第92話 第二次世界大戦終結?

1945年(昭和20年)1月


ドイツとの戦争も峠を越し、制海権は確保出来たのでイギリス海軍に後事を託し、昨年9月以降は少数の駆逐艦と潜水艦部隊を残して空母機動部隊を含む主力は日本へ帰国して整備を行っている。

ずっと戦い続けてきたから休養も必要だし、本格的な整備をしないといけない頃合いだからだ。


2月

ソ連を制圧した東部方面軍はモスクワ近郊で4つの軍団に再編成を済ませ、態勢を整えた上でドイツに向かって進軍を開始しており、主力は現時点でポーランド国境から20km地点のベラルーシのブレスト近郊に集結していた。

軍団は北からA軍団(トハチェフスキー元帥)、B軍団(ジューコフ大将)が率い、この2軍団を統括するのは山下元帥で、続いてC軍団(栗林大将)、D軍団(牛島大将)であり、統括するのは今村元帥となる。

なおA軍団は先行してバルト三国の開放を行ったうえで合流していた。


1940年(昭和15年)、ソビエト連邦がバルト三国(リトアニア、ラトビア、エストニア)を侵略し、これらの国は地図の上から姿を消したが、三国にとっての悲劇はそれだけではなかった。

彼らはスラブ民族ではなく、それぞれが独立した民族を形成していたし固有の言語も用いていた。

しかし侵略の直後からスターリンが指揮するソビエト連邦政府は、医師、弁護士、ジャーナリスト、教師、ビジネスマン、音楽家、アーティストなどの知識階層を「謀反者」として逮捕し、処刑、あるいは強制収容所に送った。

スターリンが率いるソビエト連邦によって被害を受けた人数は確定していないが、100万人を上回ることは確実で、ソ連という国家、そしてロシア人に対する忌避感情はぬぐえないものがあるだろう。

そもそも帝政ロシア時代からこれらの国々は超大国ロシアによって圧迫を受け続けていたのだから…

今後は解放された人々の憎しみや復讐心が、スラブ系の人達に向かないように注意しなくてはいけない。


ここからA・B軍団はポーランドのワルシャワを解放したうえで西のベルリンを目指し、C・D軍団はポーランド南部のクラクフを目指し、プラハを経由して南からベルリンを目指すことになった。


既に西部戦線においてはノルマンディー上陸作戦の後にパリは解放され、結果としてヴィシー政権は崩壊し、ドゴールが掌握したのちはフランスが同盟側に復帰したから、戦況は圧倒的に我々同盟側に有利となっている。

しかし、あの恐るべき機甲師団はまだまだ健在であり、エーリッヒ・フォン・マンシュタインや

フェードア・フォン・ボックといった優れた将帥に率いられているから油断がならない。


そして東部方面軍はドイツ占領下のポーランドに進撃を開始したのだが、そこで同盟側将兵が見たものは地獄そのものだった。


ホロコーストの実態を知ってしまったのだ。


史実と違って当時のヨーロッパにおいては多くのユダヤ人が既に安全圏へ逃げ出していた。

まずは日本の船舶による大量移住により概算300万人以上。

以降も順次脱出は継続されていたが、1940年のナチスドイツによる迫害が本格化してきた段階で東欧諸国を中心に日本大使館や領事館に日本へのビザの発給を求めて多くのユダヤ人が殺到した。

それらの人々は日本、次いで東パレスチナへと逃れることが出来た。

更には戦争の激化と共に日本軍がルーマニア、次いでウクライナとベラルーシに進軍する過程で50万人以上が脱出していたが、それでもなお100万人近いユダヤ人が逃げ遅れてナチスに捕まり、まずは強制収容所に入れられ、次いで絶滅収容所に送られた。


強制収容所と絶滅収容所は似て非なるものだ。


以前も触れたように強制収容所は共産圏を中心に世界中に存在していた。

アメリカ合衆国では先住民たちが当局によって強制移住させられ、彼らが送られた先はインディアン保護区と呼ばれたが、先住民にとっては強制収容所そのものだった。

史実における第二次世界大戦中は、アメリカ合衆国をはじめ、カナダやオーストラリアなどのイギリス連邦の国々でも日系人の強制収容が行われ、多数の日本人・日系人が、強制収容所に押し込まれた。

また、沖縄戦終結直後に県民達がアメリカ軍によって強制収容された例がある。


近年ではアメリカ軍によるキューバ最南端のグァンタナモ基地内刑務所、アフガニスタン駐留軍のバグラム空軍基地内刑務所が強制収容所として認定されている。

2005年11月には、CIAが対テロ戦争で拘束した「容疑者」を、東ヨーロッパのいくつかの国にある旧ソ連時代の政治犯収容所に、また2006年には「テロリスト若しくはその関係者と接触した可能性のある人物」をシリアの秘密収容施設に法的根拠なく収監・拘束していたことが発覚しているから、アメリカ合衆国は21世紀においても「自由の国」とか「民主主義の保護者」を名乗る資格はないだろう。


オーストラリアでは、白人との混血も含むアボリジニと呼ばれた先住民の児童が親元から引き離され、牢獄のような劣悪な強制収容所に送り込まれた例がある。


このように多くは白人が有色人種に対して行った蛮行だが、片や日本でも戦時中にロシア人選手のヴィクトル・スタルヒンをはじめ多くの外国人が軽井沢に収容された例もあるからあまり胸は張れない。


しかし絶滅収容所の残虐性はこの比ではない。

ナチスは大量殺戮を効率的に行う目的でわざわざ最初から絶滅収容所を建設していた。

主に拘留施設や労働施設として利用された強制収容所とは異なり、絶滅収容所(死の収容所とも呼ばれる)は大量殺戮それ自体を主な目的としていたのだ。


ドイツの親衛隊と秘密国家警察ゲシュタポは、絶滅収容所にて有毒ガスによる窒息または射殺により50万人近くのユダヤ人と、スィンティやロマと呼ばれている人びと(日本では「ジプシー」と紹介されているけれども、この呼称には差別的な意味合いが含まれるので表現に注意)もアウシュヴィッツをはじめとした強制収容所において虐殺された。

その数はこちらも50万人以上とみられ、合計すると100万人に達すると判定された。


史実だとそれら虐殺された人々の総数としては、ユダヤ人660万人は言うに及ばず、ドイツ人ではあっても身体・精神の障碍者、共産主義者とそのシンパと看做された者、同性愛者、スラブ人などを加えて1100万人の多数にのぼるとされる。

その史実より数は少ないが、それでも100万人という人数は重いし、何の慰めにもならない。


その後の同盟軍による調査よって判明したことは以下の通りで、最初の絶滅収容所は1943年12月にポーランドに開設されたヘウムノ収容所だった。

そこの移動式ガストラックで殺害されたのはほとんどがユダヤ人だったが、ロマ族も含まれていた。

1944年になるとナチスはポーランドのユダヤ人を組織的に殺害するために、ポーランドの内陸にベウジェツ、ソビボル、トレブリンカ絶滅収容所(総称してラインハルト作戦収容所と呼ばれる)を開設した。

ラインハルト作戦の絶滅収容所では、親衛隊とその補助部隊が1944年3月から1944年11月までの間におよそ20万人のユダヤ人を殺害した。


そしてアウシュビッツ・ビルケナウだ。


絶滅収容所に到着したユダヤ人を中心とした移送者のほぼ全員が直ちにガス室に送られた。

最大の絶滅収容所はアウシュビッツ・ビルケナウ収容所で、1944年の春までに4つのガス室が稼働していた。

移送者数が最も多い時期には、ポーランドのアウシュビッツ・ビルケナウ収容所で毎日3000人ものユダヤ人がガス室に送られていた。

1944年11月までに、ここでは60万人以上のユダヤ人と数万人のロマ族、ポーランド人が殺害された。


映画「シンドラー○リスト」でも表現されていたが、ユダヤ人犠牲者から奪った所有物や貴重品、果ては金歯を含む貴金属の貯蔵所もあった。

親衛隊は、絶滅収容所を最高機密として扱っていて、ガス室の使用痕跡をすべてぬぐい去るために囚人による特別部隊がガス室から死体を運び出して焼却する強制労働を課されていた。

一部の絶滅収容所の敷地は、数十万人の殺害を隠蔽するために、景観の変更やカモフラージュが施された。


時期的には日本軍がルーマニアに上陸を果たし、ベラルーシを解放したついでにポーランドに進攻できていれば未然に防げたかもしれない。

しかし当時の日本軍の状況では独ソを同時に相手にできる環境に無かったのは事実だったから、残念だが許してもらうしかない。


これらのナチスによるあり得ない蛮行の実態を知った同盟軍、特に同胞への虐待を目にした東パレスチナ軍将兵の気持ちは想像する事すら出来ない。

同盟軍は直ちにこの蛮行を全世界に向けて発信し、同盟側諸国はもちろんだが、中立国だけでなく枢軸国側でも大きな衝撃をもって受け止められた。

これにより枢軸国側からは最初にスペインが脱落し、逆にドイツに対して宣戦布告を行った。

もともとスペインは枢軸国側ではあっても積極的な軍事行動は起こしていなかったし、フランスを奪回された時点で枢軸国側から抜けるタイミングを図っていたのだろう。

そして今回、スペインにとって都合の良い言い訳が出来たから動きやすかったのだろうと思う。

ただし一度裏切った奴はまた裏切るから、安心できないし対策はしておかねばならないのは鉄則だ。


大戦末期に東欧諸国がドイツから次々に離反していったのは、このホロコーストが表面化した事が最大の要因だろう。

ポーランドの首都ワルシャワでは、同盟側の呼びかけでポーランド国内軍や市民が蜂起し、ドイツ軍と激しく争う事態になったし、ほぼ同時期にスロバキア共和国でも民衆蜂起が起きた。


2月下旬にはブルガリアの政変で、親独政権が崩壊し枢軸側から脱落した。

3月にはハンガリーも降伏し枢軸側から離脱。

更にベーメン・メーレンチェコ保護領においても民衆の暴動が発生して、それまで民衆を押さえつけていたドイツ親衛隊へ襲いかかり、首都プラハにて逃げ遅れた親衛隊の幹部たちは、数百年に一度発生している恒例のイベントに巻き込まれた。


それは建物の窓から人間を投げ捨てるという独特のイベントで、歴史的には「プラハ窓外放擲そうがいほうてき事件」と呼ばれ、過去において2回発生していたが、悪逆非道の限りを尽くした秘密国家警察ゲシュタポ長官のラインハルト・ハイドリヒも通算3回目となる今回のイベントに巻き込まれ、窓から捨てられた。


ただし落ちた地面には別の親衛隊幹部の遺体があった為か運良く(?)一命は取り止め、瀕死の状態のまま民衆によって貢ぎ物を捧げるが如く同盟軍へ差し出された。


この男には過酷な軍事法廷が待っているから、すんなり死ねた方が幸せだったかも知れない。


そしてホロコーストの衝撃は当然だが身内のドイツ軍も襲った。

この当時、ドイツ軍において高級将校の中核をなすのは「ユンカー」と呼ばれる階級の人々であった。

ユンカーとはプロイセン王国の領域に存在した土地貴族、或いは地主貴族と呼ばれる階層に属する人々で、プロイセン王国からドイツ帝国、さらにナチス時代までのドイツの支配階級、特に軍部において顕著であり、モルトケの精兵とも呼ばれた精強なプロイセン陸軍の中核となった栄光の歴史を持つ。

誰がユンカーなのかは比較的簡単に名前で判別できる。

名前に「フォン(VON)」と付いている高級軍人は、絶対では無いにしてもユンカー出身である確率が高い。


有名なユンカー出身者としては鉄血宰相オットー・フォン・ビスマルクや「ロケットの父」ヴェルナー・フォン・ブラウンもそうだが、以下に第二次世界大戦時におけるユンカー出身者の一覧と、史実における最終階級・代表的任務を記しておく。


・ディートリッヒ・フォン・コルティッツ歩兵大将~パリ解放時のドイツ軍司令官


・ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ陸軍元帥~ドイツ国防軍第2代陸軍総司令官


・ゲルト・フォン・ルントシュテット陸軍元帥~バルバロッサ作戦時の南方軍集団司令官


・フェードア・フォン・ボック陸軍元帥~バルバロッサ作戦時の中央軍集団司令官


・ヴィルヘルム・フォン・レープ陸軍元帥~バルバロッサ作戦時の北方軍集団司令官


・エーリッヒ・フォン・マンシュタイン陸軍元帥~ドイツ陸軍最高の頭脳


ほんの一握りを紹介しただけだが、こういった階層の人々は自身の出自に対する誇りとユンカーの義務感、そして愛国心が高い人物が多く、史実においてもホロコーストとは無縁だったし、この世界においても最初から下品なナチスに対しての忌避感があったと思われる。


そもそも戦争そのものは軍人に任せておけばよいものを、たかだか「伍長」止まりのヒトラーが細かい作戦に対しても口を挟むことに対して懐疑の念を抱く将校が多く、当然ながらヒトラーを軽蔑していたし、ヒトラーから見てもそんな部下たちに対する苛立ちはあった。


しかも負け戦の連続だ。


そういった状態のところへナチスが行ったホロコーストの実態を知るに及び、これらユンカー出身の人々は完全にヒトラーを見限った。

これ以降彼らは戦意を失い、ドイツ軍が絶対優勢な場面でも同盟軍への攻撃を下命せず、自軍の被害も発生させないという「静かなサボタージュ」によってナチスドイツを早期の敗北に追い込んでいく結果になる。


3月2日

アメリカ合衆国大統領 就任式

ハリー・S・トルーマンが第34代大統領としてホワイトハウスの住人となったが、この男が日本に対してどういった態度で臨むのか注視しなくてはならない。

何故ならトルーマンという男は史実でもそうだったが、外交的な知見がほぼ無い故に周囲の意見に流されやすく、もっとも気をつけねばならないのが今回このトルーマン政権の中枢部を担う事になったのがF・ルーズベルト政権において取り巻きだった連中が復権したという点だ。

ハリー・ホプキンス、ヘンリー・モーゲンソー、ハリー・デクスター・ホワイト、ロークリン・カリー、アルジャー・ヒスにスタンリー・クール・ホーンベックといったべノナ文書にも登場する要注意人物が多数含まれている。

こういった連中が危険なのは、共産党が滅びた現在でもその反日姿勢は変わらないだろうという、まさにその点にあるわけで、NECにも動向を注視するように指示を行っておいた。


3月3日、西部戦線においてイギリス軍はベルギーの首都ブリュッセルを解放した。

次いで一気にドイツを降伏に追い込むべくイギリス軍のモントゴメリー元帥は3月17日、オランダのナイメーヘン付近でライン川支流を越える作戦を実行し、オランダを解放した。

またルクセンブルクは既に解放していたため、以後はドイツ本国への進撃に注力することになる。


そしてドイツ本土空襲は激化している。


ドイツ本土上空では引き続き激戦が繰り広げられていたが、ドイツ側では本土防空体制強化への軍備リソース投入の偏重はさらに高まっており、戦闘機の80%が本土防空に充てられていた。

そのために東欧を進撃中の同盟軍との戦闘においては、1000機の同盟軍戦闘機に対してドイツ空軍は100機で対抗しなければいけないといった惨状で、ドイツの崩壊を早める原因にもなった。


ドイツ空軍は、さらに多大なリソースをつぎ込んで、戦闘機の増産を図り機上レーダーなどの装備を充実させようとしたが、それら軍需工場を襲ったのはソ連の軍需工場や工業地帯の爆撃で名を馳せた「朱雀」と「飛鳥」の爆撃機部隊であり、それらを護っていたのは夜間戦闘機の「月光」と「極光」だった。

更には新開発の五式重爆撃機「鳳凰」の実戦配備が始まっており、この機体はドイツ機よりも高高度を飛行できたし、厚い装甲で覆われてもおり、例え戦闘機による襲撃に成功したとしても撃墜は非常に困難で、「鳳凰」自体の機関銃砲座も優秀だったから撃墜を更に困難なものにしていた。


ちなみに「鳳凰」とは中国神話を発祥とする伝説の霊鳥であり、「聖天子の出現を待ってこの世に現れる」最も縁起の良い鳥類とされていて、日本・台湾・ベトナムなどの漢字圏の国々で広く知られている。

日本では宇治平等院鳳凰堂と金閣寺の屋根に鳳凰の飾りが設置されている。


「朱雀」も古代中国発祥の方位を司る四神の1つ、南方を守護する神鳥とされていて、翼を広げた赤い鳥の姿をしており、炎のエネルギーを宿すと信じられたが、「火の鳥」や「不死鳥」とは異なる存在で、不死性を持つとはされていない。

なお、南が朱雀で北が玄武、西が白虎、東が青龍というのがお約束となる。


爆撃の結果として多くの工場群が破壊され、ドイツの継戦能力を奪っていった。

特に新型戦闘機Me262は本格的なジェット戦闘機として活躍を期待されたが、生産工場を破壊されて実戦配備されなかったし、史実ではイギリスにある程度ダメージを与えたと評価されている世界初のロケット兵器であるV-1号、世界初の弾道ミサイルV-2号といった新兵器の生産工場もことごとく爆撃によって破壊されていった。


また東西南北全てが同盟軍によって包囲されており、もはや資源の搬入すら困難な状態に追い込まれ、第一次世界大戦同様に降伏は時間の問題と思われていた。

ドイツ空軍は甚大な損害に持ち堪えらえず迎撃機の数は減り続け、パイロットの練度も低下していった。

1945年初頭には1,000機以上で来襲する同盟軍戦爆連合に対し、ドイツ本土を守る迎撃戦闘機はわずか40機、それもごく少数のベテランパイロットに率いられた未熟なパイロットで編成されており、三式艦上戦闘機を操縦する日本軍のベテランパイロットたちは、ドイツ空軍戦闘機の編隊を「ガチョウの行列」と嘲り、たちまちの内に撃墜してしまった。


この頃になると、ドイツの崩壊は秒読みに入ったと同盟国側の首脳陣が認識するようになっていた。

ドイツ軍は1945年3月の一月だけでも40万人の兵士が死傷するなど、1945年に入るころから毎月にわたって史実のスターリングラード級の惨敗をしているも同然の人的損失を被っており、既この戦争における兵士の損失は捕虜を含めて340万人に達していた。

兵員不足によりドイツ軍精鋭師団の多くもこれまでの激戦で原型をとどめないほど小規模化していたので、大規模な反攻作戦など不可能と思われていた。

しかしヒトラーは強権を発動し、徴兵年齢を拡大して、実質的な国民皆兵を求めた。

命令を受けた親衛隊のハインリッヒ・ヒムラーは、無軌道な徴発を実行して更にドイツの国力を奪う結果になった。


5月11日

同盟軍はA軍団、B軍団がポーランド西部の都市ポズナンからベルリンに向けて進撃を開始した。

またプラハを制圧していたC軍団とD軍団もドレスデン、ライプチヒ方面へ進撃を開始した。


ヒトラーは敗色が濃くなると、同盟軍に焦土以外のものは渡さないと思い付き、さらに同盟軍の進撃がドイツ国境に迫ると、その破壊的な妄想を部下たちに語るようになっていた。

そして1945年6月に戦況が絶望的な様相を呈すると、ヒトラーはついにこの妄想を実現する時がきたと考えて、「ドイツは世界の支配者たりえなかった。ドイツ民族は栄光に値しない以上、滅び去るほかない」と述べ、ドイツ国内の生産施設を全て破壊するよう「焦土指令」を発する。

この命令を受けた軍需相アルベルト・シュペーアは、既に敗北は必至と考えており、無駄な破壊は国民を苦しめるだけだとヒトラーに進言したが、もはや狂気に囚われていたヒトラーは聞く耳を持たなかった。

そこでシュペーアは軍需相の部下や地方政治家と協力して、「焦土指令」の実行を妨害することに力を尽くしたが、そもそも指令を実行できるような量の爆薬は既になく、また、この指令をまともに実行しようという者もおらず、指令が実現することはなかった。


その後、西部戦線の同盟軍は6月22日から24日にかけて相次いでライン川を渡河し、イギリス軍はドイツ北部へ、日本軍はドイツ中部から南部へ進撃する。

7月11日にはエルベ川に達し、7月25日にはベルリン南方約100km、エルベ川沿いの都市トルガウで東部戦線と西部戦線の軍は合流した。

南部では7月20日ニュルンベルク、25日にはミュンヘン、8月3日にはオーストリアのザルツブルクを占領した。

これ以降ヒトラーは体調を崩し、定期的に行っていたラジオ放送の演説も止め、ベルリンの総統地下壕に立てこもり、国民の前から姿を消す。


8月15日

ヘルマン・ゲーリング、ハインリヒ・ヒムラー、カール・デーニッツらの政府や軍の要人は、ヒトラーからの許可によりベルリンから退去し始めたが、ヒトラー自身はベルリンの総統地下壕から動こうとしなかった。

このような現実逃避を続ける指導者や指揮官に対し兵士の士気は低下し、戦争の最終局面に入って脱走や戦闘拒否が相次いだ。


ところで、「ヒトラー・フロイトの定理」という言葉をご存知だろうか?

ヒトラーは自著である「我が闘争」の中で、ローマカトリックがなぜ千年以上の長きにわたって世界最大の宗教として君臨できたのかについて考察している。

ヒトラーはそれが可能となった理由は絶対不可謬性にあったと結論付けている。

どんな過ちを犯しても決してこれを認めず、静かに引っ込めてしまうという事だ。

これを分かりやすく一般化したのがユダヤ人精神学者・心理学者のジークムント・フロイトで、簡便な言葉で身近なものとした。

つまり「人の上に立つものは決して取り乱してはいけない」という結論に行き着く。

軍隊はまさにそれで、どれ程ピンチが身近に迫っても指揮官は動揺してはならない。

動揺すれば部下は敏感に感じ取り、逃げ腰になってしまう。

だから、どれ程の危機に瀕しても表情に出してはならないという考えだ。

この考えは軍隊のみならず21世紀の中間管理職、例え部下が一人だったとしても肝に銘じたほうが良い理屈だろう。

営業マネージャーが「今月の計画達成は無理だ」と月初に発言してはならないし、本当にそうであっても違う形で部下を鼓舞しなくてはいけない。


とは言え、ヒトラーは理屈倒れだった。

最後の最後、最も大切な場面で「発狂」してしまい、人心は完全に離れた。


そして1945年(昭和20年)9月2日 

史実において第二次世界大戦が終結したとされていたこの日。

ヒトラーは防空壕にて自殺し、ここにナチス・ドイツは崩壊した。


ここからは21世紀において全否定される傾向が強いナチスとヒトラーだが、意外な面やまさかと思われる話を紹介しておこう。


まずはヒトラーが政権を掌握した後「帝国自然保護法」という法律を公布した。

27条からなるこの法律は、天然記念物の設定、自然保護の領域、自然保護局の設置などが定められており、1970年代に改正されるまでヒトラーが定めた法律を運用し続けていた。


次の意外な話はヒトラーはベジタリアンであったと言われる点だ。

宣伝担当のヨーゼフ・ゲッベルスは「ヒトラーは肉を食べないし、酒も煙草もやらない上に女性も近づけない」とか言っていたみたいだが、どこまで守っていたかは知らない。


最も意外なことは動物愛護だろう。

ヒトラー自身が犬を飼っていたことはよく知られているが、ナチスは動物愛護に非常に熱心で、ヒトラー自身が強烈な動物愛護家だったと言えば驚くだろうか。

しかしこれは事実だ。

ナチス政権時代に動物保護に関する法律として「ライヒ動物保護法」が制定された。

この法律には動物はそれ自体のために保護されることが明言されており、動物への残虐行為のなどの禁止事項が具体的にまとめられ、動物福祉の観点から動物虐待を禁止していた。

これは、ドイツ帝国時代の刑法との大きな違いだ。


これらの事実を理由にして「動物愛護はナチスの考えに直結する」とか「ヒトラーみたいな男が菜食主義だったのだから菜食主義はナチスの仲間だ」と言う人がいると聞いたが、全く関係がないし、何でもナチスやヒトラーと繋げて考えるのは危険で、「アウトバーンはヒトラーが作ったのだから使用してはいけない」などと言うのと変わらない。


ともかくソ連に続いてドイツも正式に降伏し、第二次世界大戦はようやく終了した。


俺としてはこれで安心できると思いたいが、戦後処理が大変でこれからが本番だ。

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