第一章「 Lilycal‐Cloth(リリカル クロス)」03
03
その光を上空で感じたのは、顔の半分を覆うほど大きなバイザーを着けた男だ。
ドレスのような軍服。
ハナカマキリのような風体。
女王親衛隊隊長のスロゥ・バンである。
太い肩幅はまさしく軍人そのものであり、背筋は鉄のように真っ直ぐだ。
「──女王の波動……?」
「スロゥ隊長!」
兵士の一人がスロゥに声をかけた。
「あそこに感じるものはっ──」
「どう嗅いでも女王のリリックだ。しかし、ケガチ殿とは揺れ方が違う……」
「……どうなさいますか?」
「私が行こう。お前たちは引き続き周辺を探せ。ケガチ殿は近くにいるはずだ!」
「はっ!」
「……何があるというのだ……」
ふわりと、スロゥは服をなびかせて地上に降りた。
彼が着地したのは、駅に向かっていた純麗たちの前だ。
「……ゾウリムシの次は、ハナカマキリっ……」
純麗はひと目でそう言った。
スロゥの目を大きなバイザー。ヒラヒラとしたドレスのような軍服。見れば見るほどハナカマキリだ。その複眼のようなバイザー中の視線が、おそらくクリーネに向いた。
「これはこれは、クリーネ殿ではありませんか! 城内で見かけないと思ったら、こちら側においでとは!」
「親衛隊隊長のスロゥ・バン……なぜ、結晶化を進行させるような行為をしているの!」
「女王陛下の命(めい)です」
「女王様はケガチ様なの!」
「第一王女たるケガチ様が姿を晦(くら)ませた以上、第二候補のツツガ様が座につくのは当然のことです。我らが女王は今、ツツガ様であられる!」
「ケガチ様はクーデターから逃れるためにここへ来たの! 忠義があれば、御身をお守りするのが道理なの! こんなの親衛隊のすることじゃないの!」
「では、《女王のクロス》を持ち出すその行為は正しいと仰っしゃられますか。それこそ、仕立師の職権乱用ではありませんか!」
「ケガチ女王のために編んだリリックは、ケガチ様に渡るべきなの!」
「否、今はツツガ様のものである!」
スロゥは衣服を翻らせた。
すると、ぼんやりと波動が広がる。圧力(プレッシャー)のようなものを感じて、純麗は息を呑んだ。彼の衣服もまた《リリカル・クロス》という魔法の布なのだろう。
その圧に、純麗たちを守っている暖かい光が押し潰されそうだ。
「それをツツガ女王へ献上せよ! 抵抗するのであれば、仕立て妖精とはいえ、少々手荒なことをさせて頂く!」
スロゥの言葉とともに圧力が増していく。
自分を守る光が収縮していき、純麗は怖くなった。
しかし、そんな中でも、クリーネは強い意志を持ち続ける。
「渡せないっ……このリリックは絶対に渡せないの! ケガチ様、どこにいるの! クリーネはここなの──ッ!」
時の止まった世界にクリーネは叫んだ。
声は結晶化した街に広がった。だが、答える者はいない。
スロゥが言う。
「ケガチ殿はいらっしゃらないようですな」
「ううっ……ケガチ様ぁ……」
自分の腕の中で震えるクリーネを、純麗はぎゅっと抱きしめた。
泣くな。止まらないでくれ。
勝手な期待かもしれないけど、あたしが見たいものはそんな姿じゃないんだ。
あなたがもっと強く激しく望む姿を見たい! そうすれば、あたしだって何かを感じられそうなんだ!
純麗のそう願う指先が、偶然、クリーネが抱いている《女王のクロス》に触れた。
その瞬間、ケースの中身が太陽のように輝いた。
「なにっ!?」
その輝きにスロゥが目元を腕で覆う。
顔が見えなくとも、口元からそのたじろぎが伺える。
中に収められた《女王のクロス》が純麗に反応していた。
「女王の適性っ!? 現地人がリリックを扱えるのか!?」
「──す、純麗……リリカル・チェンジするの!」
クリーネの思わぬ言葉に純麗は聞き返す。
「はっ……な、なにっ……?」
「純麗が女王様のクロスを纏うの! もう、それしかないの!」
「あ、あたしがっ……」
クリーネの提案に驚くのはスロゥも同じだ。
「陛下の纏衣(まとい)にそこまでするかっ! クリーネ殿はぁあああっ!」
「すべては真の女王たるケガチ様のため! 純麗、お願いっ!」
半ば押し付けられるように、純麗はクリーネから筒型ケースを渡された。
握るのにちょうどいい大きさ。先端部分に突起がある。親指でそれを解除できる構造に見える。
「純麗ぇっ!」
迷いはある。
数分前にあったばかりの謎の小動物。ハナカマキリみたいなバイザーの男。
女王ってなんだ。クリスタル・キングダムってなんなんだ。
あたし、状況に飲まれていないか?
惑わされて、混乱して、おかしくなってるんじゃないの?
だけど、その先に何かがあるのなら──
もし、自分が変われるのだとしたら──
迷いをかき消すように、純麗は叫んだ。
「──リリカル・チェエエエエンジッ!」
カチリッ、先端のロックを解除した瞬間、《女王のリリカル・クロス》の封印が解かれた。
筒型ケースが掃除機のように純麗の制服と下着を吸い込み、代わりに長いフリル付きの布が飛び出して、純麗の体に張り付く。
フリルは広がり、スカートのような形状に変化する。一部がアームカバーとなり、一部が靴に変わる。女王の纏衣とはこのドレスのことだ。
光がやんだとき──純麗は女王の正装を纏っていた。
「やったの!」
純麗の変身にクリーネは喜ぶ。
しかし、純麗は困惑だ。
「……なんか、短くない……?」
そのドレスは明らかに純麗とサイズが合っていなかった。
大切な部分は隠れているが、肩と背中はむき出しで、腹部も丸出し。太ももだってミニスカート並みの開放感だ。そのドレスはまるで丈が足りていない。
「こんなのっ……ほとんど水着じゃねーかぁっ!」
「だって、小柄な女王様のために仕立てたクロスなの。でっかい純麗に小っさいのは仕方ないの」
「なっ……やだ、これ恥ずかしいよぉ……」
純麗は腕で体を隠す。
しかし、それをするのが2メートル16センチ、103キロの体格だから、クリーネが容赦なく言う。
「気にしてる場合じゃないの! そんな性格してるように見えないの!」
「んなぁっ──」
そう言われては純麗も穏やかではない。
クリーネのモコモコした体を、胸ぐらを掴むような勢いで鷲掴みにした。
「ふざけんな、このゾウリムシぃ! あたしだってなぁ! 身長2メートルあったって、ときめきキュートな女の子なんだよぉっ!」
「2メートル16センチ5ミリなの! 仕立師の前で体型ごまかしちゃ駄目なの!」
「すり潰すぞっ!」
その様子を、スロゥは横を向いてバイザーを逸していた。
まるで「なにも見ていないぞ」という態度で、落ち着いた声を発する。
「乙女がむやみに肌を晒すものではない。直ちに《女王のクロス》を収め、こちらに差し出せ」
「めっちゃ紳士なんだけど、あの人……」
「──スロゥ・バンは親衛隊隊長なの。クリスタル・キングダムで一番のリリック使いなの!」
「へっ……」
「純麗、絶対に勝てないの! 時間切れまで頑張って逃げ回るの!」
「そうなるのぉっ!?」
純麗はクリーネを抱きかかえて、後ろに跳んだ。
駆け出す瞬間の、ちょっとした助走のつもりだった。
しかし、その瞬間、地面が破裂する。
「へぁッ!?」
一瞬で、純麗は高層ビルを飛び越えるほどの跳躍をしていた。
町がジオラマのように小さい。雲に触れられそうだ。
空の向こうには地平線の丸み。
まるで重力が消えてしまったかのような感覚。というより、時の止まったこの世界には元々重力なんてなかったのだろう。
「純麗、走るの!」
クリーネが叫んだ。
純麗は無意識に空中を蹴った。すると、激しい衝撃波が生まれて前に進む。何もない所を地面と同じように走れる。
駅から一気に離れてしまった。
「……っ……すごいっ……けどっ……」
出力に振り回されている、と純麗は感じた。
おそらく、この《女王のクロス》とはもっと大きな力を秘めていて、自分はそこから漏れ出した波に流されているに過ぎないのだ。このエネルギーはまったく制御下にない。
でも、今はそれでもいい。
もう後に引けないところにいるのだから。
この激流が体内を駆け巡っているせいか、純麗の心臓が高鳴る。闘志が湧いてくる。
「──あれは、女王のリリック!?」
「──現地人が! 不届き者め!」
建物の影から兵士が二人飛び出してきた。
彼らの袖が光を放ち、網のような形状に広がった。
それを見たクリーネが叫んだ。
「純麗、蹴って!」
ああ、この《女王のクロス》のせいだ。感情がぜんぶむき出しになる。自分の心の内側が裏返って表に出てくるかのよう。
純麗は腹の底から全力で叫んだ。
「うぉおおおあああっ! 邪魔すんなクソムシどもッ!」
宙で回し蹴りを放つ。
脚先から溢れた虹色の圧力が、襲いかかってきた光の網を弾いた。
弾いたネットの背後から、二人の兵士がロケットのように加速して飛んでくる。
「──逃すものか!」
「──おぉう!」
「純麗、イメージするの! リリックは心を表現する魔法! 《女王のリリカル・クロス》なら、なんだってできるはずなの!」
「そういうの苦手だッ……なんでもいいってのが一番子供を迷わせるんだよッ!」
正面から襲いかかってくる二人の兵士は、体を煌(きら)めかせる。
全身を包むそのオーロラは肉体の強化だ。
「あれを真似すればぁあああああッ!」
純麗は兵士らと同じオーロラをイメージした。
強い光だ。それが純麗の肉体を強くする。
「──なにっ!?」
「ちょっと肌を出したからって寄って来やがって、このカトンボどもッ! あたしは夏場でも長袖なんだよぉッ!」
純麗は右手で兵士の一人の顔面を平手打ちした。その一瞬、彼の顔面は真っ平らに潰れた。
その勢い腰を捻り、もう一人の兵士に蹴りをかました。足の甲が見事に延髄(えんずい)を捉え、彼の意識を彼方へ直送した。
二人の兵士は落ちてゆく。
「蚊取り線香でも食って、くたばりやがれッ!」首を掻っ切るジェスチャーだ。
そのまま純麗は地面をイメージし、宙に着地する。
しかし、そのリリックの足場に向かって光弾が飛んできた。
「足止めをするだけっ……」
追いかけてきたスロゥの攻撃だ。
足場がバンッ──と弾けると、反射的に落下をイメージしてしまう。
「ぬおぁっ!」
純麗は自分でイメージした重力に捕らわれて地面にぶつかった。
スロゥは滑らかな浮遊で純麗の元へやって来る。
「くっ……くそっ!」
立ち上がった純麗は構え直す。
「よせ! こちら側でリリックを使いすぎれば、結晶化が進行してしまう!」
「なにぃっ……」
「《女王のクロス》を汚(けが)すわけにも行くまいか……純麗殿と言ったな。そのクロス、こちらにお渡し頂けないだろうか」
スロゥは手を伸ばし、ゆっくりと歩を進めた。
純麗は抱いていたクリーネを離した。
そして、見せつけるように握り拳を固めた。
「諦めて帰れハナカマキリ野郎ッ! 手ぇ出そうってなら、こっちも手ぇ出すぞッ!」
「リリックで心を暴走させているな……よせ!」
「言ったぞッ!」
純麗の正拳突き。
……に見せかけたそれはスロゥに届く前に軌道を変え、代わりにローキックが放たれた。
スパァアアン──と、生ハムブロックを叩きつけたような音が、無防備だったスロゥのふくらはぎから鳴る。
「ぐぅっ──」
「おらぁああっ!」
肋の下、〝月影(つきかげ)〟と呼ばれる部位はボクシングで言うところの左レバーだ。
純麗はそこに中指一本拳をめり込ませた。
かと思えば、顎に向かって飛び膝蹴りだ。スロゥの体がのけぞる程の衝撃を与えた。
「しゃあッ!」
スロゥの体は十数メートル吹っ飛んだ。《女王のクロス》で跳ね上がった身体能力をもろに受けた。
しかし、スロゥは宙でふわりと姿勢を正す。
空中で二回転、三回転。
それで静止した。
「……部下が無礼を働いた詫びは、これで済ませてもらおうか」
太く落ち着いた声で、平然としていた。
子供のじゃれ合いにつきあってやった大の男の反応だ。
流石の純麗も驚く。あれで走って逃げるくらいの時間は稼げるつもりだった。
「……ちぃっ……まだ増えやがるッ……」
いまの波動に気づいたのだろう。数人の兵士が駅側からやって来るのを純麗は感じた。
「スロゥ隊長!」
「お怪我は!」
それをスロゥは手で制した。
「問題ない。それより、ケガチ殿は?」
「見つかりません!」
「そうか。ふむ──」
スロゥは空を見上げた。
割れたガラスのように空いた穴。その周囲が歪み始めていた。
「大人数で来すぎたか。時間切れだな……」
身構える純麗に、スロゥは声をかける。
「ここまでにしよう。二度と戻らなくなるぞ」
「なにっ……」
「今日は引く。クロスはすぐに封印せよ。貴殿の世界も結晶化に呑まれるぞ」
「…………」
純麗は、後ろに隠れているクリーネに視線をやった。
すると、クリーネはうなずいた。
「退却だ!」
スロゥと兵士たちは空の穴へ飛んだ。
全員が消えると、穴も閉じて、不気味な雰囲気も和らいだ。
クリーネが純麗の足元にやってきた。
「純麗、もう大丈夫なの。クロスを解いて」
「んっ──ああ……」
クリーネに声をかけられて、純麗は筒型ケースに意識を向けた。
すると、ドレスがフリルに戻り、《リリカル・クロス》はケースの中へ引っ込んだ。ケースからは制服が吐き出され、純麗の体へ元通りになる。
リリックの力が抜け、普通の肉体に戻った途端、一気に疲労感が押し寄せてきた。
「……終わっ……た……」
なにかフワフワした感じがする。
頭がぼんやりする。低血糖やガス欠の感覚だ。
あんな激しい感情で高ぶっていたはずなのに、気分も萎えてきた。
「慣れないリリックを使ったから、きっと心が疲れちゃったの。ゆっくり休むの」
「ねぇ……この結晶化ってのは……」
純麗は相変わらず虹色に輝く冷たい世界を見回した。
「大丈夫。待っていれば少しずつ溶けていくの。純麗、助けてくれてありがとうなの!」
「別に──」
「でも、ごめん。純麗のこと巻き込んじゃったの……」
「……いいよ……」
純麗はよく考えずに返事した。
気疲れで頭が働かない。何もかもが億劫になっている。これがリリックという魔法の力の反動なのだろうか。
胸の高鳴りが止んでしまうと「あたしはなんでこんなことをしたんだろう」と思わなくもない。ここまで勢いに任せて走って来たが、落ちついてみると、帰りは徒歩だからガン萎えだ。
鞄など、あの歩道に置きっぱなしじゃないのか。
いつもどおりの落ち着きを純麗は取り返しつつあった。
ふと、クリーネに目をやると、
「……ケガチ様……どこなの……」
時の止まった商店街に向かって呟いていた。
クリーネの女王を探しにという問題は、まだ何も解決していないのだ。
それから、結晶化が溶け、
「ここ、好きに使いなよ」
夜、マンションの自室にて、純麗は自分の家の押し入れに適当なスペースを作り、そこにタオルを敷いた。
「あんたみたいなのがウロチョロしてたら目立つからさ。しばらくは、そこで」
「うん! そうするの! 純麗、お休みなの!」
空元気なのか能天気なのか、クリーネはちょこんと座り、小さな手を振った。
「……お休み……」
純麗は押し入れの扉を閉じ、部屋の電気を消した。
あれから数時間経過したが、まだ現実感がない。
女王、クリスタル・キングダム、リリックという魔法、バイザーの男……
暗い部屋の中、純麗は手探りでベッドにうつ伏せになり、やっぱり夢でも見ているのではないかと自分を疑った。目を閉じて、再び開けた時には元に戻っているのではないだろうかと思った。
クリーネは寝息も立てないのだ。
「…………」
あたし、なにか、大きなことに首を突っ込んでしまったんじゃないかな。
現実だとしたら、抱えきれないほどの問題が迫ってくるような、そんな予感がする。
自分では排除しきれない、不可避な濁流が押し寄せてくる気分。それはとてつもない不安感だ。
純麗は怖くなって、それを振り払うために、それを始めた。
別室の両親と、押し入れのクリーネに聞こえないよう息を殺して、熱い吐息を吐いた。
「……ふっ……はぁっ……」
気持ちよくなんてない。
不安をかき消したくてやっている、ただの習慣だ。
自分のこと、将来のこと、今のこと、明日のこと、考えると暗闇が襲ってくるようで怖くなる。きっと自分には芯がないからだ。大切なものも、それに対して必死になる感情もないから、自分はこんなに臆病なのだ。
教えてよ、あたしの大切なものってなに?
どうしたらこの怖さはなくなるの?
わからない、わからないよ、誰か助けてよ……。
純麗はその行為をなるべく長引かせて、果てた瞬間からはぐったりとした感覚に浸り、感情を忘れて眠りにつく。
そのために、毎日、下着を濡らす。
仰向けになって、ぼうっとした頭でやっと眠りについた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます