第37話 寝室に発生した国境線

 その日の晩。


「お疲れさまでした」

 ベッドに座り、リドリアは寝室の照明を落として回るアレックスに声をかけた。


「お疲れ」


 ぶっきらぼうに返しながらも、彼の声にも疲労がにじんでいる。

 アレックスはベッドわきのテーブルに近づいた。


 カンテラの調節ねじをしぼり、最小の光にしてアレックスはベッドの端っこに腰かけた。

 それを見計らってリドリアは言う。


「メリッサ王女とモリス王子。うまくいきそうでほっとしましたね」

「うまくいってもらわねば困る。国のためにも、俺たちのためにも」


 彼の表情から察するに、俺たちのために、がほぼ8割だ。


 リドリアは苦笑いしながらも、枕を整えて仰向けに寝転がる。天井が薄闇のために紗を張ったようだ。この視界にも最近慣れ始めた。当初は実家の自室が懐かしいと思ったのに。


「明日からは実際の嫁入りの日取りが話し合われるみたいですね」

「らしいな。早く海を越えてほしい」


 ぎしり、と音を立ててベッドがきしみ、隣にアレックスが横たわる。 

 リドリアは彼に向かって手を伸ばした。


 いつも通りアレックスの手を握る。

 かさりとした質感と大きな手。

 温かい。


 この手を握ると、最近では一日が終わったなぁと思うようになった。

 これも新習慣だろうか。


「今日は悪かったな」

「ん?」


 急に謝られ、リドリアは驚いて若干首をもち上げる。

 隣を見るが、アレックスは仰向けのまま天井から視線を移動させなかった。


「指輪」

「ああ……。別に。あ、でも記念にあのマーガレットは水に浸してますよ。しばらくはもつでしょう」


 ぽすりとまた枕に後頭部を預ける。

 リドリアの左薬指を彩った指輪は、夜会のあと侍女仲間たちに見せびらかした。

 アマンダもセイラも笑ったり冷かしたり。

 そのあと、帰宅してからは水をいれたティーカップに浮かべている。


「明日、時間を見て互いに指輪を直しに行こう」

「そうですね。私は休みをもらえましたから。そちらのご都合のいいときに声をかけてください」


 ああ、とアレックスが応じた。


「では、おやすみな……」

「なあ」


 おやすみなさいと挨拶を遮られる。

 なんだとびっくりする間に、握っていた手を離された。


「なん……です?」


 途端に不安というか。さみしさを覚えた。


 つながっていたのに。

 それはただ、リドリアだけが「つながっている」と信じていただけなのだと思い知らされたというか。


 それはまやかしだと気づかされた。そうだ。そもそもの発端は偽装だったと。


「その、あいつが君の手を握ったじゃないか」

「あいつ? 手?」


 話が読めずに戸惑う。

 わずかに首を横に向ける。

 アレックスも同じようにこちらを見ていた。

 天井ではなく、リドリアを。


「モリス王子」


 忌々し気に吐き捨てる。

 言われてようやく「ああ」と苦笑が漏れた。


「あれは握ったというより、拘束されたんです」

「どっちでもいい」


「大違いですけど」

「なんか、その」


「なんです」

「夫婦だから手を握って眠ろうという話だったと思うが」


「そうですね」

「あいつが君の手を握ったからなんか腹が立って」


「はあ」

「夫婦じゃなくてもできると言われたようで」


「そうですか? っていうかね、さっきも言いましたけど、あれは拘束であって、手を握ったわけでは……」

「だから今日は、抱き合って眠ろう」


「はあ?」

「いや、だから」


 アレックスははっきりと舌打ちした。


「あいつと違うことがしたい。だから今日は抱き合って眠る」

「そう……ですか」


 リドリアはきょとんとしたままうなずいた。なんかよくわからない論理だが、抱き合いたいのならそうしよう。


「じゃあ、はい」


 言ってから、もそりと少しだけ横移動し、リドリアはアレックスの頭を横抱きにした。


 気分的には弟を抱きしめている感じだ。

 だからかもしれない。ちょっとだけフィンリーが幼いころを思い出した。


「……思っているのと違う」


 腕の中で微動だにせずにアレックスが言う。


「え? そうですか」

「だいたい、これは苦しい。あとちょっとで頸動脈を止められそうだ」


「じゃあどんなのがいいんです」

 面倒くさいなぁ、をリドリアは言い換えた。自分でもえらいとほめてやりたい。


「後ろを向け」

「後ろ? 私が?」


「そう」

「はいはい」


 抱え込んでいたアレックスの頭部から手を離し、リドリアはいったん上半身を起こした。


 そして枕をもう一度整えてからアレックスに背を向けて横向きに寝転がる。


「これで……」

 いいですか? と尋ねようとして息を止める。


 背後から。

 ふわりと抱きしめられたからだ。


 大きくて長い腕が自分の身体に回る。アレックスがぴたりと自分の背中にくっついているせいで、彼の鼓動が伝わりそうだ。


 なにより。

 自分よりも広く、たくましいからだに包まれる感覚に心臓まで止まりそうだ。


「これでいい」


 耳のすぐ後ろで囁かれる。

 彼の呼気が首元に流れ込み、それがさらりと自分の肌を撫でる。

 その感覚に少しだけ震えた。


「そ……う、です、か」


 答えながらもこっちはあんまりよくないと内心で思う。

 顔がどんどん熱を帯びていく。

 それがアレックスに気づかれそうでなんとも居心地が悪い。


「いやか?」


 また囁かれ、彼の呼気がくすぐる。「ん」と思わず身をよじった。くすりと笑われ、それが恥ずかしい。

 もう少し距離を置こうとおもうのだが、アレックスの腕がそれを許してくれない。


 困ったな、と思いながらも。


 彼の体温や鼓動や。

 大きな身体に包まれているのは。

 不快ではない。いやじゃない。


 だから。


「いや……というか、その……。安心は、します」

 正直に答えた。


「なんというか。虎の威を借る狐の気分です」

「………………ん?」


 本当に意味不明だとばかりに背後から問い直された。


「いや、だから。こう、虎を背負ってる気分なんです。最高です」


 ほかほかとあったかく、そして大きな虎を背中によいしょと背負い、胸を張って王宮内を歩く自分をリドリアは想像した。


 そうやって王太子妃さまをバカにするやつらを威嚇してやりたい。蹴散らしてやりたい。


「わかります? この気持ち」

「いや、全然」


「うそ! なんで⁉」

「いや……なんで……だろうな」


「じゃ、交代しましょう、交代!」


 リドリアは言うなり、ベッドの中でバタバタと足を動かした。「えええ?」と困惑気味のアレックスを半ば突き飛ばす。ようやく彼の抱擁から抜けだし、上半身を起こした。


 ついで、「よいしょ」と掛け声をかけてアレックスを反転させる。

 自分に背を向けて横たわるアレックスにリドリアは後ろから、ぺたりと抱き着いた。


 必死でぎゅうっと腕を前に回す。なんなら足も使って抱き着くというより、張り付き、しがみついた。


「ね? どうですか?」


 自分の背丈では虎とはいかずとも、山猫プーマぐらいにはなるのではなかろうか。

 そう期待したのに。


「…………うー……ん………」

 困惑を通り越し、狼狽した声が返ってきた。


「ええ? そうですか? じゃ、もっとぎゅーってします?」

「もっとぎゅーっとしたら」


「はい」

「もっとぎゅーっとあたるんだが」


「あたる?」

「胸が」


「は?」

「君の胸がぎゅーっと」


「最低!」

 叫んでリドリアは飛びすさり、真っ赤になって怒鳴りつけた。


「最悪!」

「それ、俺のせいなのか……?」


「ちょ……! なに見てるんですか! もうこっち来ないでください!」

「は?」


 リドリアは枕をいくつかつかみ、アレックスとの間に挟み込んで壁とした。


「越境禁止です!」


 ラブリア王国との国交は円満になりそうなのに。

 リドリアとアレックスの寝室には新たに国境が発生した。


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