第51話 1916年の状況

1916年(大正5年)となった。


俺はついに30歳となってしまったが、相変わらず独身のままだ。

20歳を超えた頃から周囲や父母からは結婚を勧められる事が頻繁にあったが、最近は諦めたのか誰も言わなくなった。

実のところあまり女性に興味が無いのだが、その原因というか心理の裏には、この世界で俺の存在はエラーのような物なので、そんな人間が結婚して子孫を残していいのか?という思いが強いのかもしれない。

この時代において結婚しないことは、特に近衛家の嫡男として非常にマズい事は重々承知してはいるのだが。

そんな俺の代わりに陸軍大学を出て晴れて陸軍参謀になった文麿の方が先に結婚した。

まあこれで肩の荷は降りたかな。文麿には申し訳ないのだが。


それはそうとして戦争の経過だが、どの戦線も相変わらず一進一退のままで、死傷者と戦病者と捕虜の数だけが増えていくという、何のプラスにもなりはしない消耗戦を継続中だ。特にヴェルダン攻防戦など悲惨すぎて文字にしたくない。

双方ともに停戦の兆しというか意志は全くなく、アメリカによる仲裁も不発に終わる。


そしていよいよ日本の参戦準備が整い、本格的な介入を行う事となった。

基本的に海軍はイギリス周辺の北大西洋と北海に展開し、ドイツ海軍を主敵として戦う事となる。

最新鋭の金剛型巡洋戦艦8隻は全艦、ヨーロッパに投入される事となった。

理由としては強敵ドイツ海軍と対峙する為には新型艦が望ましいとされた事と、日本近海と太平洋からインド洋にかけては目立った敵は全く存在せず、旧式艦でも十分対応可能と判断された為でもある。


また陸軍は完成したばかりのハバロフスク経由のシベリア鉄道も利用してのロシア側から東部戦線への参戦だ。

東部戦線への投入予定兵力は40万人。


陸軍兵力としては、これとは別に輸送船を使用して西部戦線にも投入される。

こちらは10万人の兵力となる予定だ。

合計50万人の陸軍兵力を投入する事となり、日本の負担も大きい。

兵站に関して言えば海軍と西部戦線に投入される予定の陸軍への補給・整備・武器弾薬の供給といったものは英仏が肩代わりする事になった。

これは当然だな。

しかし東部戦線ではロシアの供給体制、特に食糧供給に不安があるので、日本から鉄道で補給することになっており、日本側の負担は大きい。


そして俺も「榛名」に乗艦し、ヨーロッパへ向かう事が決定した。


ここで俺は日本を離れる前に大きな布石を打っておいた。

かなり以前に紹介した俺の計画を覚えてくれているだろうか?

次の五つだ。


1、日露戦争に勝利する

2、ドイツ包囲網を完成し、第一次世界大戦勝利に大きく貢献する

3、ロシア革命の結果を史実と違うものにする

4、パレスチナにおけるイスラエル建国を阻止する

5、ソ連を倒すための戦略構築を開始する。


1は達成できたし、2も順調に進行中だ。

そして3と4に関する計画だが、俺がヨーロッパに出撃する前に仕込みを完了しておく事にしたのだ。


1月のある日、日露戦争においてロシアの反体制派を扇動することで、後方撹乱に功績のあった明石元次郎中将を自宅に呼び、父と共に3と4に関連する、ある重要な依頼を行った。

今後の日本の外交上も安全保障上も、またユダヤ人との約束の上でも極めて重要な依頼となる。

これは何年も前から父にこの事を相談していたし、元老を通じて政府にも一定の了解を得た上での行動だ。

元老の皆さんは半信半疑だったらしいが。


明石中将はもの凄く個性の強い人物だったが、これくらいの個性が無ければ任務は全う出来ないだろう。

彼は現在別の職責に就いているが、正式に辞令が降り次第、すぐに現地に赴く準備を始めてくれるそうだ。

彼は俺と父の話を聞いて「歴史に名を残せる」と大喜びしてくれた。

現時点でも十分歴史に名を残す実績はあるが、本人はまだ満足していないらしい。


そして2月初旬、日本海軍は従来の連合艦隊とは別に、加藤友三郎中将を総司令官とする遣欧艦隊を正式に組織して欧州へ向けて出港した。

派遣される兵力は俺の乗艦する「榛名」を含む金剛型巡洋戦艦8隻、巡洋艦・駆逐艦は計25隻、輸送艦、タンカー、石炭運搬艦など7隻の合計40隻に上る大艦隊で、奇しくも11年前のバルチック艦隊と似たような艦隊規模で、同じような航路を取ることとなった。

また陸軍兵力10万人を載せた大輸送船団も同行する。

こちらは総数50隻の大型輸送船を用い、兵士や軍需品などを各地で積んだ上で参集し、台湾海峡で合流してから大航海に出発する。

もちろん遣欧艦隊がその護衛任務に就く。

天皇陛下を筆頭に見送りに来てくれた数万の群衆に見守られつつ横須賀を出港した遣欧艦隊は、途中で輸送船団と合流の後、シンガポール、セイロン島コロンボ、ソコトラ島、スエズ運河を経由してイギリスを目指す。

俺たちを送り出す国民の皆さんの気持ちはオリンピックに代表団を送るような気分なのだろうか?

考えてみたらこれほど遠くにこれ程の大兵力を送り出すのは日本の歴史上初めての経験だ。

これが殺し合いに行くのじゃ無ければ最高なのだが。


先程バルチック艦隊を引き合いに出したが、遣欧艦隊とバルチック艦隊とでは条件が全く違う。

バルチック艦隊の主力が航行を拒否されたスエズ運河は当然ながら最優先で通過できるし、途中にある英仏の港湾で十分な補給も受ける事が可能で、その間の乗員の休養も問題なく取れるからだ。

もっとも俺は主計士官だから、寄港して補給を受ける時が一番忙しいのだが。

最初は不慣れな業務で周囲の足を引っ張ったかもしれないが、ソコトラ島での補給の際には何とかスムーズに業務をこなせたと思う。


それにしても日本が独自の海上通商路を持てた事の意味はとてつもなく大きな出来事だ。

それは今後の歴史の流れに極めて大きな影響を与えるだろう。

第一次世界大戦後は世界恐慌も起こった事で、世界のブロック経済化が進んだ。

その結果、更なる対立が生まれ、植民地の少ない日独は必然的に経済ブロックが小さい為、特に苦しく、これが結局次の戦争へ繋がってしまったが、今回の出来事で日本がそのような苦境に立たされる事は無いだろう。


イギリスは朝鮮半島と満州、それに中国大陸に大きな利権を有しており、逆に言えばアジア方面で日本を無視して行動できないという弱みにも繋がっている。

フランスについても同様に仏印の防衛を日本が受け持っている以上、見返りを求めることは当然で、自前の航路を持つ事によって、英仏側の経済ブロックに問題なく便乗できるだろう。

石油の確保にも目処がついたことも大変大きな出来事だ。これからは航路さえ防衛出来れば石油不足で苦労したような史実は発生しないだろう。

だから今後の海軍は艦隊決戦のような短期型では無く、本来の海軍のあるべき姿に立ち返る必要があるという事になる。


航海は極めて順調だった。バルチック艦隊は本国を出発して日本近海に至るまで7カ月以上を要したが、遣欧艦隊は結局40日ほどでイギリス海軍の本拠地であるスカパ・フロー海軍基地へ到着した。

そして遣欧艦隊の日本出港と途中の経由地での動静はイギリス国内でもほぼ毎日、大々的に報じられたようで、現地での歓迎ぶりは想像以上のものとなった。

イギリス政府高官や海軍軍人のみならず、熱狂した10万人を超える市民の大歓迎を受けたのだ。

とても嬉しいし、誇らしい気持ちでいっぱいになった事は言うまでもないだろう。

我々はこちらで長旅の疲れを癒し、艦艇のメンテナンスも行い、来たるべきドイツ艦隊との戦いに備える事となる。


一方で文麿はシベリア鉄道を利用してロシアへと向かった。

新たに徴兵した兵力を含めて、まず10万人を第一陣として東部戦線へ送り込む事になり、総司令部参謀として帯同するのだ。

その後順次10万人単位で兵力を送り込んでいく予定だ。

遣欧陸軍は日露戦争の英雄、秋山好古大将を総司令官として東部戦線でも南方を担当することになるらしいから、主にオーストリア軍やブルガリア軍と戦う事になるだろう。

史実でも結局この1年後にシベリア出兵と称して、事実上のロシア革命干渉戦争に7万人以上の兵力を投入しているから、現時点ではそれほど大きな差異は無い感じだ。

ただし、派遣される将兵の士気は全く違うらしい。

シベリア出兵では政府の出兵方針が明確に定まらなかった結果、日本軍将兵の士気は低く、軍規も乱れがちだったが、今回は膠着した戦線を動かし、これまで受けたドイツ人による様々な嫌がらせに報復する気満々みたいだ。


士気の点で気になる事は、現時点でロシア軍の士気が極めて低い事だろう。

皇帝ニコライ2世が自ら最前線に出て将兵を鼓舞しているが、日露戦争時と比べても明らかに士気が低いそうで、まあ史実通りかな?と思わなくもない。

ただ根拠は無いが、史実より悪い気がする。

これではロシア革命が早まるのでは?と俺は少し恐れている。


一方、敵方のオーストリア軍も士気は下がる一方と聞く。

現地からの情報では、長引く戦争で疲弊していた所に日本軍来たるの報に接して、既に相当浮足立っているらしい。

どういう事かと言えば、要するに日露戦争当時、世界最強の陸軍と思われていたロシア軍を、悪条件にもかかわらず、ほぼ無敗で正面から一方的に破った日本陸軍のイメージに怯えているという事だろう。

この当時、ヨーロッパにおける陸軍の精強さのイメージでは① ロシア>② ドイツ>>③ イギリス>④ フランス>>>⑤ オーストリアだったのだから、そのイメージのままでいる人間から見たら日本参戦のインパクトは極めて大きい。

またブルガリア陸軍の士気も同様に低いと聞く。

こちらはベスト10に入る事が出来るかどうか怪しいくらいで、圧倒的に日本軍が格上だろう。

が、彼らに恨みは無いけれど敵にまわった以上、容赦することは無いだろう。


このオーストリアはいわゆる二重帝国だ。

変な国名オーストリア=ハンガリー帝国にその全てが凝縮されている。

こんな変な国名はそうそうない。

これは失政の結果と表現する以外にない。

ハンガリーに対して広範な自治権を認めてしまったことが原因だ。

現在のオーストリア皇帝はフランツ・ヨーゼフ1世。この皇帝の治世は実に68年の長きにわたる。

では、治世が長ければ成果も大きいのかと言えばさにあらず。

ビスマルクには散々弄ばれ、普墺戦争によって「大ドイツ主義」は粉々に打ち砕かれてオーストリアはドイツになれず、ビスマルクによって「馬」扱いされ、挙句の果てにハンガリーに対して、外交と軍事・財務以外の広範な自治を認めてしまった為に、これ以降はオーストリア=ハンガリー帝国と呼ばれるようになってしまった。

この皇帝の行ったことを注意して見れば、「目の前に現れた課題をひたすら処理する」という事だったと気付くだろう。

戦略も100年の計もありはしない。ただひたすら目の前の事だけに対応する日々だ。

それも一生懸命、真面目に。全力で。

モルトケの法則でいえば「無能な働き者」の典型ともいうべき存在で、指導者としては最低の部類に入れられてしまうだろう。


ついでに言えばこの皇帝の亡くなった奥さんは変ったお方だった。

どんな風に変わっているかを説明する為に、敢えて21世紀の日本の皇室に例えると、皇后陛下がある日、明治神宮を参拝したとする。

それ自体はまあいいとして、しかし参拝を終えた皇后陛下が突然「表参道で買い物をしてくるね」などと言いながら護衛をぶっちぎって一人で姿をくらませたらヤバいだろう。

またふらりと「日本全国放浪の旅」に出て、突然どこかの街に一人で現れても国民は困ってしまうだろう。

しかしこのオーストリア皇帝の皇后陛下は平気でそんな事をするのだ。

最終的には無政府主義者によって暗殺されてしまう。

何をしておるのだと言いたいが、多分堅苦しいのが嫌いで自由が欲しかったのだろう。


だが不思議と21世紀でも人気があり、映画やらドラマでも世界的に取り上げられていたし、確かミュージカルの主人公として令和の日本でも公演をやっていたはずだ。

名前をエリーザベト・フォン・エスターライヒという人物だ。通称はシシィ。

しかし幼名は寿限無のようにとても長くて、俺は覚えられなかった。

相当な美人だということも付け加えておく。興味のある人は検索してみてほしい。

例によって同一名の方が10人以上いらっしゃるのだが、俺のせいでは無いからキレないで欲しい。

ちなみに日本ではエリーザベトではなくエリザベートと表現するのが一般的らしい。

だからミュージカルのタイトルも「エリザベート」だったのだと思う。知らんが。

まあハプスブルク最後の輝きといった感じか?


それよりも次回は俺の命に危険が迫る。

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