。それまで、どうか、よろしくお願いいたします」

「いや、その……」

「クリーネ、頼みます」

 端(はな)から断らせるつもりはなかったのだろう。

 ケガチはリリックの力で飛び去ってしまった。

 純麗の手には《女王のクロス》。そして、眠りっぱなしの未夢だ。

 とても追いかけられる状況ではない。

「…………」

 どこから頭を整理すればいいのだろう。

 なんだか問題が膨れ上がっている気がする。

 戦いは終わらず、《女王のクロス》は手元にあるまま。

 さらに未夢まで巻き込んでしまった。

 リリックの高揚が冷めたせいか、純麗は心の底から、恐ろしい感情が湧き上がってくるのを感じる。不安に呑まれておかしくなってしまいそうだ。

 能天気そうなクリーネすら物憂げな表情をしていた。

「ケガチ様……」


 結晶化が溶けてから、純麗は未夢を背負って喫茶店カガリに移動した。

 気絶した彼女を自宅に連れ帰れば大事(おおごと)になるかもしれないし、いつ両親が帰ってくるかもわからない自分の家に連れて行っても同様だ。

 それで、近くにあった喫茶店カガリを思い出した。

「リリックの影響で眠っているから、リリックの力で回復させるしかないの!」

 とクリーネは言う。

「具体的にどうすれば?」

「どこか落ち着ける場所ないの?」

「…………」

 で、喫茶店カガリだ。

 世界の結晶化が溶けてから、純麗は扉を開け、

「こ、こんにちは~っ!」

 と中に声をかけた。

 今日も客はいない。喫茶店カガリのマスターはいつもどおり純麗を迎える。

「いらっしゃい。おや、その子は?」

 純麗が背負っていた気絶した未夢だ。

「あの……ちょっと貧血になったみたいで……」

「そう」

「ほらっ、お、女の子なので!」

 言いながら、もっとましな嘘がつけなかったのかと純麗は自分を恨んだ。

「ああ。空いてる席を使っていいよ」

 と、マスターは店の奥へ行き、それから、二人分の水とおしぼりを持ってきた。

 純麗は未夢をソファに横にした。

 その上に、人形のふりをしたクリーネを乗せた。

「僕のリリックで中和するの。こういう繊細なのは純麗にはまだ無理なの」

「一言余計なんだよ、このゾウリムシ……」

 小声で会話して、純麗はクリーネをつついた。

 それから反対側のソファでくつろぐ。

 心がげっそりとしていた。たぶん、リリックの使いすぎだ。

「あたし。暴走しすぎかな……」

 クロスをまとったときのあの態度は、ちょっと酷すぎだ。

 そりゃあ、自分でも時々口が悪いと思うことはあるけど、あんなふうに叫ぶことはそんなにしない……はず。

 ソファの柔らかい背もたれに体重をかけて、純麗はまたモヤモヤとしていた。

「疲れ気味かい?」

 と、マスターが純麗の顔を覗き込んだ。

 油断していた純麗は慌てて取り繕った。

「えっ! あ、まぁ……うん……その。ちょっと、いろいろあって……」

「そっか」

「あっ……ご、ごめんなさい。お財布、持ってきてないんです……あたし、慌てて出てきたから、手ぶらで……」

「今度でいいよ。何か食べるかい? お腹空いてるでしょ」

「あー……実は、西京漬け食べようと思ってたんです……家で……」

「あるよ。鮭でよければ」

「えっ、ほんとぉっ!? あたしサバよりシャケが好き!」

「ちょっと待っててね」

 マスターは背を向けて、店奥の暖簾に姿を消した。

 この店にはなんでもある。

 純麗が小学生のときから、注文して出てこなかった品はない。

 やはり魔法の店なのだ。

 純麗はクリーネに目をやった。人形のふりをしているが、どこかうだつの上がらない表情をしている。やはりケガチ女王のことで思うところがあるのだろう。

 純麗はテーブルに手をつき、クリーネに顔を近づけた。

「まぁ、なんていうか……向こうにも事情があるんでしょ? あたし、そんなに気にしてないからさ……」

「純麗、優しいの」

 純麗は顔を赤くした。

「そ、そんなんじゃない、このケジラミっ……──ただ、こうなるとあたしだって困るよ……もし、また今回の未夢みたいなことがあったら……」

 と言いかけて、やっぱり純麗は口を閉ざした。

 頭にある疑問が浮かんだのだ。

 それはクリーネには関係ない個人的なことだが、考えてしまうと思考がループしてしまう。

「どうしたの?」

 純麗のわかりやすい顔に、クリーネは問う。

 純麗はその顔のまま答えた。

「いや、ふと思ったんだ……〝また、未夢みたいに人質を取られたら〟って思うと不安だったんだけど……あたし、いったい誰を人質に取られるんだろう……」

 その言葉の意味がクリーネにはわからない。

 もう一度聞き直してしまう。

「どういうことなの? 僕、わかんないの」

「……知ってる人が人質に取られたら……例えば、今度は未夢じゃなくて、両親を人質に取られたら、あたしどうするのかなって思ったんだ……あたし、あの人たちが家族だって実感があんまりなくて……」

 家に帰っても一人でいることが多い。

 これは子どもの一方的な感情だが、純麗にとっての両親とは「信頼」という単語を出すのに忌避感を覚える距離にある存在だ。

 そんな自分の中にある本性を見るのが、純麗は怖くなった。

「もし二親を人質に取られたら、あたしはどうするんだろう……見捨てたりはしないと思うけど……その……本当に助けようとするのかなって……あんたみたいにできないから……」

 クリーネの姿を見て、純麗はより一層そう思った。

 きっと、自分にはクリーネがケガチにしたような直向(ひたむ)きな態度までは取れない。そこまでできる自信はなかった。

 だが、クリーネは言った。

「なに言ってるの! 純麗はこの子ことで怒ったの。すっごい怒ってたの!」

「えっ──」

「それだけは本当の気持ちなの!」

「……そっか……」

 そっか。あたし、未夢のことであんなに怒ったんだ。

 あたし、人のために怒れるんだ。

 それを自覚したとき、純麗は少し嬉しくなった。

 何かが変わるかもという期待。それが少しだけ形になったのかもしれない。

「──西京漬け定食、お待ちどうさま」

 純麗の前にお盆が置かれた。

 乗っかっているのは、鮭の西京漬け。白米とトマトのサラダ。豆苗と油揚げの味噌汁だ。

「えっ……これって……」

 どういうことだろう。

 それは純麗がその日に考えていた夕食の献立とまったく同じものだった。

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