第89話 北アフリカでの戦闘

1942年(昭和17年)5月


イギリス本土においては相変わらず激しい航空戦が継続中だが、戦いの峠は越えて徐々に双方の出撃機数は減少傾向にあったので、日本海軍は「宗谷」型護衛空母群のみブリテン島周辺に残し、正規空母機動部隊を地中海及び黒海方面へと移動させた。

そして航空隊のバックアップ拠点、静養と訓練を行う拠点を地中海のクレタ島にも新設した。


イギリスにはそれに代わって日本本土から一式重爆撃機「朱雀」500機が到着した。

それは同盟側は今後の方針として守勢から攻勢へと転じる事を意味し、その中核となる「朱雀」は航続距離が4000kmの数値を誇る本格的な重爆撃機で、爆弾搭載量は4トンに及ぶ。

日本が昨年本格的に開発した4発式の重爆撃機だが、今後も2年ごとに新型機種が投入される予定だ。


そして現在開発中の新型重爆撃機「飛鳥」は史実の「B29爆撃機」と同等以上の性能を目指している。

内容的には4発のエンジンを搭載し最高高度は1万2000m、最高速度660km/h、爆弾搭載量は8トン、そして航続距離は「朱雀」の倍にあたる8000kmを目標とした戦略爆撃機だ。


「朱雀」爆撃機隊はイギリス到着後に早速ドイツ本土に対する夜間爆撃に出撃し、護衛の夜間戦闘機「月光」とのペアで活躍することになった。

ロンドン近郊からドイツの首都ベルリンまでは片道900km程度で、4000kmの航続距離を誇る「月光」にしてみたら近所に出かけるくらいの感覚なのかも知れない。

当面の目標は沿岸部の港湾設備、線路、送電システム、橋梁、対空陣地といったもので、第二段階ではさらに内陸部に存在するダム、発電所と変電所、橋梁、線路、駅、軍需工場、飛行場を狙うだろう。

最終段階がベルリン近郊に対する示威爆撃だ。

ヒトラーの心胆を寒からしめる事を目標としている。


相変わらず潜水艦部隊の活躍も目覚ましく、先日は北海において新鋭艦と思われるドイツの大型戦艦1隻を撃沈したとの報告が文麿を経由してもたらされた。

どうも5万トン級の「プリンツ・アイテル・フリードリヒ」級のどちらかであったらしいが、一式酸素魚雷4発を艦尾に受けて全スクリューを失い、舵も利かないという状況に追い込まれた末にイギリス艦隊に見つかって撃沈されたらしい。


こうなってくるとドイツ艦隊は今後まともに出撃してくるかな?

史実通りにスカンジナビア半島のフィヨルドにでも逃げ込みそうだが。

一体何のために建造したのやら。


もちろん潜水艦は戦艦ばかり狙っていたわけでは無く、偶然発見したから沈めただけで、北海とイギリス周辺におけるメインの目標は枢軸国側の輸送船やタンカーだ。

目的は第一次世界大戦時と同じように兵糧攻めにすることだが、アメリカ国旗を掲げた船舶は現時点で狙っていない。

本来であれば中立国のくせにドイツを支援する動きを見せたら遠慮なく撃沈するのが戦争の流儀だが、万が一にでもアメリカ合衆国が参戦してきたらややこしいでは済まなくなるので当分は自重だ。

もっとも、現時点ではアメリカが積極的にドイツに肩入れしている兆候は見られない。

自分の事で精一杯でそれどころではないからだ。


地中海でも同様で、イタリアから北アフリカ向けの輸送船はあらかた潜水艦によって撃沈されていて、物資や兵士の移動はほぼ不可能な状況に追い込んでいる。

ここにバトル・オブ・ブリテンで活躍した空母機動部隊が遊弋するようになったら完全にイタリアの物流網を遮断し、制空権を確保する事に成功するだろう。


第二次世界大戦においてもう一つの重要な戦いと言われることになる東部戦線においては、順調な西進が継続されており、イルティシュ川に面した河港都市オムスクを確保し、更に約600km西にあるチュメニを確保した。

このチュメニという場所は21世紀では油田地帯の街として有名で、西シベリア堆積盆地一帯にはサモトロール油田をはじめとする有力な油田が点在している。

トムスク州コルパシェヴォ油田、チュメニ州シャイム油田やウスチ=バルイク油田などがそれだ。

21世紀におけるロシアの原油生産の7割がこの辺りに集中しているはずで、アゼルバイジャンのバクー油田を上回る油田地帯でもあるから、占領後は直ちに原油の探索を行うよう具体的な場所も含めて指示済みだ。


また、チュメニを確保した段階でモスクワまでは残り1700kmとなり、クラスノヤルスクを出発してから中間点に近づいたことになる。

ここまでは順調に進軍できているが、ここからはソ連の抵抗が激しくなることが予想されるから進軍速度は落ちるだろう。


ソ連は人海戦術による突撃を繰り返してきているが、優秀な将校と指揮官に恵まれていないのが致命的で、単に戦死者と捕虜を増やすだけの行為となってしまっている。

この状態は第一次世界大戦時の帝政ロシア陸軍と殆ど同じと言ってよく、違う点はソ連兵の後方に「督戦部隊」がいて、一般兵を脅して前進させている点か。


東部戦線の総指揮官である山下大将は、かなり早い段階においてトハチェフスキーとジューコフからの報告があった為にその事実に気付いたみたいだが、最初はそんな軍隊が存在するとは信じられなかったらしく何度も確認したが、粛清の危機を経験した両名にとっては現実の話であり、怒りを覚えた山下大将はそれ以降、督戦部隊と思しき集団を優先的に空爆して排除するようにしているみたいだ。


そして督戦隊のプレッシャーが解けた前線部隊における捕虜の数は異常値となっていて、シベリア鉄道は往路が軍需物資を満載しているが、復路は捕虜を満載している状態らしく、捕虜収容施設はいくら拡幅してもキリがない状態との事だ。

ソ連から脱出する為に故意に捕まっているのでは?との声が最前線で出ているほどだという。


この「捕虜」だが、もしかしたら不名誉なものであると認識している人がいるかも知れない。

しかし1899年のハーグ陸戦条約と1929年に採択された「俘虜ノ待遇ニ関スル条約」という戦時国際法を守っている限り、捕虜は名誉あるものとして扱わねばならないとのルールがあり、これを無視すると戦争終結後に戦犯として処断されてしまう。

これは捕虜の側でも同様で、捕虜としての名誉ある待遇を受けるためには守らねばならない基本的なルールが四つあるが、大前提は「不正規兵ではなく戦闘員」として相手に認めて貰わねばならない点だ。


第一は軍隊の規律の中にある事。無頼漢の類ではないことだ。

第二は戦闘員である証、標章を所持していること。すなわち軍服を着ているなど一見して判別できなくてはいけない。

第三は公然と武器を所持する事で、隠し持っていきなり使用してはならない。

第四に戦時国際法を守る意思と知識を有することだ。


以上の点を守らず戦闘行為を行うと、これまた戦争犯罪人として裁きの対象となる。

よって仮に令和の日本に対する攻撃が行われて、敵兵が上陸してきたとしても、義憤にかられて一般市民が手続きを踏まずに反撃してはいけない。


念のため触れておくが、だからといってアメリカ軍がフィリピンで犯した蛮行は許される範疇を完全に超えた過剰なものであることは言うまでもない。


結論として捕虜は大切に遇さねばならないわけで、決して人道上必要だから行うものだけではない。

だが史実の第二次世界大戦における捕虜の扱いはどこの国においても非道なレベルだった。

特に独ソにおける捕虜の扱いはおぞましく、ドイツでは推定500万人のソ連兵が、ソ連でも最大100万人のドイツ兵、34万人の日本兵が捕虜収容所で命を落としているし、余裕を失った日本軍の捕虜に対する扱いも酷いレベルであった。


そんな予定外の捕虜の発生という出来事もあったが、当初懸念していたT-34戦車に対しても日本の戦車は優越しているし、新開発の対戦車ロケット砲が効果的で、チュメニを確保した後は二手に分けれて北のエカチェリンブルクを攻略後にウラル山脈中央部からモスクワを目指す軍団と、南のカザフスタンのアクモリンスク(21世紀では首都アスタナ)を攻略後、ウラル山脈南側を回り込んでモスクワを目指す軍団に分かれる事になる。

来年になれば新型戦車群、三式戦車と呼ばれるだろう戦車が投入予定だから、更に優位に立てると見込まれる。


このアクモリンスクだが収容所都市としても有名で、粛清された人々の家族が収容されているとのことなのでここを解放し、ソ連とスターリンに対するプロパガンダに利用させていただく予定だ。


一方、同盟側、枢軸側双方にとって全く重要ではない北アフリカの地では史実以上の悲劇が繰り広げられようとしていた。

第二次世界大戦の中でも特異な戦場と呼ばれる事になるが、後世においても「何故ドイツはここに注力したのか?」と言われ続ける事にもなり、研究者たちからは「ヒトラーの頭の中は分からない」と評価されることになる。


それは現在生きている俺から見ても良く分からない決断と言えるだろう。

ドイツがこの地に最終的に投入しようとした兵力は220万人以上、戦闘車両5000台の大兵力だと戦後判明したが、結果的には地中海における補給線を絶たれて孤立する事になる。

また、北アフリカに向けて地中海を移動中の輸送船を沈められたことによる損害は、ドイツが追加で送ろうとした戦力のほぼ全数にあたる20万人にも達し、こちらも無視できない。

結局、独伊両国は地中海の制海権と制空権を完全に失う事によって日英軍に翻弄される結果となった。

ドイツ空軍としてはアテにならないイタリア空軍に任せる訳にもいかない状況だったから応援を出したかっただろうが、バトル・オブ・ブリテンにおける損害が響いて無理だったみたいだ。


陸上戦闘においては砂漠地域での戦いであり、前線ではその地形を利用した大胆な機動戦が行われた。

その進撃距離は長いが地域は細長く、占領した地域が広域であろうとも土地そのものの価値は低く、地上戦だが補給は孤島に援軍を送るように困難であり兵站能力が極めて重要だった。

また、全軍への補給を含めた地中海の制海権、数少ない港湾の有効利用、マルタ島の価値、制空権が地上戦に大きな影響を与えた。

同時に独伊軍の戦力の大きさと補給量の乖離問題により、戦線が短時間では大きく移動しなかった。

この際の移動に活用された主なルートはその多くがかつてのサハラ交易路で、海からも近く日本戦艦による艦砲射撃の目標になった。


北アフリカのリビアで苦戦するイタリア軍への援軍として送り込まれたドイツアフリカ軍団の指揮官であるエルヴィン・ロンメル上級大将は、補給を断たれたという劣勢な状態ながら地理・気候を利用した巧みな用兵で同盟軍と戦ったが、最終的には補給を無視した無謀な突撃を繰り返し、後世「砂漠の猪」と呼ばれる事になる。

だが、北アフリカ戦線での初期段階における働きが認められ、ドイツ軍で当時最年少の元帥となった。

あくまでも初期段階における成功と、戦功著しく昇進させざるを得なかったマンシュタイン上級大将らとのバランス、或いはヒトラーにとって苦手な彼らに対する掣肘を考慮してのことだが。


作戦終末期に無理やり目標として追加されたスエズ運河の制圧と、中東の原油地帯を目指すという野望も空しく北アフリカはイタリアにとっては地中海覇権の夢が破れる土地であり、ナチス・ドイツにとっては資源と貴重な兵力を枯渇させる地でしかなかったのだ。


・・・え~っと、そもそも作戦開始時の戦略的目標は何だったのだろう?

全く見えない泥縄に感じるし、この辺りの事は旗色が悪くなった史実の日本軍に頻発する事象なのだが。


当時のイタリア政府とムッソリーニは東アフリカ植民地の拡大を企図していて、ついでに自軍がアフリカに展開しているイギリス軍を足留めできれば、ドイツのイギリス上陸を助けることが出来るとの読みもあったみたいだが。


こういうのを余計なお世話というのかな。


イタリア軍上層部は装備や補給面での不足から慎重な行動を求めたが、ムッソリーニは軍の反対を押し切る格好で、1941年9月18日、全軍にイタリア領リビアからエジプトへの攻撃を命じた。

この背景としては地中海における制海権と制空権を確保する事によってイタリアから見た南側の安全圏を確保する意味合いもあったと思われる。

しかしながら、これまで述べてきたように北アフリカという地は戦略上の要衝でも何でもなく、単なるイタリアから見た被害妄想でしかなかったと後に断罪される事になる。


1942年(昭和17年)1月13日、エジプト侵攻を開始したイタリア軍は兵員20万人からなるイタリア第10軍を戦地に投入し、イギリス軍が戦略的撤退を行ったこともあって、順調に東へ進撃しエジプト国境を越えて国境線から約50km東のエル・アラメイン近郊まで進軍した。

しかし、徒歩移動の部隊が大勢を占め、かつ補給が慢性的に不足したため、そこで進撃を停止した。

その結果、十分な機械化と補給を受けたイギリス軍10万人は優位に戦いを進めた。


イタリア軍はエル・アラメイン近郊に留まったままであったが、1月29日にオコンナー将軍の指揮下で、イギリス西方砂漠軍は第7機甲師団及び第4インド師団を投じ、大規模な反攻作戦であるコンパス作戦を開始し、日本軍も長距離爆撃機「朱雀」300機による絨毯爆撃を行い援護した。


日英軍の圧倒的な機甲戦力と経空脅威の前にまともな機甲戦力や機械化部隊、航空戦力を持たないイタリアの4個師団は為す術も無く包囲され壊滅し、2月初頭にはイギリス軍の新戦力第6オーストラリア師団が投入され、エル・アラメイン後方に展開していた残余部隊も2月10日に降伏した。

この戦闘中に第10軍指揮官は戦死し、指揮系統が乱れたうえに、イタリア軍は将兵の捕虜17万名を出す敗北を喫して壊滅した。


イギリス軍は2月中旬までにトブルクや更に西方のベンガジを占領したが、ドイツ軍がイタリアの尻拭いのためにバルカン半島へ侵攻したためギリシャへ援軍を送らねばならず進撃は停止してしまった。

そして一連の戦闘に大敗したイタリアの要請を受け、ドイツが支援を開始し大規模な増援が北アフリカに派遣されることとなった


3月末にエルヴィン・ロンメルを指揮官とする200万人のドイツアフリカ軍団が編成され、イタリア西北部ジェノヴァから地中海を超えてチュニジア港湾都市チェニスに派遣された。

ロンメルは4月には本格的な反攻を開始し、5月にはベンガジを奪回、イギリスのオコンナー将軍を捕虜にする戦果を挙げた。


しかしここでロンメルにとって予期せぬ事態が訪れる。

地中海に日本艦隊が現れ、戦艦8隻による艦砲射撃によってチュニスとトリポリ間の補給路が断たれたのだ。

このチュニスとトリポリ間のほぼ中央に位置するガベス湾とジェリド湖の土地は奥行きが15㎞しかなく、金剛型戦艦の射程距離内であって、絶好の的でしかなかった。

しかもこの場所はエジプトを根拠地としていた日本の重爆撃機「朱雀」の航続距離内に位置していたことも災いした。

結果としてドイツ軍の補給部隊は全滅し、地中海の制海権と制空権を失ったドイツ軍はこれ以降は袋のネズミも同様の状態に追いやられることになる。


更にドイツ軍に凶報がもたらされる。

日本軍が本格参戦してドイツ軍並みの兵力で北アフリカに上陸するらしいとの情報だ。

この状況下でドイツ軍はイギリス軍の要塞となっていたトブルクを包囲したものの、イギリス側の抵抗とこれまでの戦いによる燃料・弾薬の消耗などにより陥落させることはできず、日本軍に対峙する意味もあって大きく西へ後退することになる。


一方のイギリス軍は日本側からの情報を基に戦略を変更し、ドイツ軍の物資の消耗を狙って戦略的後退を実施し、エジプト領内迄ドイツ軍を誘引することを企図した。

一時、日本軍を警戒してエル・アゲイラまで撤退したドイツ軍であったが、1942年6月には反攻を開始した。

その結果6月15日にベンガジが、7月7日にはトブルクが陥落した。

ロンメルはその勢いのままサルーム、メルサマトルーといった小都市を通過して8月1日にエジプト主要都市の一つアレキサンドリアの西、エル・アラメインにまで到達したが、そこで攻勢の限界点を迎えた。


遂に燃料・弾薬不足が露呈しロンメルが慌て始めたのだ。


1942年8月15日には後世「エル・アラメインの戦い」と呼ばれる戦闘が開始されたが、ドイツ軍の弾薬不足により戦闘はこう着状態に陥った。

ドイツ軍としては十分な戦力があった為に一気にエジプト全域を攻略したかっただろうが、ここ辺りから補給の不安が常に付きまとう事になる。


9月1日にイギリス軍はエル・アラメインの防御にあたっていたイギリス第8軍の指揮官にバーナード・モントゴメリーを任命した。

イギリス首相チャーチルは、イギリス軍の早期反攻を求めたが、モントゴメリーは日本軍からドイツ軍の補給線を断ったことを知らされていた為にこれを断り、戦力の充実につとめた。

イギリス軍の反攻は10月23日の反攻作戦から始まり、さらに11月1日夜から本格的な反攻作戦を開始した。

この攻撃によりドイツ軍の戦車等の砲弾と燃料は残り僅かとなり、1942年11月28日、指揮官のロンメルは西側リビア方面への撤退を命令した。


こうなってしまえば、どれほどドイツ機甲師団の兵力が優勢であったとしても補給が無いのではどうにもならない。

しかも地中海を超えてドイツやイタリアから補給部隊が来援するなどという希望は全く持てなかった。

ここでロンメルが全てを諦めて降伏してくれれば良かったのだが、燃料と弾薬の切れた戦車を放棄して軽装の歩兵部隊だけで前進を図った。

戦後に判明したことだが、ドイツ軍は中東の油田地帯まで進出して燃料の補給を試みた結果であるという。

それを聞いた時の俺の気持ちは「そんな馬鹿な」というものであり、これは全く無謀な判断で、中東の油田地帯までは軽く1000kmは離れているから、机上の空論以前の問題だ。

更に後になって聞いた話ではロンメルとしては降伏したかったらしいが「ドイツの元帥で降伏した者はいない」というヒトラーの一言で降伏は却下されてしまい、追い込まれた結果だったみたいだ。


なんか似たような話があったな。


これに対してイギリス軍は砲撃による猛攻を加えた事と、日本の戦艦からの艦砲射撃によって一方的な虐殺に等しい惨状を呈する事になり、モントゴメリーはたまらずロンメルに対して降伏するよう促すに至る。


1942年(昭和17年)12月11日

そして、ようやくここで北アフリカの戦いは終わった。

降伏して捕虜となった独伊両国軍は160万人にも上り、イギリスは収容所と捕虜の食料などの確保に苦労する羽目になった。

ロンメルも捕虜になったらしいから、史実みたいに帰国してヒトラーの暗殺を企てることは出来ないだろう。

そしてイギリス軍は4000両以上の戦車などのドイツ側の重装備を鹵獲し、識別マークを塗り替えて自軍のものとした。


その間の1942年5月には日本軍はルーマニアとトルコを助け、ソ連侵攻を行うために陸軍部隊を乗せた大輸送船団をソコトラ島から前進させ、トルコ領内のダーダネルス海峡とボスポラス海峡を通過して黒海にまで進撃していた。

ソ連としてはこの事態は全く予想外だったみたいで、慌てて黒海艦隊を出撃させてきたが無意味だったと言えるだろう。


日本海軍がこれを支援する為に黒海まで進出し、空母機動部隊による黒海艦隊撃滅に動いたためだ。

黒海艦隊はクリミア半島南部のセヴァストポリ海軍基地を母港としていたが、この時代の戦力は日本海軍と比較にならいほど小さなものだ。

そもそもこの黒海艦隊はイタリア海軍を参考に成立したという過去があり、そのコンセプトや仮想敵もイタリア同様に全く不明確なものであって、日英のような本格的な海洋国家の艦隊に対峙できるような戦力ではない。

ましてや空母などという艦種は見た事すら無いだろう。


そこへ圧倒的な日本の空母機動部隊の艦載機が襲った。

黒海艦隊の主要な戦力は戦艦1、巡洋艦5、駆逐艦18、潜水艦40隻余りだったが、空襲によりほとんどの艦を沈められ壊滅した。

更にセヴァストポリ海軍基地は破壊され機能を完全に失った。


しかし、ソ連はこの事実を外部に対して公表しなかったために、航空攻撃によって戦闘行動中の戦艦が撃沈された世界初の事象は表沙汰にならず闇に葬られた。

日本側も航空戦力の優位性をまだ公表するのは得策ではないと判断した為、戦艦撃沈の事実を発表せず、世界の海軍関係者が事実を知るのは、全てが終わり平和が訪れてからになる。


1942(昭和17年)年6月

黒海の制海権と制空権を完全に確保した日本軍は、同盟側の貴重な拠点であるルーマニアに上陸を果たし、重要拠点の一つとしていたプロイェシュティ油田を制した日本軍は態勢を整えた後に200万人の兵力でウクライナ方面から一路モスクワを目指して北上を開始した。


こちらは東部戦線に対して南部戦線と呼ばれることになる。


そして日本軍のルーマニア上陸を知ったオーストリア、ハンガリー方面で逃げ遅れていたユダヤ人はルーマニアを目指して脱出を開始し、ウクライナ人は一斉にソ連に対して反旗を翻し始めた。

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