第36話 指輪
会場は、中央棟の1階、大広間で行われる。
食事をとりながらの交流が主目的ではあるが、楽団による音楽や朗読劇なども企画されていると聞いた。
主催者は王妃だが。
数時間前の王女メリッサの大遅刻とそのあとの無礼な態度の件でだいぶん疲弊しきっているという。
夜会会場が近づくにつれ、ヴァイオリンを主体とした軽やかな音楽が聞こえてくる。
侍従や執事、メイドたちの数も増えてきてアレックスとリドリアはようやく速度を落とした。
会場の前には衛兵と侍従官が数名おり、リドリアたちを認めて深く頭を下げた。
そのあと、すう、と大きく息を吸い込み、訪いを告げる。
「アレックス・レイディング卿並びにその奥様のリドリア様!」
その奥様、という表現にいまだに慣れない。
はあ、どうも、と妙な合いの手を心の中でいれながら、アレックスにエスコートされてリドリアは会場に入った。
「うわー……。これは……豪華」
ついバカみたいにつぶやいてしまう。
普段は埃除けのカバーがかけられている大きなシャンデリアに光がいれられているのだ。
幾本ものろうそくと、それを乱反射する大ぶりのガラスやカットの凝ったジルコニア。
まるで陽の光を集めて天井に放したようだ。
壁やテーブルにもたくさんの装飾用ろうそくがあり、まるで夜とは思えない明るさでリドリアやアレックスを迎え入れてくれた。
中央にとられた長テーブルには純白のテーブルクロスが敷かれ、銀食器が月光のようなきらめきを見せていた。
「急なことで迷惑をかけたわね、アレックス」
かすれ声に顔を向けると、王妃だ。
思わず言葉に詰まったのは、たった数時間で王妃がどっと老け込んでしまったように見えたからだ。
疲れのためだろう。顔は青白く、呼吸も浅いようだ。本来は王妃がひとりで出迎えるのだろうが、そのそばには王太子妃が控えている。
「いえ、王妃陛下。なんでもないことです」
「あなたは相変わらずね」
王妃は苦笑すると、申し訳なさそうな顔をリドリアに向けた。
「あなたにも迷惑をかけるわね」
「なにをおっしゃいます、王妃陛下。このような場に控えさせていただけること、大変光栄です。王太子妃さまも、ドレスをお貸しいただきありがとうございます」
深々とカーテシーを行うと、王妃は少しだけ目元をやわらげた。
「よく似合っているわ。王太子妃の目利きがいいのね」
「何を着てもわたくしの侍女は似合うのです」
王太子妃がおどけたように言う。ほほ、とようやく王妃は笑みを見せた。
「珍しくアレックスが制帽をかぶっていると思ったら。照れた顔をわたしたちに見せないつもりね」
王妃の言葉にアレックスは制帽を目深にかぶったままわずかにうつむく。ただその首元は赤い。おまけにその隣ではリドリアまで湯気を上げんばかりに耳まで赤くなっていた。王妃と王太子妃はそのふたりをみて「あらあら」とまたひとしきり笑った。
「新婚さんをからかうのはこれぐらいにしましょう。席に」
王妃が声をかけると、侍従が素早くアレックスとリドリアを席へといざなった。
アレックスは手早く帽子を脱ぎ、ついでに襟に指をかけて「暑い」とぼそりとつぶやく。
「背後の窓をお開けしましょう。礼装は暑くて大変ですね」
侍従が言うので、アレックスは服のせいにしたらしい。リドリアは思わず吹き出しそうになるのを必死でこらえながら席についた。
「しまった。我々が最後だったか」
椅子に座ったアレックスがつぶやくのが聞こえた。
リドリアも侍従が引いてくれた椅子に座って室内を見回す。
主賓席にはモリス王子とメリッサ王女。モリス王子の隣には陛下がいて和やかに談笑している。メリッサ王女の隣の空席は王妃のものだろう。
笑顔で国王と話しているモリスとは対照的にメリッサの顔は固い。
というより顔色はなく、彫像のように動きもしない。
(……落ち込んでらっしゃるのかしら)
数時間前に見た光景を思い出して少しだけ胸が痛くなる。たぶん、父親に怒られたことなど人生で初めてだったに違いない。
「いや、まだ先王妃陛下をお呼びしているから」
声に視線を移動させる。
「やあ、こんばんは」
アレックスの向かいに座っている王太子ジョージだ。
言われてみれば、彼の並びにはもうひとつ用意された席があった。
アレックスは目礼をし、ジョージは気さくに手を挙げた。
「忙しいところすまないね。リドリア。今夜のドレスはとても素敵ですよ」
「ありがとうございます。こちらは王太子妃さまよりお貸しいただいたドレスで……。本当に感謝しております」
リドリアが慌てて礼を伝えると、ジョージは少しだけ眉根を寄せた。
「いけませんね、アレックス。妻の服ぐらい一式すべて用意しておかなくては」
「言い訳をするようで心苦しいのですが、結婚してまだ日が浅いもので」
相変わらず抑揚のない声でアレックスが答える。さらにアレックスがなにか言おうとしたのだが、それは別の人物によって遮られた。
「僕ならなにより一番に結婚指輪のサイズを直すけどなぁ」
リドリアはぎょっとして顔を上げる。
モリスだ。
手を伸ばすから背をそらしたのに、無遠慮にリドリアが胸から下げる指輪をつまむから、「ちょっと!」とつい声を上げてしまう。
モリスは愉快そうに笑ってテーブルの端に腰を下ろすようにしてリドリアと向かい合う。
「まだ指にはめてないんだ?」
「だから時間がないんです! というかあの、お席はあちらでは⁉」
油断も隙も無い。
主賓席を見やると、国王は相変わらず表情も乏しく、精彩も欠いたメリッサになにごとか話しかけているところだ。
いつものように機嫌をとっているような雰囲気ではない。あきらかに娘の態度を諫めているようで、見ているのもはばかられたリドリアはそっと視線を外す。
婚約者がいるのだ。いつまでそのような子どもじみた態度をとるのだ。
国王はモリスの手前、そう娘に注意をしているのだろう。
きっとモリスも自分と同様にいたたまれなくなって席を外し、顔見知りのリドリアのところに来たのだ。
そう考えていたのに。
「僕ならすぐにでもこの指に指輪をはめて。自分の妻だと周囲に知らしめるけど」
言うなり、モリスはリドリアの左手を取り、しゅるりと手袋を外して手の甲に口づけてきた。
びっくりして反応が遅れたが、リドリアは慌てて手を引き抜こうとする。
だががっしりとつかまれて抜けない。
思わず舌打ちしかけた。やわらかく握っているように見えて、親指と人差し指で関節を押さえられている。
へらへらとおちゃらけて見えるが、いまだって海軍の礼装を着装している。れっきとした軍人ではあるのだとなんだか思い知らされて気分が悪い。
がちゃり、と。
右隣で軍靴につけた拍車が鳴る。
はじかれたようにリドリアは顔を向けた。
アレックスだ。
彼は立ち上がり、テーブルに腰を乗せてリドリアと向かい合うモリスを無言で睥睨していた。
何も言わないが圧力は感じる。
モリスは無邪気そうな笑みを浮かべてはいたが、さすがにリドリアから手を離した。
ほっとリドリアは彼からつかまれていた左手首を撫でる。押さえられていた関節がいまになって鈍く痛んだ。
あれ、と戸惑ったのは。
モリスが手を離したことでアレックスは着席すると思ったからだ。
だが彼は立ったまま周囲を見回すと、つかつかと壁際に歩いていく。
なんだなんだと興味深く観ていたのはリドリアだけではない。モリスも王太子もだ。
アレックスはそこに飾られていた装飾花を一本引き抜いてくると、ふたたび席に戻ってきた。
「左手を出せ」
一輪だけ。
無造作にマーガレットをアレックスはつかんでいる。
か細く長い茎に対して、白く細長い花弁を円形に広げるその花は、羽を広げたシラサギに似ていた。
「左……手?」
おうむ返しに言いながら手袋をしていない左手を、リドリアはアレックスにゆっくりと伸ばす。
アレックスは無表情のまま細長い茎をくるくると巻き、花冠の下で器用に止めた。
無言のままリドリアの左手を取ると、彼女の薬指にマーガレットで作った指輪をすぽりと通す。
「明日、店に行く。今日はそれを」
それだけ言うとさっさと座ってしまった。
ぽかん、と。
リドリアは自分の左薬指を彩る大輪のマーガレットを見つめた。
みずみずしい真白の花弁は、シャンデリアの光を受けて白銀のようだ。
ぴぅ、と。
小さくモリスが口笛を吹いた。
がたん、と椅子から立ち上がる音に目をやると、ジョージだった。
「アレックス。当然、その花に意味はあるんだよね? それでリドリアにマーガレットを贈ったんだよね?」
「……なんとなく。リドリア……じゃない、リディに似合うと思ったからですが」
アレックスは『なぜそんなことを聞くのか』とでも言いたげにリドリアを見る。
「信じられないな、君は」
憤懣やるかたないとばかりにジョージは頭を抱える。
軽やかな笑い声がすると思ったら、王妃と王太子妃もこちらを見て楽しそうに笑っている。
「なに?」
アレックスがいぶかしむから、リドリアは苦笑した。
「花には花言葉ってあるんですよ。知ってます? マーガレットは、変わらぬ愛です」
ぎょっとした表情を作ったところを見ると、本当になにも考えずにアレックスは選んだのだろう。モリスがおなかを抱えて笑った。
「なんだ。そんなのを知っててやってるのかと思った。意外に洒落てるじゃないか、って」
ひとしきり笑うと、モリスは目じりに浮かんだ涙をぬぐう。
「うちの国でもマーガレットの花言葉は似たようなもんだよ。秘めた愛、だ。とある女神が人間の男と恋に落ちるんだけど、そいつが死んでね。その男へ操を立てるために処女神になる。まあ、だから縁起悪いっちゃ縁起悪いんだよねぇ。寡婦になるから。あ、でも」
くすり、とモリスがいたずらっぽく笑う。
「僕にとっては縁起いいかもねぇ。ワンチャンありそう」
「俺やリドリアが死ぬより先に王子が死んでるかもしれませんよ」
さらっとアレックスが毒を吐き、ジョージが「これ!」と悲鳴のような声を上げた。
「そりゃそうだ。内紛が起こったり、貴国が海を越えてうちに攻めてくるかもしれないしねぇ。僕、軍人だから名誉の戦死とかありそう」
けらけらと屈託なくモリスが笑うが、夜会会場は凍り付いた。
「だからね、そういうことがないように、お互いの王室同士が深く結びついておこうってわけ」
モリスは主賓席に顔を向けた。
見つめているのはメリッサだ。
「君が嫌だとおもう気持ちも理解できるけど、お互い王族に生まれたんだからどうしようもない。国のために生きなければ王族なんて意味はない。それに、君だけじゃない」
モリスは両手を広げて芝居がかった仕草で肩をすくめて見せた。
「僕だって思うところはある。だけど僕なりに君を幸せにしようとは思っているよ」
本当だろうかとリドリアは信じられないところではあるが、モリスはテーブルから離れてメリッサのところまで軽やかな足取りで近づいた。
「だから。もういい加減機嫌をなおしてくれる?」
言うなり、メリッサのそばで片膝をつくと、軍服の胸ポケットからなにかを取り出した。
それは。
きらりと室内の光をおびて豪奢に輝く。
大ぶりのダイヤモンドがついた指輪だ。その石の大きさにリドリアだけでなくメリッサも目を瞠っている。
「僕の可愛いお嫁さん。これからどうぞよろしく」
メリッサの左薬指にはめると、モリスは恭しく手の甲にキスをする。
まんざらでもなさそうな顔でメリッサは指輪を見つめた。
陛下はこの日一番の笑顔を見せ、王妃は頽れそうになったところを王太子妃と侍従に慌てて抱えられた。
やれやれ、なんとかまとまりそうだと吐息を漏らしたリドリアの隣では。
うなだれているアレックスがいる。
「どうしました?」
リドリアは尋ねたのだけど。
ふと強烈な視線を向かいから感じる。
おそるおそるそちらに顔を向けると。
ジョージだ。
「アレックス……っ! 君は……っ! 君は、あれを見ても何も感じないのですかっ。リドリアに申し訳ないとかっ」
珍しく怒りをあらわにして小声でアレックスを叱責している。
なんとなくこのふたりが、先住犬のロングコートチワワとまだ若いシェバードのようにリドリアには思えて笑い出しそうになったのだが。
「いやあの……っ。ぜんぜん、私、これで問題ないですよ」
慌ててふたりの間に割って入る。
そして、誇らしげにマーガレットの花指輪がはめられた左手をジョージに見せた。
「とても、かわいいです。自分でも気に入っています」
それは本心だった。
こうやって生花を飾るのもいいかも。王太子妃にもおすすめしてみよう。そんなことを考える。
そうして。
夜会は和やかに進み、終了した。
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