第98話 平和の訪れ②
さて、外国だけでなく日本の問題も片付けておきたい。
日本においても好景気と戦勝で国民の気分が高揚し、政府への信頼が高い状態の現時点でしか出来ないこととして、大日本帝国憲法の修正を行うべく検討中だ。
といっても誤解があるかも知れないので断っておくが、大日本帝国憲法は戦前の暗く、古い世相を代表するものとして認識している人が多いのではないか?
というより、正確な内容も知らないまま、左翼の言うがままに「封建的で、古臭く、あり得ない憲法だった」と思っている人が殆どだろうが、実は大変に開明的で進んだ憲法だった。
大日本帝国憲法は皇帝の権限の強かったドイツ憲法を参考にしていると言われるが、少し違っていて日本の歴史に立脚したものだった。
一例としては人権の扱いだ。
当時のヨーロッパにおいては「人権」の規定がない国は文明国とは認められない状況だったが、この基準はキリスト教によるものだった。
「神」という絶対的な存在がいるからこそ、神によって作られたすべての人間は平等だという発想だ。
それをそのまま導入したのでは単なる猿真似と笑われるだけだったから、伊藤博文や金子堅太郎はその根拠を古事記に求めた。
したがって帝国憲法では人権という表現に代わって「臣民の権利」としたのだ。
我々は古事記の時代から「人権」は意識しているし白人に教えてもらう必要などないと主張し、神ではなく天皇の下での平等が実現出来ると考えたのだ。
更には聖徳太子の「十七条憲法」を参考にして、日本人のメンタルに合わせ「話し合いの結果による納得の政治」を理想とした。
ここまでの部分に全く問題が無いかと言えば時代的な限界があったことは事実で、この臣民の権利は「憲法の範囲内」とされていたことが最大のポイントだろう。
だが、アメリカを引き合いに出すと、何でも自由を許せば人間は堕落する。
一方で内閣や内閣総理大臣の権限を定めた条項が無かったのは事実だったから、この機会に明文化し、総理大臣の権限と責任を明確化しよう。
一般的に大日本帝国憲法とは天皇の権限が強かったと誤解されている風潮があるが、これはかなり違う。
なぜなら、大日本帝国憲法に先立って「五箇条の御誓文」というものがあったからだ。
天皇が天地神明に誓った内容の事を指すが、大日本帝国憲法はこれを基礎として成立していることを忘れてはいけない。
具体的内容を分かりやすく解説すると次の通りとなる。
・身分に関係なく全国から有能な人材を登用し、多くの意見を募って、会議で政策を決めよう。
・身分は違っても国民全員が積極的に天皇に協力して国を治めるべきだ。
・国民全員が自分のやるべきことを果たし、志を達成できる社会を目指そう。
・古い考えに囚われず、欧米諸国の新しい風習を積極的に取り入れて近代化を推進しよう。
・世界に習いつつ、日本古来の伝統や文化も大切にして天皇を中心に国を発展させよう。
以上の内容を基礎にして出来たのが大日本帝国憲法だから、多くの日本人は戦前の天皇は絶対権力者で、何でも出来たと思っているかもしれないが、それはとんでもない誤解だ。
第十三話の大日本帝国憲法のところで触れたように、この大日本帝国憲法では、政府の決定事項に対する天皇の拒否権は認められていない。
日露戦争と第二次世界大戦直前に開かれた御前会議における、和歌を詠んで「戦争はしたくない」との天皇の意思を表すという行為について何か思わないだろうか?
戦争に反対ならば「朕は開戦を望まず」と言えば済むのに、和歌を詠んで気持ちを伝えるなんて行動は迂遠な話だと思わないだろうか?
しかし実は「開戦反対」と直接発言するのは憲法違反だったのはもちろん、この和歌を詠むという行為すら厳密、杓子定規に言えば憲法違反だったと解釈される可能性があるのだと言えば驚かれるだろうか?
立憲君主制における君主とはそのような存在だからだ。
それでも万国共通の認識として、立憲君主にも言論の自由は存在している。
代表的な根拠としては立憲君主制の先進国であるイギリスの憲政史家ウォルター・バジョットによるものが有名で、立憲君主には「警告をする権利、激励する権利、相談を受ける権利」があるとされている。
よって先の御前会議において和歌を詠んで戦争に反対するとの意思を伝えたのも「警告権の行使」と判断されるわけで、それも認められないとなると単なる傀儡になってしまうし、日本国民はそれを望んではいなかった。
これの対極に相当する出来事として昭和20年、敗戦目前の御前会議において、重臣の意見が条件降伏か徹底抗戦かで三対三に分かれて収拾不能となった時、天皇は初めて肉声を発する。
「朕は外務大臣の意見を至当とする」と。
これによって降伏への道筋が作られたわけだが、これも帝国憲法の範囲内では不可能な発言だった。
発言が可能となった理由は、首相の鈴木貫太郎が天皇に対して判断を求めたからだ。
三対三に別れた時、鈴木首相が議長としてどちらかを選択して決することも出来たのに、それをしなかった。
余りにも重大な決定だから首相が判断してはいけないと考えたのだ。
いわば鈴木首相が天皇に「大政奉還」を申し出たために、帝国憲法の範疇を超越した判断をしなければならない場面だったからこそ可能な発言だったのだ。
それほど開明的な大日本帝国憲法だが、欠陥が無いかと言えばそうでもなく、今まで述べてきたことに加えて、具体的にはやはり曖昧な「統帥権」の項目の修正が必要だ。
これは憲法第十一条の条文が根拠で、こう書いている。
『天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス』
本当にこれだけしか書いておらず、言葉が足らないとしか言いようがない。
だからといって史実において一部の人間が騒いだように「統帥権の独立」などと解釈するのは無理筋だ。
しかも先に述べたように陛下は政府の決定に逆らう事は許されていないのに、この条文だけあってもどうにもならないし、余計に混乱する。
それもこれも言葉が足らないせいだ。
これを作った伊藤博文に真意を確かめたのだが、伊藤本人の言い分としては、制定した時期の問題があるそうで、それは何かといえば過激な政党政治家の勃興時期と重なったからだという。
具体的な個人名を出すと、板垣退助や大隈重信といった面々で、彼らに軍事を操られることを伊藤本人は恐れていた結果、この条文制定となったらしい。
それは何となく理解できるのだが、少し短絡的な見方だとも思う。
俺としてはこれは「兵権」の根拠を定めたものでは無く、一種の理想論、あるべき姿を条文にしたものだと解釈している。
よって修正するなら『天皇ハ
これなら立憲君主の範囲内であると解釈可能で、内閣に対して統帥権の独立を盾に攻撃する阿呆は出なくなるだろう。
こんな感じで、大日本帝国憲法も時代に合せた修正を検討したいと思う。
ここまでは大日本帝国憲法の話だが、21世紀の日本国憲法においても同様のおかしな条文が存在していた。
しかし、あのままだと21世紀中には憲法の改正など不可能だろうな。
明らかに現状と合致していなかった違憲な条文も、明らかな誤植も含めて。
明らかな違憲とは九条だと思うだろうが、それだけではない。
学者時代に日本国憲法を絶対視して、一言一句変えるなと主張する人々、特に私立大学の教授たちと討論を持つ機会があったのだが、昔から疑問に感じていたことを質問してみた。
それは憲法八十九条についてだ。
次のように書いてあった。
『第八十九条
公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない』
これを解説すると、公の支配に属さないとは私立という意味で、私立教育に公金を使用してはいけないと解釈できる条文だが、これを完全に守ると私立の高校や大学などへの助成金も憲法違反になるはずなのだが、日本人で問題にした人がいるとは聞いたことがない。
俺も私学に助成金を配ることに反対ではない、というよりむしろ教育のためには大賛成だが、一方で九条については「一言一句変えること無く実態を憲法に合わせよ」と散々騒いでおいて、かたや八十九条については何も知らないかの如くスルーする理由は何だ?と勘ぐってしまう。
まさか私学助成金が憲法違反だという事実が国民に広く知られてしまうと騒ぎになってしまい、結果として助成金が削られることによって大学経営が苦しくなってしまうと、自分自身の就職口が減るから黙っている訳ではないですよね?と聞いたら誰もが目を逸らして無言になった。
更には憲法なのに誤植まである。
『第七条
天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ
(一、二、三 省略)
四 国会議員の総選挙の施行を公示すること』
「総選挙」とあるが、国会議員には衆参両院が存在していて、衆参同時選挙はあっても参議院が一斉に改選されることは無く、半数は選挙の対象とならない。
だから「国会議員の総選挙」の「総」は余計な文言で誤植だ。
これはGHQが当初一院制を押し付けようと考えていたためらしく、結局二院制になった際に訂正の漏れがあったみたいで、これまたいい加減なものだ。
日本国憲法制定の中心人物であったGHQ民政局のチャールズ・L・ケーディス大佐は吉田茂(首相)に人妻との不倫旅行の証拠写真を撮られた結果、更迭された話は有名だが、下半身ではなく、もっと上半身(頭脳)を使ってほしかった。
人類の未来に関わる核兵器の扱いについてだが、国連憲章の条文追加で対応した。
本当なら日本以外保有禁止!と言いたいところだったが。
しかしアメリカが原爆開発に着手して、成功一歩手前まで来ていたのは国際的に周知の事実だったから、核兵器の新規開発については全面的に禁止して、違反した場合はどんな主権国家であろうが国連軍の討伐対象とすると明記された。
だが、故意に「保有について触れていない」のがミソだ。
今後は核兵器を研究・開発する事は禁止され、それは日本も当然対象だ。
しかし過去の研究や開発に際して直接携わった人間は1000人以上存在したし、関連する企業も多かった。
更には輸送に関わった軍や企業関係者、実験を見届けた人間の数も含めたらもっと多数となる。
だから日本が核兵器の開発に成功していたという秘密は遅かれ早かれ漏れて、都市伝説のように拡がっていくだろう。
将来は核兵器開発を証言する人間も現れるかも知れないが、「保有について禁止事項が明記されていない」理由は、日本が何処かに隠し持っているからだと世界中が解釈してくれるだろう。
その意味で抑止効果は抜群だ。
最後に平和を象徴する存在、人類を代表する存在を決めたいと考えている。
普通に考えたら愛と平和を象徴しているとされるローマ教皇の仕事だと思うかもしれない。
だが、ローマ教皇にその資格は無い。
それはキリスト教の、しかもカトリックしか代表していないという点よりも、それ以上に共産党憎さのあまりナチスを称揚したという黒歴史があったし、あまりに政治的な行動が目立つ。
更に歴史的に言えば十字軍をはじめとして中東地域などへの蛮行の象徴ですらあった。
そうではなく、歴史的に見ても穢れていない存在が必要で、そうなると皇族か王族がやはり相応しいだろう。
俺としてはその中でも「王者の中の王者」として相応しい存在の天皇陛下にお出ましいただき、日本の天皇と兼任で世界の平和の象徴として、人々の心の拠り所になって貰いたいと考えている。
日本の天皇は、世界の王とは役目が全く違う。
世界の皇帝や王は、かつては強引な王権神授説に基づく絶対君主が存在した時代もあったが、現在では単なる立憲君主であり、それぞれの国家において象徴的な存在でしかない。
しかし日本の天皇は「天壌無窮の神勅」に基づく日本の所有者であった。
現在では立憲君主の役目に加えて、神道の最高位でもあり、歴史的にはこちらの方がより長い期間を占めてきた。
最初の頃に触れたように、武士の頂点である征夷大将軍は軍事と政治、つまりは現世での穢れ仕事を担当させ、天皇は神事・祭祀を司る仕事を分担して行った。
そして現在の陛下の現状を簡単に言えば、人々の安寧を祈るのが仕事であり、この祈りの対象を世界に広げていただくというのが俺の案だ。
これは最初から考えていたことではあったのだが、最終的に決意したのはアインシュタインとの会話がきっかけだった。
彼は「日本は天皇を頂点とした世界一の民族だ」と言っていて、これは史実でもほぼ同じことを言っていたから本心だと思う。
彼は史実において次のように語っていたとされる。
「長い歴史を通して一系の天皇をいただいているということが、今日の日本につながった。
私はこのような尊い国が、世界に一カ所位なくてはならないと考えていた。
なぜならば世界の未来は進むだけ進み、その間に幾度か戦いは繰り返されて、最後には戦いに疲れる時がくる。
その時人類は平和を求めて、世界的な盟主を挙げねばならない。
この世界の盟主となるものは、武力や経済力ではなく、最も古く、また尊い家柄ではなくてはならない。
それは日本の天皇家である」と。
俺も全く同感だ。
天皇陛下に平和の象徴として、人類の頂点に君臨していただくのが最も平和的で人類のためにもなる。
この地位はあくまでも象徴であって統治者ではないから、欧米で浸透している「モラルエコノミー」と呼ばれる対象とはならない。
これは統治する人間は、支配している者の安全や繁栄を保障しなければいけないという考え方で、戦争や災害が発生して民衆に被害を与えた君主は失格だと判断される結果につながる。
誤解されると困るが、21世紀の日本と日本人には世界のリーダーはつとまらない。
あくまでもこの世界の日本だから主張できる地位だ。
アメリカの言いなりになって、よくわからない憲法を押し付けられ、しかも事実上の軍事占領が継続中の日本が何を言っても説得力などないのだ。
いわば総力戦の敗者が継続中で、本当の意味での独立が果たせていない事実は世界が知っているからだ。
国連軍という力と、天皇陛下による人類愛。
この二つを軸に恒久的な平和を目指そうと思う。
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