第25話 次なる偽装
その日の晩。
「大変だ、リドリア嬢」
玄関扉が開いた音が聞こえたと思ったら、神速でアレックスが食卓までやってきた。
「おかえりなさいませ、アレックス卿」
ちょうど弟のフィンリーからの差し入れであるアップルパイにナイフを入れているところだった。
夕飯はアレックスが『買ってくる』というので、昨日もらった優勝賞品のブーケを食卓に飾り、スープ皿や取り皿、カトラリーだけ用意していた。
「あ。夕飯ありがとうございます」
アレックスが両手で持っているココット鍋に手を伸ばす。
「いや、そんなことはどうでもいい。あ、そうだ貴嬢、腕はどうだ」
アレックスは鍋敷きの上にココット鍋を置き、腕に持ち手を通して持っていた紙袋を食卓に置く。こちらはどうやらバケットのようだ。香ばしい匂いがしている。
「やっぱり動かしたほうがよかったみたいですね。朝よりほら」
「まだはちきれんばかりではないか」
「えー。関節見えてきましたよ?」
「ん? そのアップルパイはどうした」
革手袋を外してベルトに通しながらアレックスが言う。リドリアがナイフを入れようとしていたものだ。
「フィンリーが来まして。まあ、来たと言ってもすぐ帰っちゃったんですが」
「帰った? どうして」
アレックスの視線が鋭くなる。なんだなんだといぶかしく思いながらもリドリアは答える。
「私の見舞いと、屋敷に届いた結婚祝いの件で来たようなんですが……。私が寝間着なのを見て、なんか勝手にこう、勘違いして」
「勘違いとは⁉ よもや偽装に気づいたとか!」
「逆です、逆。私とアレックス卿が昨晩仲良く過ごしすぎて。それで私が着替えられないほどこう……疲れたと思ったみたいで」
肩をすくめて苦笑する。
たぶんフィンリーはリドリアが昼間に寝間着でいるのを初めて見たのではないだろうか。
『高熱が出ようが、足が折れようが、僕が起きたときにはいつも服を着ていた姉様が……っ!』
そう言った後、顔を真っ赤にして目を泳がせた。
『そ……その、夫婦仲が良くてなによりだよ』
そう言ってしどろもどろに誰が結婚祝いに来たかとか、品はなんだったかを報告し、アップルパイを押し付けるようにして帰ってしまったのだ。
「よ……よかった。変なほうに誤解してくれて……」
アレックスはどっかと椅子に座り、大ため息をついた。
「アレックス卿がおっしゃったように大使のメイドにも手伝ってもらって寝室や家の中を掃除してもらったので、こちらは偽装が露見することはなかったと思いますが」
肩を落としているアレックスを見、リドリアは眉根を寄せた。
「そちらはなにかあったのですか?」
うぐ、と言葉に詰まったあと、アレックスは大ため息をついた。
「…………親しい近衛騎士のみんなが結婚の祝いをしてくれるらしい。場を設けるからぜひ出席してくれと、今日言われた」
「よかったじゃないですか。行ってらっしゃいませ」
「他人事だが、貴嬢も同席だ」
「なんでそんなの受けたんですか」
途端にリドリアは顔をしかめた。
「どうせ王太子ご夫妻が結婚披露宴を企画してくださるんですから、そこでいいじゃないですか」
「俺だって同じことを言った! だが聞かんのだ!」
「どっちの立場のほうが上なんです」
「むこうだ……。騎士団長が発起人だ……」
「なら……仕方ないですね……」
リドリアもため息をつき、椅子に腰かける。
「面倒くさいことではありますが、お祝いをして下るのは好意からでしょうし。私も同席しますよ? そうなったらなにを着ましょうね」
「着るものなどなんでもいい! 問題は呼び名だ!」
がばりと顔を上げてアレックスが真剣な顔をリドリアに向けた。
「呼び名?」
「世間の恋人同士は愛称で呼び合うらしい。それが愛情の深さを表しているとか」
「そう……なんでしょうかね。え、うちの両親、普通に『おい』『あなた』でしたけど」
小首をかしげたものの、「あ!」とすぐに声を張った。
「王太子夫妻!」
「そうだ……。あのふたりは違う」
絶望した顔でアレックスがうめく。
もちろん公衆の面前で愛称を呼び合うようなことはしないが、私室では互いに愛称を使って愛を語らっていると聞く。
「しかも騎士団長殿のお宅でもそうらしい……」
「なんですか、それ。
「知らん! ということで、近日中に開かれる祝いの席で、俺たちは愛称で呼び合わねばならんのだ!」
「えー! もうなにそれ!」
アレックスとリドリアは顔を両手で覆ってうなだれた。
王太子妃サイドはそんな慣習がないというのに、王太子サイドではいったい何が流行っているのだか。
「俺は貴嬢を何と呼べばいいのだ」
「知りませんよ。えー……。私、両親からも『リドリア』って呼ばれてましたからねぇ」
「頼むから俺の呼べる範囲のものにしてくれ! 騎士団長殿は奥方をスィートハートと呼び、奥方は騎士団長を私の子犬ちゃんと呼んでいるらしい」
「……ひとそれぞれじゃないですか。いいですよ? 私もアレックス卿のことをわたしの仔オオカミちゃんとか呼びますよ?」
「やめろ! 俺は無理だ!」
「あ。そういえば私、おばあ様からは『リディ』と呼ばれてましたけど」
それもリドリアが5歳ぐらいまでのときではないだろうか。祖母も他界し、いまではリドリアが『リディ』と呼ばれていたということは弟も含めて誰も覚えていないに違いない。
「ならば今後は貴嬢をリディと呼ぼう」
ものすごく重々しい声で言われた。リドリアはうなずく。
「で。私はアレックス卿をなんと? 私は別にいいんですかね」
「よくないだろう! なんで俺だけ辱めを受けるのだ!」
「辱めって……。じゃあ、アレックス卿はなんと呼ばれたいのです? 幼名とかは?」
「うちは……長兄が俺のことをアレクと呼ぶからそれでいいんじゃないだろうか」
「アレク、ですか。わかりました」
リドリアはめをまたたかせた。随分と普通だ。
「ですが、もうひとひねりきかせますか? アレッキーとかマイスイートアレクとか。シュガーアレクはどうでしょう」
「いらん! 余計なことはするな! それより今後、ボロがでないようにこの名前呼びを徹底させるぞ。いいか、潜入捜査は常に設定を反復して覚えることが重要だ!」
ということで。
以降、リドリアとアレックスは意味もなく愛称を連呼することになるのだが。
リドリアはともかく、アレックスが呼べない。
「アレク、お代わりはいかがですか」と尋ねれば「もう結構だ。………リ………」と語尾まで発声しない。
「はあ?」と聞き返し、「うるさい! いま練習中だ!」と怒鳴られる日々が続くことになる。
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