第91話 1944年の状況

1944年(昭和19年)2月


各地で戦闘は激しさを増してきている。


昨年5月にエカチェリンブルクを制圧し、近郊に新たな飛行場を建設した東部方面軍は、7月から三式重爆撃機「飛鳥」を進出させてモスクワ近郊の軍需工場、飛行場、船舶、橋梁、線路、駅、発電所、ダムといったインフラの夜間爆撃を強化し目覚ましい戦果を挙げている。

以来7ヶ月が経過しており、ソ連の継戦能力はこれで相当落ちているだろう。

また、キーウを拠点とする「飛鳥」と呼吸を合わせて連日連夜にわたるスターリングラード爆撃を敢行して全ての軍需工場の完全破壊に成功してもいたし、ドン川とヴォルガ川の交通に欠かせない港湾施設も破壊して使用不能になった。


史実だとバルバロッサ作戦が始まった1941年6月以降はスターリンが計画した第三次五カ年計画は中断され、戦時経済体制が実施された。

ドイツ軍に占領されたヨーロッパ側の領土に代わり、ウラル山脈の東側とヴォルガ川沿岸の各都市などには軍需工場が移転し戦後のシベリア開発の拠点となった。

しかし東側からの攻撃という事態は過去において経験した事の無いものであり、ソ連の指導部を混乱に追い込んでいるだろう。


過去においてはナポレオンの、そして史実ではヒトラーの侵入を許したこともあったが、これを撃退したのは最終的には冬将軍だったかもしれない。

しかし根本的な要因は別にあって、それはソ連やロシア帝国が保持していた「圧倒的な国土の縦深」と、それがもたらす「距離の暴威」にあった。

この国は世界最大の領土を持つ国だ。

地図を見ればすぐに理解できると思うがその存在感は圧倒的だ。

もっとも通常は「メルカトル図法」によって表現されるから相当割り引て考えなくてはいけないが、それでも東端から西端までは6500kmもある。

この事実は外交上も大いなる自信に結び付いただろう。


国境線を超えて侵入していってもモスクワは遥か彼方にあり、前進すればそれだけ兵站線が伸びて軍事作戦に支障を来すことから、外部から攻めてこの国を亡ぼすことは至難の業なのだ。

航空機やミサイル等、戦力投射能力が発展した21世紀においても、母国から離れた遠隔地で軍事作戦を遂行することは容易ではない。

専守防衛を国防の基本政策に据え、原則として国内での行動を基本としてきた令和の日本にも、距離の暴威は影響している。

例えば、本土から海洋と遠距離によって隔てられた離島の防衛作戦は、情報の収集、指揮・通信の統制、部隊の機動、継続的補給の確保、そして住民の防護・後送等で困難を強いられることが予想される。

そのため、移動によって消耗する戦力を補完できる大きな戦力と戦力支援基盤が離島近傍に存在することが望ましいとされた。

それほど距離・縦深というの大きな影響を与えるのだが、今回ソ連に進攻してきているのは「身内」ともいえる、ソ連の地理と気候を知り尽くしたロシアという存在で、これまでとは全く違う対応をせねばならなくなった。

スターリンとしては想定される敵の中でも最悪の相手だろうし、シベリア鉄道の存在が同盟側の兵站問題を解決させている事実を考えた時に「ロシアはなんて余計なものを作ってしまったんだ」と思ったかもしれない。

シベリア鉄道がもし無かったとしたら、極寒のシベリアを超えようなんて発想は生まれなかったのは間違いないだろうから。


3月下旬

東部戦線における地上軍はその厳寒をものともせずにトハチェフスキー元帥率いる北方軍団がウラル山脈西側の街ペルミを攻略した後にさらに西進し、現在はヴォルガ川に面したカザンを包囲している。

モスクワまでは残り800kmだ。


ヴォルガ川はソ連にとって極めて重要な川で、モスクワとカスピ海を繋ぐ生命線と言っても良いだろう。

ソ連では陸上輸送手段のひとつとして、長く張り巡らされた広大な河川を利用した舟運業がシベリア鉄道に代表される陸路における流通手段と共存しており、その事業規模及び形態は日本人にはなかなか理解できないかもしれない。

冬季は凍結してしまう事は欠点だが、河幅が広く適度な水深も確保され、流速も緩やかな大河があるため大型船舶の航行も容易であることや、河川港湾も発達していることに加え、主な都市が河川で繋がっていることから人々の重要なライフラインと位置づけられている。

その代表的な河川であるヴォルガ川を同盟軍が押さえ、凍結した川を超えて西側に渡った。

人間に例えた表現としては、頸動脈を圧迫しているに等しい場所だ。

ジューコフ中将率いる南方軍団もヴォルガ川河畔の都市サマラ、及びサラトフを包囲しているが、ソ連軍の反撃が激しくなってきているとの報告が来た。

これは北方軍団も同様で、南部戦線からの助攻が必要な場面だ。


それにしてもこの世界のロシア軍は強い。

日露戦争と第一次世界大戦時の結果を思えば士気の高さと戦術の近代化がもたらす効用は巨大だと実感する。


3月末

その南部戦線においては栗林中将の率いる軍団がベラルーシに駐屯していたソ連軍を撃破して解放し、続けて西側に位置するポーランドにて行われている蛮行を排除する為に進軍しようとしたが、ポーランド国境には有力なドイツ軍が駐屯しており、進撃は不可能だった。

やむなくポーランド進出は諦めて、今村大将と再合流してソ連に集中する事にしたらしい。

俺としては残念だが現地指揮官がNOと言っている作戦を強要できない。

アウシュビッツの蛮行が行われていないことを祈るしかなくなった。


そもそも南部戦線はソ連がバルバロッサ作戦を実行した際に問題になったように兵站の確保という問題が付いて回る。

東部戦線とはそこが決定的に違う点であり、ルーマニアや黒海の沿岸から離れるにしたがって兵站の重要性が増す。

そこで日本軍は50万人に及ぶ兵站専門の補給部隊を現地に追加派遣して兵站線の確保を行っているが、大穀倉地帯であるウクライナの人々が極めて協力的だから食料の確保はスムーズに行われているらしく、本当に助かるし感謝せねばならない。


そんな状態で今村大将率いる本隊もウクライナを完全にソ連から解放し、ロシア共和国内のクルスク近郊において激しい戦車戦が繰り広げられた。

史実の独ソ戦でも同じ名称の戦いがあったが、参加兵力はこの世界のほうが多いし、戦闘車両も両軍合計6000台と拮抗する。

しかし、日本軍の戦闘ドクトリンは東部戦線と同様に最初に戦闘機で制空権を確保し、次に爆撃機で地上軍を叩いてから砲兵が砲弾の雨を降らせてさらに弱らせ、敵の反撃を封じてから戦車が進軍して最後に歩兵が占領するというオーソドックスだが確実な方法を採用しており、この戦いでもソ連軍の被害と捕虜の数は際立つものとなった。


ソ連としては東部戦線で押しまくられる現状を憂いてはいても有効な対策を未だ実行できておらず、このまま南部戦線でも各個撃破され続けるわけにはいかなくなった為に、可動戦車の全力及びこの方面に投入可能な最大兵力である300万人の陸軍部隊を投入してきたのだが、脆くも崩れて死傷者と捕虜を増やすだけの結果に終わった。


今村大将も東部戦線の山下大将から「督戦隊」の存在を知らされていたから、ソ連軍後方にいた督戦隊を空爆で吹き飛ばし、ソ連軍将兵が降伏しやすい環境を整えた結果、ソ連軍投降兵が続出する事態となった。

こういったソ連の捕虜はトルコ軍とルーマニア軍に任せ、日本軍は更に北上を再開するが、クルスクを抜けるとモスクワまでの距離はもう500kmを切っており、途中にある大きな街はオリョール、トゥーラ、ポドリスク程度しかなく、遮るものは無いと言っても過言ではないから進撃速度は上がった。


4月

その頃日本では遂に新型のロケット式滑空魚雷が完成し、「四式滑空魚雷」と命名されて生産が開始された。

報告によれば着水時の衝撃の影響が大きくて、発射した魚雷の約半数は壊れてしまうらしいが、徐々に改善されてくるのではないかな。

あとは音響追尾においても問題が発生していて、単発の発射なら問題とならないけれども、多数同時に発射した場合は味方の魚雷を追いかけてしまう傾向があるらしく、こちらも対策が必要という事だった。

潜水艦からの攻撃と違って多数の攻撃機が同時発射するからなぁ…

この問題も時間は掛かるかもしれないが優秀な技術者たちが解決してくれるだろう。

海軍の戦いは既に終わっているに等しいから、この大戦で使用する機会は無いかも知れないし、まあ気長に対応してもらおう。


戦闘機では新たに制式採用された夜間戦闘機である四式陸上戦闘機「極光」の生産が開始されている。

こちらは「月光」と同じく双発機であり、航続距離は4000kmと「月光」と同スペックだが、速度と最高高度性能が向上しており、双発機とは思えないような運動性能も併せ持っていたから、次世代の護衛機として活躍が期待されるとの報告だった。


更には五式重爆撃機「鳳凰」と命名されるだろう戦略爆撃機が最終テストを行っており、順調に開発されれば来年早々から生産が開始されるだろう。

この機体は史実におけるアメリカのB36爆撃機を凌駕することを目標に開発部門に指示をしていたものだ。

全長50m、全幅75m、6発エンジンで各エンジンの出力は3800馬力、最高速度は高度1万mで650km/h、最高高度13000m、航続距離13000km、搭載爆弾量は6トンという性能だが、航続距離を抑えれば10トンまで積載可能だ。


4月末

ソ連の意識が南部戦線に向けられた隙を突いて、東部戦線では南北の軍団が呼吸を合わせモスクワ進撃を再開したが、各戦線でのソ連軍の致命的な敗北が続いており、遂にモスクワに対する最終防衛ラインとも言えるヴォルガ川の支流オカ川を超えた。

ここからモスクワまでは200kmともう至近の距離だ。


5月18日

遂に東部戦線と南部戦線の部隊がモスクワ郊外で合流を果たし、東と南から圧迫するように配置を終えた。

モスクワの北部は湖沼地帯で、西にはモスクワ運河が通っているが、「飛鳥」の爆撃ですべての橋梁は破壊したから、組織的な脱出はもう不可能な状態となっているし、補給は完全に途絶させた。


8月15日

遂に同盟軍はモスクワに突入し、さすがにここでは激しい市街戦となった。

だが、補給を断って3か月が経とうとしており、食糧不足に悩まされているソ連軍の士気は全く上がっていない。

俺としてはソ連を追い詰めている現状において油断はできないものの、勝利は目の前まで来ており、どうやらスターリンは恐れていた転生者では無かったらしい事がはっきりして来たので安心している。


8月20日

ソコトラ島において戦争終結後の世界秩序を話し合うため日英露仏を中心とする同盟側の首脳会談が開催され、これに参加した俺、文麿、彦麿、ウィンストン・チャーチル、シャルル・ド・ゴール等が記念写真に納まった。

また近衛三兄弟が久しぶりに顔を合わせたことになり、俺たちの三人の集合写真も大きく世界で報道されているらしい。

そしてこの会議においてソ連の戦後処置とフランス奪還作戦が話し合われたが、ソ連という国名は当然ながら消去されるし、ソ連の領土だった地域はロシア立憲君主国に一旦は復帰することが決定され、帝政ロシア時代と同じ地域を版図とする国が誕生する事が決定した。

更に次の段階としてロシアは現在ソ連が制圧しているフィンランドやバルト三国は当然として、ベラルーシ、ウクライナといった諸国の独立を認めるだろう。

もはや「力」にて制圧する時代ではなく、「徳」によって治めなくてはいけない時代だからだ。

儒教式に表現するなら「覇道」から「王道」への転換といったところだろう。

俺が最も危惧する戦後秩序、憎しみの連鎖を断ち切る為にも必要なことだ。


9月3日 

同盟軍諸部隊はクレムリンに突入。

スターリン逮捕に成功。

ソ連降伏、スターリン投獄。


スターリンは無事に逮捕できた。

最後は殆ど狂人みたいに暴れまわり、側近でさえも手が付けられない錯乱状態だったらしく、それら側近の裏切りによって同盟側へ身柄を差し出されるという、独裁者としてはあっけなくも寂しい結果に繋がって終幕を迎えた。


今後はこの男がやらかした数々の人道犯罪と戦争犯罪を裁く軍事裁判が待っている。

結局ソ連との戦争において同盟軍も20万人以上の損害を受けたが、戦闘機や爆撃機による戦闘が主で、地上戦は従だったから意外に被害は少ないと言えるだろう。

しかしソ連側の損害は桁が違うものとなった。

その多くが捕虜であり、実に400万人もの捕虜が東部戦線と南部戦線において積み上がり、捕虜収容所はどこもかしこも満員御礼であり、施設を拡張したから安心だと思ったら、その次の瞬間に新たな捕虜が送られてくるというイタチごっこが続いていて食わせるだけで一苦労という状態みたいだ。


9月20日

同盟軍は東部と南部方面軍430万人のうち、50万人をモスクワ防衛とその周辺都市の掃討作戦及び戦後秩序回復の為に残し、380万人の兵力をもってドイツへ進撃を開始した。

この方面の主目的はドイツ陸軍をドイツ東部へ誘因することにあり、この隙を突いてフランス西南部のノルマンディー地方から日英仏軍が上陸作戦を行うものとされ、日本軍は追加兵力として更に100万人をイギリスへ派遣することになった。


また、フランスの降伏後、亡命政権・自由フランスを指揮していたシャルル・ド・ゴールは、ヴィシー政権側につかなかった自由フランス軍を率い、日本、イギリスなど同盟軍と協調しつつ、フランス本国で対独抗戦を指導していたが、ノルマンディー上陸作戦にも率先して参加するだろう。


そして11月1日、ノルマンディー上陸作戦が行われる


同盟軍は10月以降、ドイツ上陸作戦を敢行するとの欺瞞情報を盛んに流し始めた。

第一次世界大戦において北部からの上陸を許した苦い経験のあるドイツはこれに対応せねばならなくなったが、ドイツ情報部が入手した同盟側作戦名が「NOR」であると判明したため、これはきっと過去に上陸したドイツ北部の「ノルデン」であると判断して態勢を固めた。


しかし確かに同盟側の作戦名は実際に「NOR」だったのだが、正しかったのは欺瞞の為の作戦名だけで、肝心の上陸地点は「ノルデン」ではなく、フランス西南部の「ノルマンディー地方」のル・アーブル一帯だった。

結果としてドイツの不意を突いてノルマンディーに上陸したのは、日本軍の海兵隊10万人を先頭にした同盟軍兵力250万人と戦闘車両4000両で、散発的に攻撃してくるドイツ軍の抵抗を排除しつつ進撃し、ドイツ軍はファレーズ付近で包囲された。

12月初頭にイギリス軍やカナダ軍、日本軍、そして自由フランス軍からなる同盟軍は東へ進み、パリ方面へ進撃を開始した。


ドイツ軍も11月7日にディートリヒ・フォン・コルティッツ歩兵大将をパリ防衛司令官に任命しパリを防衛するも、11月18日には南フランスのマルセイユ・モンペリエ間にも50万人の同盟軍が上陸し、パリ解放は現実且つ時間の問題となった。


そして史実同様にヒトラーはパリが陥落する際、パリを焼きつくしたうえで撤退するよう厳命した。

「敵に渡すくらいなら灰にしろ!跡形もなく燃やせ!!」とドイツ軍パリ防衛司令官のコルティッツ大将に命じた。

これが後年「パリは燃えているか」という言葉を生み、日本においては同名の有名な音楽を生んだ。

しかしコルティッツ大将はこの命令をこの世界でも無視して降伏。

更にドイツ軍による示威行動や脅迫を取り混ぜることによって、パリ市内での市民蜂起を押さえ込み、大規模な市街戦や都市破壊を避けることに成功した。


結果、パリを救った男として後世に名を残す。

同名の映画では、無人となった司令部の受話器から、命令を執行したか確認する独裁者の声がむなしく流れるという内容だった。


1944年(昭和19年)12月25日、クリスマスのこの日に自由フランス軍とレジスタンスによってパリは解放され、ドゴール率いる自由フランス政府、日英を主体とする同盟軍がパリに入城し、フランスの大半が同盟軍の支配下に復活、ヴィシー政権は崩壊した。


いよいよパリは解放された。


史実のパリ入城に際してはドゴール率いる自由フランス軍が凱旋パレード開催を主張して譲らなかった話は有名だが、ドゴールの態度は政治家としては立派だと思う。

何しろドゴールを先頭に自由フランス軍や米英軍が行進している写真は永遠に残るのだ。

プロパガンダの材料として最適だっただろうし、ここにフランス人が写っていないなど有ってはならないわけだ。


そしてこの世界線でも先頭を譲らず、日本軍より前に立って行進していた。

いかにも「俺がフランスを解放したのだ」という態度で市民と接していたらしいから、結果として彼は救国の英雄と呼ばれるようになるだろう。


しかしフランス人は本当にしたたかだ。

史実においてヒトラーの悪名を最大限利用して一番得をしたのはフランス人だからだ。

何故ならヒトラー以前、つまりごく最近までヨーロッパにおいて最大の悪人と言えばナポレオンと相場が決まっていたのを見事にヒトラーで上書きし、人々の意識を更新したのだから。

きっとこの世界線でも同じことをするだろう。

一方のドイツ人はこの汚名をいつ晴らすのか?あの人物はオーストリアの人間だと逃げるのか?ドイツ人には違いないから無駄か。

それは誰にも分らないが、ヒトラー並みかそれより小物であったとしても、そういった人物がフランスに現れたら全力でその人物に汚名を擦り付け、ドイツ人の誇りと名誉を回復させる事だろう。

まるでキング〇ンビーの擦り付け合いみたいだ。


過去からの経緯を思うと、本当にドイツ人とフランス人は「仲がいい」と心から思う。


そう言えば前世の話だが「第二次世界大戦において日本はフランスと戦いましたか?」と一般の人、それも平均以上に歴史の知識があると思われる人に質問したら、ほぼ全ての人が「戦いました」と回答したのには驚いた記憶がある。

これはきっとフランスが連合軍側に属していたからに他ならない訳だが、実は直接戦ってはいないのだ。


史実では1940年にフランスがナチス・ドイツに降伏し、傀儡のヴィシー政権が成立。

直後に日本軍は北部仏印に進駐し、当初は小競り合いが発生したが、ヴィシー政権は日本の仏印統治を認めた。

その後シャルル・ド・ゴールを中心とした自由フランス国民委員会が対日宣戦布告をしたが、これまで述べてきたように正当な政府とは当時みなされなかったから実際の戦闘は発生せず、ヴィシー政権支配下の植民地に日本軍が引き続き駐留していた。

戦後においても日本に対する占領政策には直接関係していないし、東京裁判でも判事は送り込んできたが目立った動きは見せていない。

だから令和における史実としては、明治以降の日本は過去に一度たりともフランスと争ったことは無いのだ。

下関戦争は?あれは江戸時代だし国家同士の戦争ではない。

少々ひっかけ問題ではあるが。

またもやどうでもいい話を思い出してしまった。


それから確かに日本はアメリカに対して敗北したが、イギリスやオランダに対しては負けていない。

両国は日本に負けて威信を落とした結果、植民地人の離反に遭ってしまい最終的に植民地を失うという二重・三重に悲惨な結果となった。

これはフランスも同じ結末を迎えた。

それが事実なのだから21世紀の日本人は彼らのコンプレックスには気付いてあげなくてはいけないし、慰めてあげなくてはいけないだろう。


ただ、やはりこの世界でも勝者による敗者に対する蛮行が繰り返されているのが気になる。

パリ市民によるそれまで占領していたドイツ兵への虐待行為、ドイツ兵と「仲良く」したフランス人女性に対してパリ市民によるリンチなどが横行し、人間の持つ負の感情の行きつく醜い所業をまた一つ歴史に刻んでしまった。

俺としては何とか負の連鎖のきっかけとなる行為はやめさせたかったのだが間に合わなかった。

東部戦線ではもっと厳密に勝者側の民衆と、敗者となるだろうドイツ側民衆が接触しないように気を配ろうと思う。


少し時間が遡る11月3日

アメリカ合衆国の大統領選挙が行われ、民主党代表のハリー・S・トルーマンが当選した。

史実において広島と長崎に原爆を投下した憎んでも余りある相手だが、意外な事実としてはルーズベルトの急死を受けて大統領になるまで、副大統領時代においては核兵器開発を知らなかったという点だ。

これはアメリカらしいと言ってしまえばそれまでなのだが、大統領と副大統領はライバル関係というか政敵の関係である場合も多いからそれほど不自然な事象ではないと思われる。

何れにしても最終的に日本に対して核兵器を使用した事実は変わらないのだから、俺としては許すことはできない相手だ。

そして、8年ぶりの政権交代があったという事は、アメリカの外交方針と戦略目標が変更されることを意味するからトルーマンが大統領に就任する来年3月以降は油断ができない。


1944年(昭和19年)12月8日

いよいよアインシュタイン博士たちが中心となって開発していた「アレ」が完成したとのことだったので、南洋諸島、ヘレン環礁で実証実験を行った。

この環礁はパラオの中心島バベルダオブ島やコロール島から南に600km離れていて、最も近い有人島であるパラオ最南端のトビ島からも70km離れているから色んな意味で安心だ。

実験結果は概ね成功とのことなので、ここに日本は核兵器を所有することになった。


当然だが、公表の予定は無いし、人間に対して使用するつもりもない。


今年も色々とあったが、ソ連は降したから残るはドイツだけだ。

現在東部方面軍380万人はウクライナとベラルーシを通過し、ポーランド国境まで20kmの地点まで進撃しているから、年が明けたらドイツに占領されているポーランドへ突入させよう。


しかしアウシュビッツがどうなっているかとても気になる。

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