第90話 1943年の状況
1943年(昭和18年)1月
5年の歳月をかけて秘密裡に呉と横須賀の海軍工廠において各2隻が建造されていた基準排水量7万トンを誇る超大型空母「大和」型4隻が全艦同時に竣工した。
1番艦「大和」、2番艦「武蔵」、3番艦「信濃」、4番艦「甲斐」の各艦で、早速合同での訓練が行われている。
搭載機数は150機だがこれは余裕を持たせた数字であり、アメリカ空母のように飛行甲板上に露天繋止すればもっと積めるが、そこまで無理をしなくても良いだろう。
これで12隻の大型空母を保有する事になって洋上における航空戦力と打撃力は圧倒的なものとなる。
ただし、独米の海軍関係者は戦闘行動中の戦艦を沈めた実績を知らないだろうから、航空攻撃で戦艦を沈めるなんて不可能だと思っているだろう。
3月1
東部戦線に投入された250万人の日露軍は着実にモスクワへ向けて前進している。
特に前年に南部戦線が構築されて以降は東部戦線に投入される戦力が減少したことを要因として、その進撃速度は上がっている。
現在は二手に分かれてカザフスタンを経由してウラル山脈南側からモスクワを目指すジューコフ率いる南方軍団と、ウラル山脈中部入口にあるロシアにとっての因縁の地であるエカチェリンブルクの攻略に向かうトハチェフスキーの北方軍団に分かれている。
エカチェリンブルクから先のウラル山脈はそれほど難所でもなく、鉄道もウラル西側のペルミ、その先のカザンへと繋がっているから進攻は容易だ。
そしてこのカザンはヴォルガ川に面しており、源流に向かうとモスクワ近郊、南側にあるカスピ海を目指して下っていくと、途中にあるのがスターリングラード(21世紀ではヴォルゴグラード)だ。
ここはドン川との合流地点であり、河川を利用した物流の拠点でもあるし、直線距離ではモスクワ迄700km程度と近い。
ただし、ソ連から見ればウラル山脈を越えられることもそうだが、ヴォルガ川を押さえられてしまうとカスピ海方面からのヴォルガ川の水運を利用した物流が止まり死活問題となるから、必死の反撃に出るだろう。
そこでウラル山脈南側から侵攻した軍団との連携で戦うのだろうが、やはり東部戦線だけを西へ広げるのは戦略上好ましい事ではないから、タイミングを計って南部戦線との連携した攻勢としなければいけない。
前年6月に南部戦線を形成し、ルーマニアを橋頭保とした200万人の日本軍は、ルーマニアとトルコの援軍も合わせて250万の兵力をもってモスクワを目指し北上中で、一部はベラルーシの制圧に向かい、最終的には東部戦線と呼吸を合わせてモスクワを攻略する事になる。
総司令官は今村均大将、軍団司令官は栗林忠道中将と牛島満中将が勤め、航空隊指揮官は安田武雄中将が任じられている。
これまで紹介してこなかったが長男の一高も陸軍大学を卒業と同時に参謀として従軍している。
ベラルーシへ向かった軍団には可能ならポーランドの「絶滅収容所」解放も任務に含まれているが、ドイツ軍が国境を固めているだろうし収容所も無防備であるはずがないので、果たして解放の為に進撃できるかどうか分からない。
南部戦線は堀大佐の進言によってソ連に相対する為に構築を決断したのだが、この戦線構築のメリットはもう一つあって、それは「ドイツはソ連を助けない」という点だ。
堀大佐も断言していたし、俺もそう判断していたがヒトラーの共産主義者嫌いはユダヤ人嫌いと変わらないレベルなのだから協力なんてするはずがないし、ソ連への救援も行うはずがない。
これが逆にドイツに先に攻め込んだ場合は怪しくなる。
ルーマニアからカルパティア山脈北部を迂回し、ウクライナからドイツを目指して西進した際にポーランド辺りで背後を襲われる危険性はあるし、そうなれば大変厄介だった。
それはともかく、このウクライナ地域は8年前にホロドモールからの解放を目指してソ連軍を蹴散らした場所であり、日本軍にとっては地理的・気候的条件もよく知っている慣れた場所だ。
また日ソ両軍にとって因縁の場所とも言えるだろう。
1000万人もの住民を移動させた後のウクライナは、住民が減ったことによって食糧のバランスがギリギリ保たれているみたいだが、相変わらず共産党からの搾取は続いていた。
そこへ日本軍が到着して北上を開始したものだから、住民は先を争うようにしてソ連への反旗を翻した。
これは当然だろうし、現地のソ連側治安部隊は日本軍と遭遇した瞬間に消滅していっている状態だったから、全土の開放も大した時間は掛からなかった。
これでロシアに逃げた住民も戦争が終われば帰国できるだろうから、状況を知った東部戦線の士気はさらに上がることだろう。
そしてこちらにも一式重爆撃機「朱雀」500機が到着し、ウクライナのキーウ近郊に拠点となる飛行場を建設してこれらを迎え入れ、ソ連本土に対する夜間爆撃に出撃し、護衛の夜間戦闘機「月光」とのペアで活動を開始している。
キーウからソ連の首都モスクワまでは片道800km程度で、4000kmの航続距離を誇る「月光」の随伴可能距離だ。
更には先ほど紹介したスターリングラードまでは片道1000kmとこちらも航続距離内で、重要拠点であるカスピ海に面したバクー油田なら1900kmとこちらも攻撃可能範囲内だ。
スターリングラードと言えば独ソ戦におけるターニングポイントとなった「スターリングラード攻防戦」はあまりにも有名だろう。
しかしこの戦いは悲惨だった。
いや、全ての戦争行為が悲惨ではあるのだが、この戦いは特に悲惨で、史実では1942年6月末から1943年2月初頭までの7か月間にわたって繰り広げられたのだが、とんでもない市街戦となった。
大げさな表現ではなく街の一区画どころか集合住宅の一部屋を奪い合うような激戦で、当然ながらスターリングラード市民も巻き込まれたし独ソ双方の兵士にも甚大な被害を与えた。
結局独ソ双方で200万人の戦死者と20万人以上の市民が犠牲となった悲惨どころではない戦いで、戦闘が終わった後に生き残っていた市民は1万人に満たなかったはずだ。
史実におけるスターリングラード攻防戦は三つの理由から発生した。
一つ目はこの地が先ほども触れたように交通の要衝であったことだ。
線路もそうだがヴォルガ川とドン川の水上交通を利用した物流拠点となっており、ドン川は黒海と繋がっているし、ヴォルガ川を北に上っていけばモスクワ、南に下っていけばカスピ海へと通じる。
そしてカスピ海中部西側沿岸に存在するのがバクー油田で、スターリングラードから鉄道とヴォルガ川の水運を利用してモスクワまで輸送していた。
二つ目はT-34戦車の部品工場や重砲の生産拠点があったためだ。
ここを失ったらソ連の継戦能力は大きく減退するから死守は当然だっただろう。
三つめは本来はどうでもいい理由だが、街の名前が原因だ。
スターリングラードというスターリンの名を冠した街の名前だったから、ここでの戦いは象徴的な意味合いでのプロパガンダに利用できると双方が考えたためだ。
だが、今回はスターリングラードを直接陸上兵力で押さえようとは考えていない。
理由としては悲惨な市街戦は避けたいからというのもあるが、軍需工場と線路は空爆で叩くだけで十分だからだ。
そして何よりヒトラーがスターリングラードにこだわった理由は、バクー油田を確保したかったからだ。
この油田の歴史は古く、第一次世界大戦でもドイツは目標にしようとしたが叶わなかった。
1723年のピョートル大帝のバクー遠征以来、この地はロシアとペルシャの争奪の歴史となるが、1806年にはロシア帝国領であることが確定した。
このバクー油田は単なる油田ではなく、その歴史の古さがもたらす様々な人々のエピソードで彩られている。
この地を象徴するものとして、燃える山として知られる「ヤナル・ダグ」がある。
炎は地中から湧き出たガスが自然発火したもので数千年前から燃え続けているとされている。
また、ゾロアスター教(拝火教)の聖地としても知られていて、「永遠の火」と呼ばれる火が地下からの天然ガスによって灯っている事で知られるアテシュギャーフ寺院がある。
この寺院は17世紀から18世紀初めまでに建てられたものだが、ここが聖地となったのは遥か昔の2世紀前後とされる。
つまり、それくらい昔から有名だったわけで、ゾロアスター教の教義は善悪の二元論で善神がアフラ・マヅダと呼ばれる。
日本の自動車メーカーの中にこの名を由来とする会社があった。
そしてこの油田に携わったのがアンソニーの親戚筋にあたるロスチャイルド家であり、あのノーベル賞の始祖アルフレッド・ノーベルもこの油田に深くかかわっている。
それから先日スパイ容疑で終身刑が言い渡されたリヒャルト・ゾルゲもここの生まれだ。
ヒトラーは当たり前だが西側から攻めたから、スターリングラードを陥落させねばならなかったかも知れないが、日本軍は東から攻めていて、先ほど述べたようにヴォルガ川上流を押さえることが出来れば物流は止まる。
バクー油田の石油も運べなくなる。
だからソ連を降したら最終的にはスターリングラードに入るとは思うが、空爆だけでとりあえずは大丈夫だろう。
戦争は3年目に入っているが、最近だと蘭印の資源が自由に使えるのは有り難いことで、石油は当然だが、貴重な地下資源や天然ゴムといった資源も活用させてもらっている。
また、この地域の住民たちにも独立に向けた機運が高まってきているから、戦争が終われば日本としては独立を支援することも検討しなくてはならないし、それを見越して日本に対する期待が現地で高まっているみたいだ。
そんなこともあって現地住民の皆さんは非常に協力的だから、資源の開発はもの凄く効率的に進んでいる。
ただし仏印については未だ保留中だ。
ドゴールの口車に乗ってうっかり進駐してしまったら、戦後に痛くもない腹を探られる事になるかも知れず、そんなリスクは避けねばならないし、いくら傀儡だからといっても結局ヴィシーに作られた政権は無視できない。
5月30日
東部戦線においては北方を担当したトハチェフスキー元帥率いる北方軍団がエカチェリンブルク制圧に成功しウラル山脈を越えて、いよいよソ連の心臓部とも言える地域へ進軍を開始した。
しかしここからモスクワまで1400kmとまだ遠い。
一方で南部を担当したジューコフ中将率いる南方軍団はカザフスタンの要衝アクモリンスクを確保し、収容所に収監、というか閉じ込められていた人々を開放し、ソ連とスターリンに対するプロパガンダに利用させていただいた。
これでスターリンと共産主義者に対するイメージは地に堕ちるだろう。
いや既に地に堕ちているからこれ以上堕ちようがないのか?では地下に潜ってもらおう。
7月
米独双方の海軍において動きがあった。
日本の「大和」型モドキ。書類上では「壱岐」型戦艦に対抗してドイツ海軍では40cm砲8門を搭載した基準排水量5万トンクラスの、「プリンツ・アイテル・フリードリヒ」級2隻に次いで建造された43cm砲8門搭載の6万トンクラスという巨艦が竣工した。
ネームシップは「エーリッヒ・ルーデンドルフ」、2番艦は「ベルンハルト・フォン・モルトケ」というらしい。
この名前についても海軍内で話題になっていて、「モルトケ」のほうは本来であればファーストネームを使用した「ヘルムート・フォン・モルトケ」としたかったのだろうが、そうした場合は対象者が二人いるので、敢えてサードネームの「ベルンハルト」を拾って付けるところが嫌らしいとの意見だった。
これは普仏戦争で活躍し、英雄との名声が高い「大」モルトケから採用したのであって、第一次世界大戦における数々の失敗によって評価の低い、同じファーストネームを持つ甥の「小」モルトケではございません。という意味だろう。
ルーデンドルフは第一次世界大戦における英雄だから余計に紛らわしいしな。
だが両艦共に残念なら活躍の場は与えられないだろう。
一方のアメリカも戦艦を建造し続けていて、毎年4隻が竣工している。
全て16インチ(40cm)砲搭載戦艦で、まずは45口径40cm砲9門搭載の「サウスダコタ」級で、「サウスダコタ」、「ノースダコタ」、「マサチューセッツ」、「インディアナ」の4隻だ。
次のクラスとなる「ワシントン」級が4隻、「ワシントン」、「ニューハンプシャー」、「デラウェア」、「オレゴン」で、ここまでは45口径砲搭載戦艦だ。
昨年完成したのが50口径40cm砲9門搭載の「アイオワ」級が「アイオワ」、「ニュージャージー」、「ウィスコンシン」、「ミズーリ」の各艦だ。
更には今年完成予定なのが50口径40cm砲3連装4基12門搭載の「モンタナ」級が4隻で「モンタナ」、「ワイオミング」、「アイダホ」、「ネブラスカ」という名前だそうだ。
最後の「モンタナ」級は間違いなく「壱岐」型に対抗する為に建造されたのだろうが、ご苦労なことだ。
これらの戦艦群は全艦がパナマ運河を通航可能なサイズで造ったらしい。
せっかく造ったはいいが、そもそもパナマ運河を通航させて貰えるのか?
いや、無理だろう。
東海岸におけるアメリカ合衆国の新たな拠点はニューヨーク近くのロングアイラインド湾だそうだが、そこから西海岸のサンディエゴ軍港までパナマ運河経由だと9000km余りで到着できるのに対して、南アメリカ大陸最南端のマゼラン海峡を経由するルートだと2万4000kmも掛かってしまい、アメリカの世界戦略に対して絶望的な影響を与えると言っていいだろう。
それから日本海軍に対抗?した空母群も完成したみたいでやっぱりヨークタウン級の「ヨークタウン」、「ホーネット」、「エンタープライズ」、「レンジャー」、「ワスプ」の各艦と小型の護衛空母を4隻ほど追加建造しているらしい。
この時代に大型艦を建造できる海軍工廠はニューヨーク工廠とフィラデルフィア工廠、民間工場だとニューヨーク=カムデン造船所とほぼ東海岸に集中している。
もう一か所ニューポート=ニューズ造船所があったが、現在こちらは南部連合の所有だ。
NECによれば完成したこれら各艦は西海岸のサンディエゴと東海岸のニューヨークの軍港に分散配置されるらしい。
遥々マゼラン海峡を越えて移動させるなんて気が遠くなりそうだ。
もっとも日本海軍も「大和」型は全幅が大きすぎてパナマ運河を物理的な意味で通航出来ないし「出雲」型も怪しいが。
パナマ運河を通航できる最大幅は33.5mだから無理なのだ。
南部戦線だが、ルーマニアに日本軍が上陸した事を知った東欧諸国にまだ残っていたユダヤ人が、ルーマニアとウクライナを目ざして逃げ続けている。
やはり史実同様にユダヤ人に対しての隔離政策から始まった虐待は収容所へと進んでいるらしく、収容所が機能し始めたら逃亡は不可能になってしまうから心配だ。
そんな人たちの中で俺が以前から気になっていたのがアンネ・フランクで、今まで脱出した形跡が無かったが、最近ウクライナ経由で家族と共にようやく脱出したらしい。
もうあんな悲しい日記は見たくないと思っていたが、ハッピーエンドなら読んでもいいかな。
これらの人々はルーマニアから日本の輸送船に乗せて日本か東パレスチナへ移動させていて、総数は50万人の多数に上るが輸送に際して問題は発生していない。
何といっても日本からの輸送船は物資が満載だけれど、帰りは「空荷」なので対処は容易だからだ。
これでヨーロッパに残るユダヤ人は100万人は切ったと思うが、まだ多い。
ここで気になるのがヒトラーの人格崩壊だ。
史実におけるバルバロッサ作戦と北アフリカ戦線での敗北による影響は大きかった。
それまでは曲がりなりにも成功の連続だったのが、決定的な敗北を喫してしまい、多くの機甲師団を消滅させてしまうという大敗だ。
しかも部下の将軍たちはマンシュタインを中心に反対していたにもかかわらず、自身のエゴを優先しての敗北はヒトラーのプライドを二重に傷つけた。
普通の人間ならここで反省して立ち止まり、以降は行動や言動を改めただろう。
しかしヒトラーはそれまで以上に戦略や作戦遂行の細かい部分にまで立ち入る様になり、致命的な判断ミスを次々と犯すようになっていく。
そしてその失敗の責任を全て部下の将軍らになすりつけて解任していった。
責任をなすりつけたヒトラーは自己反省することはなく、新たな戦場、新たな敵を求めてさらに敗北を重ねていくようになった。
そして最終的には戦争の目的を見失って、ユダヤ人の絶滅などという戦局には何の影響もない犯罪行為に力を注いでいくこととなる。
そして、この独裁者の犯罪的なエネルギーで最も被害を受けたのが、ヒトラーを支持したドイツ国民であり、破滅の一歩手前まで追いやられることとなっていった。
そしてまた、この世界線でも北アフリカ戦線においてドイツ機甲師団の精鋭は消滅した。
しかも史実どころではない大敗で、敗因も補給線を絶たれた事によるものだ。
この北アフリカ戦線での失敗はヒトラーの人格に決定的な影響をもたらしただろう。
今後どんな判断ミスをするのかわからないが、ドイツ国防軍の中にはウクライナを北上中の日本軍の側面を突くべきだとの当然の提案がなされるだろうが、ヒトラーが受入れるとは思えない。
もっと心配な事はユダヤ人に対する絶滅政策がより過激になりはしないだろうかという不安だ。
可能な限り早期にソ連を降してドイツに攻め込まねばならない。
そのドイツに対してはバトル・オブ・ブリテンが決着し、ドイツ空軍は多大な損害を被って敗退した。
この失敗もヒトラーに影響を与えるだろうが、もっと影響を与えそうなのが日本軍による夜間長距離爆撃だ。
この頃になると沿岸部の爆撃目標はあらかた破壊しつくしていて、最終目標となった北部の軍港都市ヴィルムスハーフェンへ猛爆撃を行い破壊している。
ここはドイツ海軍のUボートの根拠地であり、第一次世界大戦に続いてまたもや破壊された。
更には新鋭の重爆撃機である三式重爆撃機「飛鳥」200機がイギリスに到着した。
「飛鳥」は生産体制が整い増産中で、まもなく追加で300機が配備できるだろうし、東部戦線や南部戦線にも当然配備を予定している。
以前も触れたが「朱雀」の航続距離は4000km、「飛鳥」は8000kmの数値を誇る本格的な爆撃機で、それぞれの爆弾搭載量は「朱雀」が4トン、「飛鳥」は8トンに及ぶ。
ドイツへの長距離爆撃に際しては常に夜間戦闘機「月光」が護衛任務に就いていたが、ドイツ空軍も本格的な夜間戦闘機であるハインケル社の「He 219 ウーフー」を投入してきており、激しい対決が繰り広げられているが概ね「月光」が優勢だ。
一方でイタリアだが、フランス、ギリシャ、北アフリカと各地で連戦連敗を重ね、地中海の制海権と制空権を奪われて国民生活まで圧迫され始めた為に講和の動きが始まっていた。
9月24日に開かれたファシズム大評議会では、元駐英大使王党派のディーノ・グランディ伯爵、ムッソリーニの娘婿ガレアッツォ・チャーノ外務大臣ら多くのファシスト党幹部がムッソリーニの戦争指導責任を追及し、統帥権を国王に返還することを議決した。
孤立無援となったムッソリーニは翌25日午後、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世から解任を言い渡され、同時に憲兵隊に逮捕され投獄された。
10月3日、北アフリカ方面のイギリス軍によるイタリア本土上陸作戦も開始された。
日本艦隊もこれを援護して「大和」型空母群の初陣を飾る戦いとなった。
同日、ムッソリーニの後任、元帥ピエトロ・バドリオ率いるイタリア新政権は同盟側に対し休戦を申し出る。
10月8日
同盟国はイタリアの降伏を発表した。
10月19日
エカチェリンブルク近郊に新たな飛行場を建設した東部方面軍は三式重爆撃機「飛鳥」の拠点としてモスクワ近郊の軍需工場、飛行場、船舶、橋梁、線路、駅、発電所、ダムといったインフラの夜間爆撃を強化していて目覚ましい戦果を挙げている。
ソ連の継戦能力はこれで相当落ちているだろう。
また、キーウを拠点とする重爆撃機と呼吸を合わせて連日連夜にわたるスターリングラード爆撃を敢行して全ての軍需工場の完全破壊に成功していた。
そう言えばイタリア艦隊はどうしたっけ?
と思っていたら日本の酸素魚雷の餌食になって殆ど海に沈むか、敗戦時に港で自沈したらしく、「大和」航空隊がタラント軍港を襲った時には既に浮いているフネは無かったみたいだ。
最後までイタリアらしい。
それと今年は英領インドのベンガル地方における大飢饉が発生し300万人が犠牲となった年だ。
史実で言えばこの原因に日本も絡んでいて、1842年(昭和17年)英領のビルマとシンガポールが日本軍によって占領されると、これらの国からの米の輸出が停止された。
さらに、1942年10月のサイクロンがインドを襲い、秋の米が不作となって翌年の作付けを圧迫することに繋がった。
翌1943年は豊作だったからベンガル地方の人々を養うのに十分な量があったのだが、日本軍のインド進出とドイツ軍の中東進出を恐れたイギリス軍は、ベンガルの米を軍用に備蓄し、中東のイギリス軍にも相当量を輸出した。
米不足の不安が高まると市民の間で買い占めや投機を引き起こし、米価が暴騰してベンガルの多くの労働者は基本的な生活さえままならない状態に陥った。
つまりは原因はほぼ人為的なもので、イギリス側の不作為が原因だったのだが、史実と違って日英は強固な同盟関係にあるわけで、結局餓死者を出すような惨事には至っていない。
史実ではこれを原因として後年インド独立に際してベンガル地方が分割されてしまった。
また第二次世界大戦後の1947年にイスラム教徒はパキスタンへ、ヒンドゥー教徒はインドとして分離独立する遠因ともなり、ガンジーの理想から遠いものになった。
俺としては宗教によって国が分断される事態は避けたいし、戦争の原因は除去したい。
さてソ連はもうすぐ降せるかな?
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