第88話

「夏向さんいいこと教えてあげますね」

「……え?」

「ももさんね、彼氏さんと別れたんですって」



そう静かに笑う私に

夏向さんの眉がぴくりと揺れる。


無言のまま顔を上げる夏向さんに

私は小さく首を傾げて見せる。



「夏向さん。最後に私のお願い聞いてもらえませんか?」



さらりと笑う私を見つめたまま

夏向さんは何も言わない。



“私、毎日走ってきますから、この坂の上で待ってて下さい。そして最後にいつか私のお願い事を叶えて下さいね”



それは春の桜の木の下。

再会した“始まりの日”に交した一方的な約束だった。


夏向さんが覚えているかは分からない。

だけど私は、いつか叶うと信じて、毎日夏向さんを目指して走った。



好きだった。

本当に、ずっと、好きだった。


離れたくない。

傍にいたい。


本当はその腕の中に強引に飛び込んで、気持ちを丸ごと押し付けたい。



最後に泣いて縋ってそう願ったら

優しい夏向さんは叶えてくれるのかな。


好きじゃなくても、私を受け入れてくれるのかな。



そんな惨めな考えを自分の手で握り潰して

夏向さんの瞳を真っ直ぐ見つめたまま、ゆっくり微笑んだ。



「好きな人にちゃんと自分の気持ち伝えてください」



そう笑って見せた私に

夏向さんが驚いたように目を見開く。


直後気まずそうに目を伏せて

何故かバツが悪そうに夏向さんが呟く。

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