第一章「 Lilycal‐Cloth(リリカル クロス)」02

   02


 そこは別の時空──虹色に輝く大地の世界。

 山も海も宝石のように輝き、空まで満遍なく照らす。影が見当たらないほど眩しい空間だった。

 その世界に唯一存在するクリスタル・キングダムは、複数の種族と妖精の生きる女王国家だ。街の中央に建つ巨大なビスマス結晶のような建物が、女王の住む城だ。

 その城内が騒然としていた。

 ローブを纏った兵士たちが大きな通路を走り回っていた。

「倉庫にもおりません! 庭園で目にした者もいないと!」

「奥部屋にも痕跡はありませんでした!」

「女王陛下は身支度もせずにっ……まさか、誘拐では──」

 すると、隊長らしき男、まるでハナカマキリのように大きなバイザーをつけた軍服の男が言う。

「女王の器を持つお方だ。賊如きに不覚を取らん。自ら城を抜け出したのだ。手助けをした者がいるはず──それより、君!」

「は、はい!」

「女王ではない。〝元〟女王だ。誰に仕える身であるか間違えてはならない」

「はっ……はい!」

「捜索を続けよ。風呂係、側近、御賢母様へ聞き込みを……──待てよ。誰か、仕立て妖精のクリーネ殿を見た者はいるか!」

 兵士たちは互いの顔を見合わせた。

 誰も見ていない、という様子だ。

 ハナカマキリの男は言った。

「探せ! 女王のリリックを、城から出すことはまかり通らん!」

「はっ!」

 兵士たちは散り散りに城内を駆けた。

 その様子を天井の柱の影から見ていたのは、スリッパほどの小さな妖精だ。

 白いモコモコした毛。顔らしき部分に目と口があり、頭頂部から耳らしきものが生えている。

 その妖精は、肩のような部分に掛けていたショルダーバッグを抱きしめた。

「大変なの……ケガチ様がいなくなっちゃったの……きっと、一人で向こうの世界へ行ってしまったの……」

 その鞄の中にある筒型ケースが虹色に輝いた。

「リリックが求めている……やっぱり、女王様のリリックはケガチ様のものなの! クリーネがお助けしなきゃなの!」

 仕立て妖精のクリーネは、柱から柱へ、天井や外壁を伝って、兵士たちに見つからないよう、城から抜け出した。

 そして、虹色の空に向かって飛んだ。

「ケガチ様ぁ! いま僕が助けに行くのーっ!」


   ◆


 喫茶店カガリは、純麗が小学生頃からある店だ。

 両親が共働きなので、純麗は一人で食事をすることが多い。

 しかし、子供に火を使わせるのは怖かったのだろう。両親は純麗になかなか自炊をさせず、お金を渡し、いろんな店に行くように言った。違う店に通えば栄養も偏らないという願望だ。

 言われたとおりにしていた純麗が見つけたのが、この喫茶店カガリだった。

「こんにちはぁ……」

 と、ドアベルを鳴らし、純麗は頭をぶつけないよう扉を潜った。

 内装に目立ったところはない店だ。木製のテーブルに、木製のイス。白い壁に、白いカーテン。シンプルなカウンターテーブル。各席には紙ナプキンと砂糖の瓶。足りない道具はなく、余計な装飾もない。

 純麗はテーブル席に着いた。四人掛けの席だが、この店は客がほとんど来ない。いつも純麗の独り占めだ。

 カウンターの前に座らないのは、その2メートル16センチ、103キロの巨体ではうまく座れないというのもあるが、何より店のマスターと顔を合わせるのが恥ずかしいからだった。

「いらっしゃい」

 とマスターが水とおしぼりを持ってきた。

 黒いエプロンと黒い髪、年齢不詳な青年だ。

 顔立ちが整っていて、清潔感のある、表情の崩れないまるで人形のような人。

 純麗は彼の名前を知らないし、聞こうと思ったこともない。自分にとって彼は「喫茶店のマスターさん」であって、それ以外の何者でもあってほしくないからだ。

「なに食べたい?」

 と問われて、純麗は黒い髪をかき上げる。

「え、えっと! お腹空いたから、なんか定食みたいなものが食べたいなぁ……で、でも、肉は昨日食べたから、今日は魚がいいかな……って……」

 彼の前だと少し子供っぽい口調だった。

「いいマグロが入ってるよ」

「じゃ、じゃあ、マグロカツ定食!」

「うん。待っててね」

 マスターは背を向けて、カウンター奥の暖簾へ消えた。

 料理が出てくるまでの間、純麗は体を揺らして、鼻歌を歌って待つ。

 ここは純麗にとって自宅以上にくつろげる空間だ。日が暮れるまで宿題をすることもあるし、読書することもある。何回か昼寝をしてしまったことがあったが、目が覚めると毛布がかけられていた。

 この店は、外界と遮断されているようで、安心できる。

 まるで魔法だ。この店には魔法がかかっているのだと純麗は心の何処かで信じていた。

 窓の外、歩道を眺める。

 通りゆく人々……日傘を差している女、大荷物の自転車の男、何かしらの話題に夢中な同世代の子たち。ランニングしてる人。

 純麗はそれをじっと見つめて、見えなくなるまで目で追いかける。

「……なにか悩みごと?」

 マスターが、アイスティーを純麗の前にそっと置いた。

 ミルク多め、ガムシロップはなし。既にマドラーでよく混ぜられた状態で出てくるそれは、いつの間にか注文しなくても純麗の前に出てくることになっていた。

「これはサービス」

「あっ……い、いつもありがとうございます……」

 純麗は顔を赤らめて、両手を膝に置く。急いで内股だ。

「なにを考えていたの?」

「……今日もバレー部に誘われたんだ……あと、映研にも……」

 アイスティーのグラスに触れると、冷たい濡れた感覚が指先に広がった。

 その冷たい感覚のような声を純麗は出す。

「でも、やっぱり断っちゃって……入っていいのかどうかわからなくて……。自分が何かに熱中できるとは思えないし、なんだか場違いな気もしちゃって。人の領域に土足で踏み入るような気がするの、別にあたしにとっては大切でもなんでもないのに──」

 言葉にしてみれば、この上なく傲慢な悩みかもしれない。

 自分は運動神経が良くて、他人より遥かに体躯に恵まれている。だから、スポーツでは何をやっても有利で、他人の努力を簡単に押しつぶせてしまう。

 だけど、そこに勝利の快感はないのだ。悪いことをしている気分になる。

 子どもたちの集団に入って偉そうにする大人のようで。

「でも、それで逆に思っちゃうんだ。じゃあ、あたしにとっての大切なものってなんだろうって……」

 すると、マスターは少し屈んで純麗の顔を覗き込んだ。

「初めから大切だなんてことは、ないんじゃないかな?」

「えっ──」

「続けていくうちに、それがだんだん大切に思えてくるものなんだよ。初めからそこにあるんじゃない。自分の心の方が育っていくんだ」

「心が育つ……?」

 そんな風に考えたことはなかった。

 純麗にとっては衝撃的な台詞だ。

「めぐり合わせだよ。今日の帰り道、きっとそんな事があるかもね」

「…………」

「そろそろ、馴染んだ頃だ」

 マスターが姿勢を起こした。

 マグロカツの下味がついたという意味だろう。

 彼は足音も立てず静かにキッチンへ消える。

「……今日の帰り道……」

 純麗はもう一度窓の外を見た。

 商店街の向こう、空の下に見える十階建てL字型マンションの輪郭。それが自分の住んでいるマンションだ。ここから徒歩で七分ほど。そんな短い間になにかがあるというのか。

 でも、この店には魔法がかかっている。

 だから、あのマスターの言葉だって魔法かもしれない。

 やって来たマグロカツ定食を食べながら、純麗はそう思うことにした。

 白米、味噌汁、茶碗蒸し、漬物。キャベツの千切り。小鉢の冷奴。

 冷奴には小ネギと生姜が乗っているが、醤油はかかっていない。それが絶妙で口の中をさっぱりさせてくれる。

「……んっ。おいしい……」

 店の中で一人、純麗は頬を緩めて箸を進めた。


 夕刻になり、純麗は喫茶店カガリを出た。

 胃袋が満たされると、不安感が少し和らぐ。

 外はまだ明るい。部活をやっている子たちは、練習に火がついて一番集中している時間帯だろう。映研の未夢は、たぶん、視聴覚室で流されている映画に熱中して前のめりになっているはずだ。

 自分には、何もない。

 さっさと家に帰るだけ。

 帰って何をするわけでもないが、ただ、退屈しのぎに何かしらするのだろう。

 そんな風に考えながら、歩道を歩いている時だった。

「──のわぁあああああっ!」

 空から悲鳴が聞こえてきた。

 人間的ではない、どこかファンシーな抑揚の声色だ。

「えっ──」

 純麗が顔を上げて、上空に目視したのは、白いモコモコした小動物だった。

 スリッパほどの大きさ。見たことのない生き物。

 それが真っ直ぐ純麗の顔面めがけて落ちてきた。

「のわわわわわぁああああっ!」

「──うわっ! 危なっ!」

 純麗は横に跳んでそれを避けた。

 べちゃり──と、純麗の真横を掠めた小動物は地面に張りついた。

「ぐぇええええっ……なの……」

 ……喋った。

 人の言葉だ。しかもはっきりとした日本語の発音だ。

 純麗は目を丸くする。

「な、なにこれ……大きいゾウリムシ?」

「ううっ。痛いのぉ……もう。避けるなんてひどいのぉ!」

 その謎の生き物は起き上がって、純麗を見上げた。

 純麗は絶句するしかない。

 その戸惑いの表情に、白いモコモコの小動物も目をパチクリさせてから、叫んだ。

「あれぇ!? ケガチ様じゃないの! リリックが反応してたのに……誰なの!?」

「こっちの台詞……」

「あっ。僕はクリーネなの!」

「……あたしは純麗……」

「うん。純麗、よろしくなの!」

 クリーネは手と思われる部分をにょっきり伸ばした。

 たぶん握手だろうと、純麗はしゃがんで、摘むようにそれ握ってみる。

「はっ! それどころじゃないの! 僕、女王様を探してるの!」

 クリーネは跳び跳ね、辺りをキョロキョロ見回す。

 それから純麗に問うた。

「純麗っ、女王様を見てないの!?」

「女王様って……あなたの? あなたみたいな小動物は初めて見る……」

「僕、女王様を探しにこっち側の世界に来たの! 女王様にリリックを届けないとなの! 早く見つけないとなの!」

「なに……そんなんいきなり言われても……せ、説明してくんなきゃ……」

「言われてみれば何も説明してなかったの」

「急に冷静になるな」

「でも、話すと長くって──」

 とそこで、ぞわりっ! クリーネの全身の毛が逆立った。

 そして、自分が降りてきた空を見上げて、体を小刻みに震わせた。

 不思議なことに、純麗も同じ感覚に襲われた。

「……っ! な、なにっ……これ……」

 緊張感だ。空気がひび割れて、世界が冷たい炎に包まれてしまうような、恐ろしい予感がした。それが次第に現実に変わる。

 空が光を失ったのだ。

 まだ日は沈んでいないはずなのに。

 クリーネが言う。

「ま、まさか……親衛隊が僕を追って……」

「な、なに……」

「大変なの! こっち側が《結晶化》しちゃうのぉおおお!」

「──っ!?」

 瞬間、空が虹色に変化した。

 綺麗な虹ではない。水彩絵の具のバケツを引っくり返したような、どす黒い虹色だ。

 それが広がり大地を呑み込むと、世界は時が止まったかのよう冷たくなった。

 標識も、信号も、建物みんな凍りついた。

 人間もだ。

 道行く人々が、まるで彫像のように結晶に包まれて停止した。

 無事なのは純麗と、そのクリーネという小動物だけだ。

 ほんのりとした温かみが二人を包んでいた。

「……その、中身……」

 純麗はクリーネのショルダーバッグに目を向けた。

 なんとなく感じる。その中身にある〝なにか〟が結晶化とは逆のエネルギーを放っている。その光に包まれているから、自分は無事なのだ。

「女王のリリックなの……そっか。これが君を守ってるの……」

「女王の……なに……」

「それより、早く行かないとなのっ!」

 クリーネは小さな脚で駆け出した。

「待ってよ!」

 純麗は慌ててそれを追いかけた。

 おそらく、あのショルダーバッグから漏れている光から離れてしまうと、自分も結晶化してしまう。そんな現象に思えた。

 クリーネは全力で走るが、小さな脚による二足歩行なので速くはない。純麗の速歩きと同じ程度なのですぐに追いついた。

 純麗はクリーネが走る方向を見た。

 空に大きな穴が空いている。ガラスを無理やり砕いたようなヒビ割れた穴だ。

「なにが……起きてるの……」

「僕の故郷クリスタル・キングダムでクーデターが起きたの! 女王様はこっち側に逃げてきたけど、新しい女王様の命令で親衛隊がそれを追って来たの!」

「ク、クーデターぁ?」

「だけど、次元が繋がっていると、二つの世界が融合して結晶化を起こしてしちゃうの!」

 二つの世界の融合、それがこの《結晶化》という現象らしい。

 次元を繋ぐと起こる……? このまま放置するとどうなるのかわからないけど、間違いなく碌(ろく)なことにはならないと、純麗は思った。

「つまり、その親衛隊ってのが用事を済ませて帰れば、これも元に戻る……?」

 そうなるはずだ。

 二(ふた)世界の接続を切れば結晶化する理由はなくなる。

 クリーネはゆっくりと足を止めた。

「……そうなの……」

 だが、振り返ってこう言った。

「でも、それじゃあ駄目なの! 女王様が連れ去られる前に、僕は女王様に《リリカル・クロス》をお渡ししなきゃいけないの!」

 クリーネはショルダーバッグから筒型のケースを取り出した。

 その中から光が溢れている。

 それだ。それが純麗を結晶化から守っている力だ。

「僕たち仕立て妖精が編んだ魔法のリリカル・クロス……その中でも特別なこの《女王のクロス》は、真の女王たる証なの! これを僕は女王様にお届けするの!」

 クリーネはまた走り出した。

 純麗は離れるわけにもいかず、それを追う。

 向かっている空の穴は、街の中心街である葉桜駅の辺りだ。このペースだと一時間以上かかるだろう。

 行ったところで間に合わないだろうなと、純麗は思った。

 それでもクリーネは一心不乱に走り続ける。

 その背中に純麗はつい問うてしまう。

「あのさ……どうして、そんな一生懸命になれるの……?」

 純麗にはわからない。

 なぜ、何かを大切に思うのか。

 どうして、そんなに必死になれるのか。

「女王様はきっと僕の助けを求めてるの!」

 クリーネはそう答えた。

「女王……そっか。国にとって大切な存在だもんね……」

「そんなんじゃないの!」

 クリーネは叫んだ。

「ケガチ様は僕のお友達なの! 困った時はお助けするのがお友達なの! 僕が行かなきゃ、ケガチ様は一人ぼっちなの! ケガチ様は僕の大切な人だから! だから、行かなきゃならないの!」

「大切な……人……?」

「そうなの!」

 大切な人──その言葉が、純麗の中に響く。


 ──めぐり合わせだよ。今日の帰り道、きっとそんな事があるかもね。


 さっき聞いた喫茶店カガリのマスターの言葉だ。

 魔法のお店で聞いた、魔法の言葉。

 純麗は走るクリーネを掴んで、片手で抱きかかえた。

「掴まって。走るっ……」

「えっ!」

「あなたの大切なもの、あたしも見てみたいっ……」

 そうすれば、こんな自分でも、なにかを感じられる気がする。

 そう信じたくなった。

 純麗は走った。

 時の止まった歩道を、道路のど真ん中を、渋滞している道はボンネットを踏み越えて跳んだ。

 圧倒的な速さだ。景色は点描画のように過ぎ去る。

「す、すごい! 純麗、速いの!」

「当然っ……あたしがその気になればフルマラソンなんて90分なんだ!」

 天性の体躯──それに加えて、クリーネが手にしていた《女王のクロス》が純麗に力を与えていた。純麗は人間ではありえない速さで駆けていた。

 しかも、不思議なことにまったく疲れない。

 息も切れる様子がまるでない。

 その理由は純麗自身にもわからなかったが、そんな思考すら振り切ろうと両脚を動かし続けた。交差点も、止まった信号も一気に駆け抜けた。

 歩けば1時間かかる距離。それを2分も立たないうちに、純麗は駅近くの商店街に着いた。

 上空に大きな穴が空いている。その先に別の世界があるらしい。純麗が目を凝らすと、城のような建物が薄っすらと見えた。

 そこからヒラヒラした服装の兵士たちが降りてきた。

「……あれはっ……」

 クリーネが手にしている筒型ケースが反応し、強く輝いた。

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