第23話 同居生活開始

 その日の晩。


 リドリアはソフィア王太子妃の母国である駐留大使館にいた。


 正確には敷地内に建つ平屋の食卓に座っていた。


 本来はゲストの従者が使用する建屋らしい。

 寝室やキッチン、トイレなど生活に必要となるものはすべてそろっており、また、いつでも使用できるように清潔に保たれていた。


 そのため、ソフィアからの早便が到着するや否や、大使はすべての準備を整え、リドリアとアレックスを出迎えてくれたのだった。


「今日は……嵐のような一日でしたね」


 リドリアが苦笑する。

 小さなキッチンテーブルの向かいにはアレックスが座っている。


 シャツにズボンというラフな姿だが疲労の色が濃い。それはそうだろう。リドリアだってくたくたなうえに、傷まで負って散々だ。


「とにかく早く食って今日はもう寝よう」


 アレックスは平坦な声で言い、パンをつかんで一口大にちぎると、ぱくりと口に運んだ。


 リドリアもうなずいて目の前のスープと黒パンを見た。

 アレックスが急遽買ってきてくれたものだ。


 大使館からは食事の提供も申し出てくれたが、あまりにもそれは甘えすぎだ、とアレックスが固辞。


 リドリアの怪我の状態とアレックス自身の疲労困憊具合を考慮し、王都の飲食街で根菜のスープと数種類のパンを買ってきてくれた。


 その間、知らせを受けたアマンダがやってきてくれてリドリアを風呂にいれ、着替えも手伝ってくれた。


 なにしろ手が動かない。

 利き手が不自由だとこんなにも生活がしづらいとは思いもよらなかった。指先は動くから細かい動きはできるのだが、腕をクロスさせてワンピースを脱ぐ、とか、腕を後ろに回すという動作ができない。


 寝間着に着替えさせてくれたアマンダは、『明日の着替えは旦那様に頼みなさい』と意味深に笑って帰って行った。


 リドリアはため息をついて、黒パンを両手でつかむ。

 痛みをこらえれば、一口大にちぎることはできた。

 それをうまく動かない右手で口に運ぶ。


 とにかく腫れがひかず、皮膚がパンパンなのだ。そのため関節がまったく稼働してくれない。


「おいしい」


 黒パンが予想以上にうまい。ほどよい塩味と、ふわふわもっちりとした食感。普段は皮がパリッとしたものが好きなのだが、今日はいつも以上においしく感じる。


 おなかは空いていたのだろう。よく考えれば、夕飯どきになるこの時間まで飲まず食わずだったことを思い出す。


 沸き上がる食欲のままスプーンを手に取り、具沢山のスープに差し込む。

 持ち上げ、口に運ぼうとしたのだが。


「あいたっ」


 手首を曲げて顔に寄せようとしたら激痛が走った。

 これは手を顔に近づけるより、顔を手に持って行ったほうが早い。


「あの。寝間着なうえに無作法ですがご容赦ください」


 リドリアは眉を下げる。

 アレックスもくだけた服装をしているとはいえ、寝間着ではない。それなのにこちらは色気もそっけもない寝間着というより病衣だ。


 そのうえマナーすら守れない。なんだか情けなくなってきた。偽装とはいえ、妻がこんなのでアレックス卿はいいのだろうか。


「曲がらないのか」

 アレックスは言うなり立ち上がる。


「痛いのは我慢できるんですが、皮膚がパンパンなんです。なんかこう、無理したらはちきれそうで」

「はちきれるって」


 アレックスは眉根を寄せると、椅子の背をつかむ。


「ほら、ボイルしたてのソーセージみたいに。皮が破れて内部から、ぼにょん、と」

「いやな想像をさせるな」


 苦み走った顔で言うと、アレックスは椅子をつかんだまま近づいてきた。


 なんだろうと思う間に、自分の真横に椅子を置き、ついで自分の食器やパンまで運んでくるから驚く。


「ほら」


 目を丸くするリドリアとは対照的に、アレックスは椅子に座りなおすと、リドリアからスプーンを取り上げ、スープをすくって口元に差し出してくれた。


「いや……! あの、大丈夫です! ちょっとマナーが悪くなりますが、こう、顔から行きますし、なんなら動かそうと思えば手首動くので!」


「でも破裂して中身が出そうなんだろう? どうせ数日のことだ。遠慮するな」


 言いながら、アレックスは左手でちぎったパンを自分の口に放り込む。


「野戦訓練とかで負傷した団員にもこうやって食わせるから慣れている」

「は……あ、そう、ですか」


「早く食え。スプーンから垂れる」


 言われて、おずおずと口を開くと、意外にも慣れた手つきで食べさせてくれた。

 ぱくりと唇を閉じると、スプーンを抜くタイミングも抜群だ。


「おいしい」

「それはよかった。ちなみに明日も同じ店で買う予定だ。嫌いなものはあるか」


「ないです」

「それはなにより」


 アレックスはリドリアのペースを崩さずに食事介助をしてくれる。

 時折リドリアが左手で黒パンを口に運ぶときなどは、黙々と自分の食事を進めるのだからすごい。


「あの」

「なんだ」


「お願いがあるんです」

「だからなんだ」


「明日の朝、着替えも手伝ってもらえます?」


 この〝介助力〟ならいけそうだ、と言ってみたのに、アレックスは盛大にむせ返った。


 しばらく顔を背けて激しくせき込んだ後、コップの水を飲み、口元をナプキンでぬぐってからアレックスは断言した。


「それは無理だ」

「簡単です!食介しょっかいより簡単ですから! 裾をこうつまんでもらって、ばさーっと」


「そんなことしたら貴嬢が真っ裸ではないか」

「大丈夫です! 下着つけてます!」


「そういう問題ではない。というか、治るまで仕事は休むんだろう? だったら寝間着そのかっこうでずっといろ」

「病人じゃあるまいし」


「けが人だろう」

 あきれ返られた。


 その後、ひな鳥にエサを与える親鳥なみのスピードでスプーンを運ばれ、リドリアは再度頼むタイミングを失った。


 最後のひと口を咀嚼し終わると、リドリアは「ごちそうさまでした」と頭を下げた。

 アレックスは無言で頷いた後、自分とリドリアの食器を重ねて持ち上げる。


「食器は俺が洗う」

「じゃあ、私が拭きます。指先は動くので。ただ、食器棚に戻せないから……」


「それは俺がやる」

 よかったとリドリアが立ち上がった時、「あ」とアレックスがつぶやいた。


「なんですか?」

「寝室のことだ」

「はい」


 急に動いたせいで、こめかみに鈍痛が走った。なでなでと自分で癒しながらリドリアはアレックスを見上げる。


「ひとつしかない」

「でしょうね」


「ベッドもだ」

「王太子妃さま、新婚夫婦って大使に言ってましたから」


「なので俺はソファを使おうと思う」

「いや、いいじゃないですか、もう。一緒に寝たら」


「貴嬢、よくそれでいままで無事だったな」

「じゃあアレックス卿、私に手をだすおつもりなんですか。不埒なことを?」


「不同意わいせつに興味はない」

「でしょう? 私だって急にアレックス卿に襲い掛かりません」


「襲い掛かるつもりか、貴嬢」

「手がこれだから無理です。だけどアレックス卿がおそいかかってきたら、足だけでアレックス卿の頸部を絞め、窒息させることは可能です」


「……貴嬢ならおそらく可能だろう」

「なので私もベッドで眠りますし、アレックス卿もおとなしくベッドで眠ってください。明日も仕事でしょう? 体力を回復してください」


「俺は寝相が悪いんだが、うっかり首を絞められないだろうか」

「大丈夫です。………たぶん」


 こうして。

 ふたりの夜はふけていった……。

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